114章 ベトサイダの盲人
                                 マルコ8章22~26節
 
                                       【聖句】
マルコ8章
22一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
23イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
24すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
25そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
26イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
 
                        【注釈】
                                          【講話】
人とイエス様
 今回の箇所は、マルコ福音書だけが伝えるちょっとした出来事ですが、これを境にして、イエス様の伝道は受難予告へと移り、エルサレムを目指す旅が始まります。マルコ福音書には、パンの奇跡などのしるしだけでなく、癒しの業をも通して、弟子たちの無知・無明と、これに対するイエス様の嘆きと、最終的に弟子たちの「目が啓(ひら)かれる」までのイエス様の忍耐強い教えが語られています。
 そこで今回は、この盲人の癒しを通して、弟子たちだけでなくわたしたち自身の「目が啓らかれる」こと、すなわち、イエス様を通して与えられる神からの「啓示」について考察したいと思います。
 先ず気がつくことは、この盲人が、「誰かによってイエス様のもとへ連れてこられた」ことです。考えてみればこれは当然で、見えなければ、自分だけで「イエス様のところへ来る」ことなどできません。人は必ず他の人に導かれて、イエス様のもとへ来るのです。でなければ、イエス様の啓示に与ることができません。だから、あなたの目が啓かれた時には、どうぞ、自分がされた通りに、他の人にもしてあげてください。
 誰かに連れてこられたのですから、本人は、なんにも分からない。だから、自分で何かをやることができません。ただ黙って、<されるとおりにする>だけです。ちょうど、病院で麻酔をかけられて手術を受ける時のように、<あなたはなんにもしないし、できない>のです。
 人に連れてきてもらうのですが、「目が啓かれる」時には、そこには人がいなくて、ただイエス様とあなたの二人だけです。だから啓示は、あなたが、人とではなく、イエス様だけといる時に起こります。大勢の集会に出るのもいいでしょう。みんなと一緒に祈ることも大切です。しかし、誰もいないところで、あなたと主様だけになって祈る。この時こそ、あなたに啓示が臨む時です。
お言葉とからだ
 福音書を読んでみると、イエス様は、初めて出会った人に、手を触れることもせず、ただお言葉を発するだけで、その場で直ちに癒しが起こったことも記されています(マルコ2章1~12節)。このように、啓示も、突発的に、人が思いもかけない時に与えられる場合があります。パウロがダマスコへ行く途中でイエス様に出会った体験がまさにこれです。
 しかし、多くの場合は、今回のように、一度で目が啓かれるのではなく、徐々に見えるようになり出し、最後にはっきりと見えるとあるように、段階的に啓示を受けます。実はパウロの場合でも、一度にすべてが啓示されたのではなく、何回かの段階を経て、彼に異邦人伝道者としての啓示が与えられたと見るほうが正しいのです。
 啓示は、先ず何よりも、イエス様のお言葉を聴くことから始まります。ここで「聴く」と言うのは、「言うことを聴く」こと、すなわち「言われる通りに従う」ことです。するとイエス様は、その人の患部に手をお当てになった。まさに「手当」です。知的な人、いわゆるインテリの人たちは、聖書の言葉だけを尊重して、自分の頭で理解することばかり求めたがります。それでも啓示が与えられますが、イエス様は、インテリばかりを相手にしているわけではありません。頭で理解できなくても、体に触れることで、体感させてくださるのです。だから子供でも啓示に与れます。
 目が見えないのだから、自分のほうからイエス様に触れることができません。黙ってイエス様の前に立つ、あるいは座る。そうすれば、イエス様のほうからあなたに触れてくださるのです。あなたがイエス様の前で、勝手に動き回ったり、自分の頭であれこれ考えたりしないで、黙ってなんにもしないならば、イエス様はあなたに必ず「触れて」くださいます。
 ただし、一度で何もかも分かるのではありません。今回の盲人のように、段階を経てだんだんと見えてくる。だんだんと悟ってくる。そして、これが大切なんですが、あなた自身の「患部に」触れることで癒やしてくださるのです。勝手に動かないで、静かにしていれば、医者の手術のように、あなたの一番悪いところに触れて、そこを切り取ってくださる。これを自分の力でやろうと力んだら大変です。自力でやろうとするのは、危ないから止めなさい。ただあるがまま、されるがまま。これが秘訣です。後は、イエス様の御霊が働いて、あなたの「痛いところ」を治してくれます。
 だから啓示は、頭だけの理念や思想や論理ではない。異言の場合のように、体感できる出来事です。ただしお言葉を軽く見ることではありませんから注意してください。聖霊を通じて体験し体感すること、これが神からの「語りかけ」だという意味です。だから、体験・体感そのものは、あなたが感じることであって、それがそのまま「神のお言葉」ではありません。お言葉とは御霊のお働きのことですから、体感・体験を通じて、イエス様それ自体を求める。この心がけが大事です。
啓示の奥義
 前回のパン種のところで、弟子たちは「心が鈍い」とイエス様に戒められます。いったいイエス様は弟子たちに何を求めておられるのでしょうか? パンが何を象徴するのかを悟ることもありますが、パンのことだけでなく、最終的には、<イエス様とは誰なのか?>を悟るようになること、これが求められているのです。人が人をほんとうに理解するのは並みたいていのことではありません。ましてイエス様をほんとうに理解することなど、とても無理です。
 それでも、イエス様に従っていくなら、だんだんとイエス様のほんとうのお姿が見えてきます。すると自分が、「その足の履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ1章27節)ことも見えてきます。次第に、自分が造られた存在であり、自分の前におられる方が、天地の創造主と共におられるお方なのだと分かるようになります。ナザレのイエス様のほんとうのお姿が、このようにして啓示されてくるのです。
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