【注釈】
■マルコ8章34節以下の構成
受難告知に続いて、今回の箇所では、イエスから始まって弟子たち全体への受難への勧告が来ます。マルコ8章34節~9章1節までは、マタイ16章24~28節とルカ9章23~27節に並行しています。中でも、マルコ8章34~35節は、イエス様語録と重なるだけでなく、マタイ16章24~25節(=同10章38~39節)とルカ9章23~24節(=同14章27節/同17章33節)と並行しています。したがって、マルコ8章34~35節に並行する部分は、マタイ福音書で二度、ルカ福音書では三度も重複してでてくることになりますから、マルコ8章34~35節は、共観福音書全体で6回繰り返されています。マタイ福音書とルカ福音書の重複は、マタイとルカがイエス様語録とマルコ福音書の二つから採った結果だと見ることもできます。なお、ここの重複部分については、「イエスに従う覚悟」として、先に扱いましたので、そこの注釈をお読みください。したがって、今回は、主としてマルコ8章36節以下(=マタイ16章26節以下=ルカ9章25節以下)を中心に見ていくことにします。
■マルコ8章
[34]【群衆を】マルコ福音書だけが「群衆を呼び寄せる」とあります。新たな状況を設定するための挿入でしょうか(マルコ7章14節参照)。だとすれば、弟子たちに対する密かな受難告知から、一般の人々への語りかけに転じたことになります。わざわざ「呼び寄せる」というのは、何か重要なことを伝えるためですから、十字架を背負うという厳しい従順が、内弟子たちだけでなく、一般の人たちに向けても語られていることになります。このような一般性は「誰でも(従いたければ)」とあることでいっそう強められます。
【十字架】この言葉は、マルコ福音書ではここが最初です。十字架はローマ市民以外の平民たちに対する処刑の中でも最も残酷な方法でした。ここで言う「十字架」を字義どおりではなく、様々な過酷な苦難を指すという解釈もありますが、ローマの残酷な処刑を体験してきたガリラヤの人たちにとって、十字架は文字通りに恐ろしい体験を思い起こさせたでしょう。特に、マルコ福音書の読者たちがイエスの十字架を思い起こしたのは間違いありません。
【従いたい者】「わたしの後に」も通常「弟子入り」することですから、マルコ福音書ではこの節で「従う」が三度繰り返されていることになります。34節の後半は共観福音書でほぼ一致しています。「自分を捨てる」とは、自己の利益を離れて、完全にイエスの導きに委ねきることです。一般の人たちへのこの厳しい服従/従順への命令の言葉は、これがイエスの十字架以後になってキリスト教徒たちの間で生まれた伝承だと見るよりも、イエスのほんらいの呼びかけからこの伝承が出たことを思わせます〔フランス『マルコ福音書』339頁〕。
【自分を捨て】「捨てる/否定する」とあるのは、マルコ14章31節の「あなたのことを知らないと言う/否定する」と同じ動詞です。その人と自己との関わりを断ち切ることですから、「自分を捨てる」とは、自分自身にかかわることはいっさい顧慮(こりょ)しないことです(ガラテヤ2章19~20節/第一コリント6章19節)。
【自分の命】「命」の原語「プシュケー」は、「魂/命/自己」のことです。「<自分の>命」とは、内面的な「自己自身/自我}のことです。
[35]ほんらいこの節は、これだけで独立した伝承であったのかもしれません。その独特の内容から、イエスにさかのぼるものでしょう。
【また福音のために】35節は共観福音書で共通していますが、マルコ福音書だけに「また福音のために」とあります。ここの「わたし」を省いて「福音のために(命を滅ぼす)」という異読もあります。マタイ福音書の作者もルカ福音書の作者も、マルコ福音書を踏まえていますが、二人が手にした(前)マルコ福音書では、「また福音のために」がまだ入っていなかったのでしょうか〔『ブルトマン著作集』(Ⅰ)共観福音書伝承史(1)新教出版社160頁〕。そうではなく、もしも二人がこのマルコ福音書の句を省いたとすれば、「わたし(イエス)」と「福音」とが同じ意味を帯びていると考えたからでしょう〔コリンズ『マルコ福音書』409頁(注)113参照〕。
【命を】原語のギリシア語「プシュケー」は、「死んだ状態」に対して「生きている/生存している」状態と、地上を去ってもなお失われない「死後の命/霊魂の命」と、ふたとおりに解釈できます。前者だと迫害にもかかわらず生き延びることを意味し、後者だとたとえ殉教しても「真の命」は失われないことだと解釈できます。ただし、「プシュケー」には、「人格」そのものを指す「自分」の意味がありますから、どちらにせよ、人の人格的な存在/霊性を表わしていると見ることができます。なおマタイ福音書では「それ(命)を見出す」ですが、マルコ=ルカ福音書では「それを救う」です。
