【注釈】
盲人の癒やし
 今回のベトサイダでの盲人の癒しは、その独特の癒しの方法でも注目されています。しかし、マルコ福音書の構成から見ると、今回の癒しは、それが置かれている位置について注目しなければなりません。なぜなら、ここから、続くフィリポ・カイサリアでのイエスの受難予告が始まり、エルサレムへの旅へつながるからです。今回の癒しは、マルコ10章46節以下の盲人バルティマイの癒しと対応しています。バルティマイの癒しはエルサレム到着直前のことですから、ベトサイダでの盲人の癒しで、イエスの受難予告が始まり、旅の終わりでバルティマイの盲目の癒しが来ます。8章22節から10章52節までが、ガリラヤ以後からエルサレムまでのイエスの旅を構成していて、その始まりと終わりとに、二つの盲人の癒しが置かれているのです。
 さらに今回の盲人の癒しは、先の7章31節以下の聾唖の癒しとも共通するところがあります(手を触れる/唾を用いる/人々から離れて行なう)。聾唖とベトサイダの盲人とバルティマイと、この三つの癒しは、実際にイエスが行なった癒しの方法を生き生きと伝えていますが、それだけでなく、マルコ福音書のこの配置から、そこに作者の意図を読み取ることができます。それは、弟子たちの「悟りのなさ」「霊的な盲目」と、これに対するイエスの戒めです(6章52節/8章18節/同33節/9章19節)。
 このような弟子たちの「心の盲目と聾唖」と、これらの癒やしを関連づけてみると、そこに、実際に行なわれた身体的な癒しだけではなく、弟子たちの「霊盲の癒やし」という象徴的な意義が、これらの癒やしにこめられているのが見えてきます。マルコ福音書全体が、弟子たちを「霊的に教育する」一連の過程として見る説が出てくるのは、このような理由からです。
[22]イエスの一行は、ガリラヤ湖の東南から舟で東北岸へ着いたのです。ここでも人々が病人を連れてきます。ベトサイダはカファルナウムからそれほど離れていませんから、イエスの病気癒やしの評判がこの地方にも知れ渡っていたのです。人々は、ここでも、「イエスに触れる」ことを願って集まってきます。原文は現在形でその様子を描いています。
 文献批評によれば、ここのベトサイダの癒しの話は、マルコ福音書<以前の>ほんらいの奇跡伝承では、この出来事は、6章52節でベトサイダへ向かう途中の水上歩行の奇跡に続いていたことになります。この癒しの後で、6章53節で再びゲネサレトへ戻ったとすれば、6章45節の「ベトサイダ」と同53節の「ゲネサレト」(ガリラヤ湖を挟んで反対側の西にある)との矛盾が緩和されるからでしょう。
[23]当時ベトサイダは、領主ヘロデ・フィリッポスによって要塞都市に造りかえられて、ローマ皇帝の后の名にちなんで「ユリア」と呼ばれていました。イエスは、ガリラヤの場合と同様に、都市を避けて、周辺の村を訪れたのです。ただし、当時のベトサイダは「都市」ではなく、ユリアに捧げた社が建っていただけで、実際は「村」にすぎなかったという説もあります。この説は「ベトサイダへ着いた」とあることと、「村」とあるのを調和させるための説でしょう。
【目に唾を】イエスが癒やしに際して唾を用いたことを伝えているのはマルコ福音書だけです。しかもここでは、盲人の眼に直接唾を入れて、さらに手を当てています。癒しがすぐには生じないで、徐々に治っていく様子も、ほかの癒しの場合とは違っています。「唾」は当時のヘレニズム世界で癒しの効果があると信じられていました。しかし、イエスの「唾」に特に魔術的な意味を見出す必要はありません。現在でも、癒しのために、霊能の牧師が「手を置いて祈ったリボン」を身に付けさせたりする場合があります。これはイエスへの信仰を助けるためで、そこに魔術的な意味を読み取るのは適切でないでしょう。
[24]【見える】原語「アナブレポー」は、「見上げる」と「再び見る」の両方の意味があります。ここではその両方の意味が活かされています。彼は、目を上げて、じっと周囲を見たのでしょう。なお、23節では「眼」(まなこ)が用いられていますが、ここでは「目」です。
【木のよう】原文の意味は「人が見えます。まるで木(複数)が歩いているようです」です。これを「人が見えます。まるで木のようです。でも歩いて(動いて)います」のように読むこともできます。
[25]ここでは、「見通せる」「回復する」「(離れたものを)見つめる」とあって、視力が徐々に回復していく様子が段階的に語られています。動詞の時制は、始めの二つがアオリスト形(過去)で、最後の動詞は不定過去ですから、人や物がはっきりと見え「始めた」ことが分かります。
[26]イエスは、癒しの前に盲人を村から「連れ出し」、癒やされた後では、「村へは入るな」と戒めています。ここでは、人々がわざわざ彼をイエスのもとへ連れてきたのですから、癒しを隠したり秘密にしたりする必要はないと思われますから、これもマルコ福音書独特の「メシアの秘密」を意味するという見方があります。しかし、人々の好奇の目にさらされ、不信仰な人たちからの嫌がらせを避けるためだという説もあります。おそらくイエスは、この癒しのために、大勢の人たちに囲まれるのを避けて、村を離れるための処置だったのでしょう。
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