116章 最初の受難予告
マルコ8章31〜33節/マタイ16章21〜23節/ルカ9章22節
【聖句】
 
■マルコ8章
31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 
■マタイ16章
21このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」
23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 
■ルカ9章
23次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
                        【注釈】
【講話】
■「メシア」と受難
 前回では、ペトロがイエス様の問いかけに対して、「あなたは神からのメシアです」と告白して、それは神がペトロに啓示してくださったのだとイエス様からほめられました。イエス様はペトロを「教会の礎石」と呼んだとマタイ福音書にありますから、ペトロは、内心やや得意だったのではないでしょうか?
 ところが今回は、ペトロの形勢が逆転します。ペトロの告白のすぐ後で、イエス様は、これから一行がエルサレムへ向かうこと、そこには、大祭司を頂点に、祭司長や律法学者たち最高法院の指導者たちがいて、イエス様は彼らによって苦難を受け、その結果処刑されること、しかし、その後ですぐに復活すると予告されたのです。
 この予告は、前回のイエス様からの「ほめ言葉」以上に、ペトロを始め弟子たちを驚かせました。それだけでなく、大変なショックだったろうと思います。なぜなら、ペトロが「あなたは神から遣わされたメシアです」と告白した時、ペトロが想い描いていたのは、かつてイスラエルを支配したあの栄光のダビデ王のように、イエス様が再びイスラエルを復興して、その王座に座り、パレスチナを支配しているローマ帝国からユダヤの国を独立させることだったからです。この思いは他の弟子たちも同様でした。イエス様の頃、「メシア」は、一般にそのようなダビデ的な王権の再出現の意味に理解されていたからです。だからこそ、その「メシア」が、エルサレムで苦難の末に「殺される」などということは、絶対に「あってはならないこと」だったのです。
 イエス様の受難予告は、今回が初めてですから、これを聞いた弟子たちは、「これはいったいどういうことだろう?」と驚いて互いに話し合ったでしょう。そこでペトロは、みんなの代表としてイエス様に「意見しよう」と思ったようです。弟子たちのいる前でイエス様と「口論する?」のはまずいと思ったのでしょうか、ペトロはイエス様をわざわざ脇へ連れだして、「そんなことを言ってはいけません。メシアが殺されるなど、絶対にあってはならないことです」とイエス様を強く「戒めた」ようです。イエス様は、受難のことだけでなく、復活をも予告されたのですが、「復活」のほうは弟子たちに全く理解できず、もっぱら受難とイエス様の死のほうに注意が向けられたようです。
 ところがイエス様のほうは、受難が「避けられない」ことを予知しておられました。それはイエス様が、未来を占う超能力を発揮したと言うよりも、そのご判断の背景に(旧約)聖書の預言があったからです(ルカ24章25〜27節)。だからイエス様は、聖書の預言に基づいて「必ずそうなる」と予告された。イエス様の信仰とその霊性は、当時の「イスラエルの民」に受け継がれていた「聖書の御言葉」で成り立っていたからです。この意味で、聖書の御言葉こそ「イエス様の霊性」そのものだったのです。
 ペトロには、イエス様からの思いがけない御言葉が待っていました。なんとイエス様は、ペトロに向かって「サタン」と名指ししたのです!これはペトロにとって、先の「おほめの御言葉」以上の驚きであり、衝撃だったことでしょう。イエス様がご自分の受難を予告されたのは、人の子イエスが、神から遣わされたメシアであるという<まさにそのゆえ>のことでした。聖書には、メシアが、辱められ苦しみを受けて殺されると預言されていたからです。これが「受難の主の僕」と呼ばれるもので、当時のパレスチナのメシア観には、この「受難のメシア」像も含まれていました(例えばイザヤ書53章)。
 ただし、「神の導き」を、何か運命的なもので、選択の余地のない「避けがたい宿命」のように受けとめてはいけません。そうではなく、人が自ら進んでこれを選び取ることが、神の御心に従う大事な心がけです。ペトロがイエス様に「心から」警告したのは確かでしょう。このようなペトロの「善意」に対して、イエス様から厳しい叱責が与えられたのは、ペトロが聖書に記されている神の御心を理解しなかったからだとも言えますが、それ以上に、ペトロの「無知な善意」こそが、御心に従おうとするイエス様の心を乱そうとする「躓き/邪魔する者」であったことが分かります(マタイ16章24節)。
■人間の思い
 わたしが想像するに、ペトロにとって、この一連の出来事は、幾重もの「驚き」と「衝撃」の連続だったことでしょう。まず、自分の「メシア告白」がイエス様からあのような「おほめの御言葉」を引き出したこと、次にイエス様からの「受難予告」、さらに、ペトロなりにあえて誠意と善意をもって与えた戒めに向けられたイエス様からの強い叱責です。だから、ペトロの視点から見れば、これは心外と驚きと衝撃の連続です。