[36]~[37]36節は共観福音書に共通しますが、37節はマルコ=マタイ福音書だけです。この部分は、ほんらい「智恵の諺/格言」として一般に知られていたものをイエスが応用したという見方もあります。
【全世界】字義どおりには「この世全部」。共観福音書で言う「世」(原語「コスモス」)は、必ずしも「神に逆らう悪い世」の意味ではありません(ヨハネ7章7節の「世」と比較)。
【命を失う】「失う」と「得をする」は損得勘定を表わす用語で、「失う」は受動態で「損害を被る」ことです。
【代価】直訳すれば「人は自分の命と引き替えに何を渡すのか?」です。「代価」は引き替えに相手に渡す物のこと。詩編49篇6~9節を参照。
[38]この節の前半「神に背く不道徳で罪深いこの時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者」は共観福音書でもマルコ福音書だけです。
【神に背いたこの罪深い時代】原文は「ふしだらで罪深いこの時代/世代」です。「ふしだら」とは「姦淫」の意味をも含みますから、旧約聖書では、夫であるヤハウェを裏切る妻であるイスラエルの民を指します(ホセア4章11~14節/同17~19節を参照)。しかし、ここ38節の「神に背く邪悪な世代」とは、イエスが伝える神の国を拒んで受け容れようとしない人たちの「時代」を指しているのでしょう。
【人の子】「人の子」とはダニエル書7章13~14節にでてくる「神の右に座る人のような者」のことですが、イエスの時代には、この「人の子」は来臨するメシアを指していました。イエスの在世当時、「人の子」には、間接的に「自分」を指す場合もありましたから、イエスがこの「人の子」を口にした時には、「自分」を指すと同時に、それが「メシア」をも意味する二重性を帯びたいたことになります。この二重性が、「わたし」と「人の子」が、同一であると同時に、現在のイエス自身の「わたし」と、将来の「人の子」とのつながり方を分かりにくく、あいまいにしています。38節では、「人の子」が「わたし」(イエス)と同一視されているように思われます。だとすれば、将来天使たちと共に来る「人の子」とは、イエスの再臨を意味することになりましょう。しかし、ダニエル書と共観福音書との違いは、人の子が「父の栄光に包まれて」来るとあるように、神が「父」(イエスの父/人の子の父)と呼ばれていることです。ここで語られていることは、マルコ13章26~27節と14章62節でも繰り返されます。
なお、イエスと「人の子」とはほんらい区別されていて、「人の子」は終末において来臨する「裁き主」のこと<だけ>を指すという見方もあります。そうだとすれば、イエスと「人の子」を同一視したのは、復活信仰以後のキリスト教会になります。このように、イエス自身の「人の子」観は、単純ではありません(コイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「四福音書の人の子」を参照)。
【恥じる】36節の「自分を捨てる」ことと「イエスと福音のために命を失う」ことです。イエスに従わずこれを避けたことが「恥じること」だとして、自己放棄と対照されています。「御名のため 受けし傷跡持たずして 御前にいずる恥 知るや君」
■マルコ9章
[1]この節は共観福音書の間で多少の違いがありますが、どれも直前の「人の子の栄光の到来」を受けています。マタイ福音書では16章28節が27節から直接つながっていますが、マルコ福音書では「また、イエスは言われた」で始まりますから、これをマルコによる編集のための挿入だと見れば、この9章1節は、ほんらい受難予告や十字架を負う覚悟とは別個の伝承だったのかもしれません。しかし、内容的に見れば、この9章1節は、イエス自身の受難予告と、これに続く弟子たちによる十字架の覚悟を受けて、さらにその将来を見通す一貫した主題を形成しています。文体では、「アーメン、あなたがたに言う」で厳かに始めていること、「ここに(立って)いる者たちの中にいるある者たちは」という回りくどい言い方や「死を味わうことが決してない」という重々しい言い方などが注目されています。
【一緒にいる人々の中に】ここで特権に与る人たちが「誰なのか」を知るためには、この人たちがいったい「何を見るのか?」が問われてきます。「神の国が力をもって<到来した>ことを観るまで」"until they see the kingdom of God having come in power"とある「(すでに)到来した/到来している」は完了形分詞です。では、それは「何時」のことなのでしょうか? この点をめぐって、以下に三つの説が考えられます。
(1)イエスは、終末が差し迫っていることを知って、弟子たちの幾人かがまだ地上にいる間に人の子が来臨するのを観ると告げている。