 人が言ったり行なったりすること、すなわち人の言葉や行状には、これを語ったり行なったりする本人が、全く想像もしなかった「意味」と、それがもたらす「結果」とがつきまとうことを、今回の出来事はみごとに浮かび上がらせてくれます。これが、わたしたちクリスチャンが「神の道」あるいは「神の導き」と呼ぶ不思議です。この不思議は、イエス様の霊能の業や奇跡として言い表わされる場合もありますが、それだけでなく、今回のペトロの言動のように、わたしたちの日常生活の中でもしばしば起こることなのです。
 わたしたちは、日常の生活で、人の語る言葉や行状を様々に「判断」したり、善悪の基準で「意義づけたり」します。ところが、そのような判断や意義づけに、「神からの視点」が入り込んでくると、自分の判断/意義づけが、わたしたちが予想もしなかった、全く別の意味を帯びてくるのを見出すのです。それまで、自分が自ら発した言葉であり、それに対する自分なりの判断であり意義づけであったものが、神から「自分に向けられる」判断であり意義づけに変容することです。この場合、その意義が、自分に与えられる神からの祝福を示すこともありますが、逆に、「悪への誘い」に対する警告となる場合もあります。示された内容が、悪への誘いや罪に陥る手前への警告であったりする場合に、クリスチャンは、その誘惑を「サタンの働き」とか「悪魔の策略」などと呼びます。
 ペトロは、自分に与えられた自信に勇気づけられて、あえてイエス様を「戒め」ようとしました。その結果、イエス様から思わぬ御叱責をいただき、「サタン!」と呼ばれる羽目に陥った。「人の思い」は、神のご計画の神秘を理解できず、このために、知らずして神の敵(サタン)になる場合があります。この場合、「サタン」とは、神の御言葉を奪い取る者のことです(マルコ4章15節)。だからサタンは、ペトロを通じてイエス様に働き、イエス様はペトロを通じて「試(ため)された」のです。
 しかし、試されるイエス様のほうではなく、試す道具にされるペトロのほうに目を向けると、彼は自分がイエス様を試す道具に利用されていることには全く気づかないのです。それどころか、今自分は「とても良いことをしている」、こう思い込んでいます。このこと、彼が現在語ったり行なったりしている言動が、その場において、どのような意義づけを帯びているのかを全く理解できない人、自分が勝手に思い込んでいる意味や意図とはかかわりなく、その言動が、自分の周囲にいる人たち、あるいは、自分がこの世を去った後も、後の世までも及ぼすかもしれないその意味について、これを考えることも予想することもできない人、こういう人が、サタンの道具に利用されるのです。
■ペトロの誤り
 マタイ福音書にあるイエス様からのペトロへの叱責は、「メシアの受難」が避けがたい神の導きであることを最大級に言い表わしています。ペトロは、今し方ほめられたことで、自分に自信を抱いたのかもしれません。しかし、人の思いと神の道とが、いかにかけ離れているのかをこの箇所は伝えてくれます。パウロは、イエス様の十字架こそ「躓き」だと述べていますが(第一コリント2章22〜24節)、今回の場合でも、ペトロは「教会の礎石」から「躓きの石(ペトロ)」に転じました(イザヤ書8章14節/ローマ9章32〜33節/第一ペトロ2章8節)。マタイ福音書は、イエス様によるペトロへの賞賛と叱責をみごとに対照させて、「人間の思い」と「神の思い」との違いをくっきりと浮かび上がらせています。ペトロは、自分の思い、自分の意図だけに自信を抱くのではなく、謙虚になって、神の御心とイエス様の想いを悟るよう祈り求めるべきでした。彼はイエス様に向いて<導く者>ではなく、<従う者>になるべきだったのです。わたしたち人間の信徒代表(ペトロ)は、このようにして躓きの石になりました。
■引き下がれ
 イエス様から「サタン」と言われたペトロは、びっくり仰天したでしょうね。思いがけない御言葉にショックで寝込んでしまいそうになったかもしれません。。ところがイエス様は、その後で不思議なことをおっしゃいます。通常イエス様は、サタン/悪魔に向かっては、これを追い出す御言葉を発します。ところがここでは「引き下がれ」と言われています。これを自分の弟子仲間から出て行けという意味にとる説もありますが、そうではなく、ここでは、「出過ぎた」ペトロに自分の「後に下がれ」という意味で言われたと理解するほうが適切です。イエス様を「諫め」ようと出しゃばったペトロをたしなめて、引っ込ませたのです。
 信仰の世界では、自分に自信ができると、とかくイエス様を差し置いて、自分の思い、自分の考えを神の道だと思い違いして出しゃばる傾向があります。だから、イエス様はペトロを厳しく叱って、後ろに退かせたのです。人はこのように、神様のお導きの前に出ようとして、逆に後ろに引っ込むよう仕向けられます。こういう<出たり引っ込んだり>の中から、だんだんと己の歩みの適切な道を身につけるように導かれるのです。
 だから、「サタン」と呼ばれたペトロですが、イエス様はペトロと「サタン」それ自体とを区別しておられることが分かります。ペトロを救ってサタンを追い出す、これがイエス様のなさり方です。「罪を憎んで人を憎まず」です。愛は多くの罪を覆い、その罪から人をこのようにして贖い出す力を発揮します。これこそがイエス様の御霊のお働きです。
■受難予告の真正性
 ではここで、今回のイエス様の受難予告が、はたして、イエス様の真正な御言葉かどうかについて考察したいと思います。ノゥランドの『ルカ福音書』(WBC9章21〜22節注解)によれば、イエス様のお言葉がイエス様にさかのぼる真正なものかどうかを判定する基準として、その言葉が、復活信仰成立以後の教会にその例証が<ない>ことが証明されることを条件にしています。この条件は、イエス様以後の教会での用語と出来事をイエス様に関連づけることを<拒否する>ことです。ある言葉が御復活以後の教会で用いられていたのなら、それは、イエス様以後の教会の言葉を<生前の>イエス様の口に入れた証拠だと判断して、その言葉の真正性を否定するからです。このために、最初期の教会がある用語を用いたと「考えられる」から、その用語はイエス様にさかのぼるものでは「ありえない」というおかしな立論の仕方が生じることになります。だから、福音書で語るイエス様の御言葉が真性であると判断するためには、その御言葉が、イエス様の御復活以後の教会で用いられて<いなかった>ことを証明しなければなりません。
 基本的に言えば、真正性を「(その用語が)用いられて<いない>」という否定的な根拠に求めること自体が、根本的に誤りだと言えます〔ノゥランド前掲書〕。ある言葉が、それと同時代の人たちによっても用いられて<いる>ことを立証するのは、学問的な立論として正しい方向です。しかし、用いられて<いない>ことを立証するのは、きわめて難しいと言わなければなりません。
 卑近な例をとれば、私市元宏が「泥棒で<ある>」ことを立証するのは、その証拠さえあれば立証できます。しかし、わたしが「泥棒で<ない>」ことを、どうやって立証するのでしょうか? たとえ泥棒で<ある>という<証拠が>見つからなくても、それだけで、わたしが泥棒で<ない>ことの証明にならないのです。なぜなら、わたしは依然として泥棒である<かもしれない>という疑惑が残るからです。
 そもそも、ある福音伝承が初期の教会に受け継がれていたからと言って、その伝承が、イエス様にさかのぼるものでは<ない>と判断する理由には<ならない>のです。だから、ある事なり用語なりが、イエス様以後の教会によって信じられて<いる>からと言って、その事なり用語がイエス様にさかのぼるもので<ない>と見るのは誤りです。むしろ、教会がその出来事なり用語なりを生前のイエス様の言葉や行為から<受け継いでいる>と見なして、それらの出来事や用語を生前のイエス様に帰するほうが<より>適切だと考えるべきでしょう。
  場合によっては、ある用語が、イエス様と同時代のユダヤ教で用いられて<いた>からという理由で、その用語がイエス様によって用いられた<はずがない>と判断される場合さえあります。イエス様の表現は独特だから、ユダヤ教の人たちの言い方と同じである<はずがない>と考えるからでしょう。この立論の仕方は方向が逆です。もしも、その用語がイエス様と同時代の人によって用いられていたのなら、同じ用語をイエス様も用いた。このように推定するほうが、立論の方法としてより正しいのです。
 「預言/予告がありえない」と想定することも同様に学問的ではありません。正しい預言/予告も事後預言(事が起こった後で、それが預言されていたとすること)も福音書のテキストの説明としてどちらも可能ですから、これをどちらかに決めることはできません〔ノゥランド前掲書〕。
 これらの批判とその立論から見れば、「人の子」に関する今回の受難と復活の預言/予告は、最も疑惑に曝されやすい出来事であり、「学問的」だという理由で否定される<痛手を被(こうむ)りやすい>出来事です〔ノゥランド前掲書〕。だから、イエス様の「人の子受難予告」とこれに続くイエス様の叱責は、事の性格上、史的事実に基づくと見るほうがより適切です。このような出来事を初期の教会が創出したとはとうてい考えられません。
 受難予告がイエス様にさかのぼるかどうか?をめぐっては、デイヴィスとアリスンが、これを肯定的に判断する根拠を以下のようにあげています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)661頁〕。
(1)イエス様の頃には、タルグム(アラム語の旧約聖書の訳と注釈)では、ホセア書6章2節は、人間の復活を預言しいると解釈されていました。「三日目」と「三日の後に」は、「短い間」の意味で、この節は、神は義人たちを苦しみの内に長く置くことはしないと解釈されていました。
(2)「人の子」は、多くの苦難を受けるけれども、よみがえると信じられていました。この場合の「人の子」は、個人的な意味よりも、民のために神に選ばれた民の代表としての「人の子」でしたから、イエス様がこの言葉を口にしたのも、新たな神の民の代表として、間接的に自分を指す意味で用いたと思われます。
(3)イエス様の言われる「人の子」は、ダニエル書7章の預言を踏まえていると考えられます。ダニエル書7章では、象徴的な用語と黙示的な啓示を通して、「至高者の右に座す人の子」(13〜14節)が、敵の手に渡されて苦難を受けた後に、王国を受け継ぐことが預言されていると信じられていました。
 これらを考えあわせると、「人の子イエス」の受難と復活預言はイエス様にさかのぼると見ることができます。
                         共観福音書講話へ