(2)イエスが十字架の受難を経て復活と昇天を成し遂げたその後に、弟子たちの幾人かは、人の子が栄光のうちに来臨するのを観る。
(3)この世の終末の時に人の子が栄光のうちに裁きのために来臨する時に、弟子たちの幾人かは、まだ生存していてその栄光を観る。
(1)の説は、今回のイエスの言葉を差し迫った終末の時への予告と見て、どんなに遅くとも、イエスと共にいる弟子たちの中に、生存したままで人の子の来臨を見ることができるという預言です。これはマタイ10章23節にも通じる内容ですから、イエス自身の言葉にさかのぼる真正性を持つと考えられます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)681頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(2)631頁〕。この見解は、イエス自身が、受難の後にすぐにも再臨すると信じていたとすれば、(3)の再臨説とも結びつくことになります。
この見方だと、イエスと人の子とは必ずしも同一ではないようにも思われます。しかし、イエスと人の子とは同一なのか、別人なのかを厳密に規定する必要は必ずしもないと考えられます。イエスの御霊にあるクリスチャンにとっても、自分とイエスとの関係が、「同じであって同一でなく」「一体であって別である」という状態と類似します。イエスと人の子との関係も、このイエスの御霊とキリスト教徒との類比において理解することができましょう。また、人の子の来臨が、イエスの在世中なのか、復活以後のことなのか、この世の終末の時なのかについて言えば、預言者が未来を「見通す」ヴィジョンは、通常、それ以後の歴史的な段階が重なり合って見えることが多く、将来を時期的に細かく識別するわけではありません。ただし、この解釈だと、はたして実際に、イエスの預言通りに事が起こったかどうかが問われます。この点では、むしろイエスの預言が実現<しなかった>そのことが、逆にこの言葉の真正性を指し示していると理解することもできます。
(2)は、世界の終末において到来する「神の国」のことではありません。マルコ1章15節にある「神の国は近づいた」を受けて、近い将来(「ここにいる人たち」の世代に)必ず御国の到来が実現することを観る/体験する弟子たちがいるという意味です。これは、イエスの受難後にはじめて、人の子の来臨が実現する(「来る」完了形分詞の意味)という解釈です。だからここで語られている事態は、イエスの十字架の死と復活と昇天、これに続くペンテコステの聖霊降臨によって明らかにされる「神の国」の顕現のことです。だとすれば、この受難予告の段階ではまだ「隠されている」神の国が、人々の前に公然と顕われる時を体験する者たちが、「今ここにいる(イエスの)弟子たちの中にいる」ことを意味します。
ただし、ペンテコステの聖霊降臨の時までに「すでに死んでいた」弟子たちは見あたりません。だとすれば、マルコ福音書の作者は、イエス以後の70年に起こるエルサレム神殿の崩壊の時と、その神殿に代わって、新たに建てられた人の子による「神の国」(=神殿としてのイエス・キリストのエクレシア)までをも見通して、弟子たちの中には、<その時まで>なお生き残る者たちがいると告げているのでしょうか〔フランス『マルコ福音書』343~46頁〕〔エヴァンズ『マルコ福音書』9章1節注釈〕。
(3)「来る」の完了形を「神の国が完全に実現/成就した」という意味に理解して、これを世界の終末における人の子の再臨と裁きの時だと見る説です。この解釈は、イエス自身が現在の自分と将来来臨する人の子とを区別していて、したがって、イエスと人の子の同一視は、イエスにさかのぼるものではなく、イエス復活信仰以後のキリスト教会によるものだと前提しています。だとすれば、マルコ福音書の作者は、現在のマルコたちの教会の中で、イエスが再臨するまで死なない者がいると信じていて、自分たちの「今の視座」をば、イエスの言葉としてここに採り入れたことになります〔コリンズ『マルコ福音書』413頁〕。
この解釈は、歴史のイエスの視点とマルコ福音書が書かれた時代の視点とを完全に切り離して、マルコ福音書の時代だけにその視座を定める見方から来ています。この見解によれば、マルコ福音書の作者は、イエスにさかのぼる伝承を保持しつつも、かつてのイエスの言葉を自分たちの現在に重ねようと意図していることになります。だとすれば、ほんらいはイエス在世当時の発言であったものが、新たにマルコ福音書が書かれた時点で編集し直されて、作者の視点から「近い将来の来臨」を期待していることになります。
■マタイ16章24節以下の構成
マタイ福音書もマルコ福音書同様に、24節から新たにイエスが語り始めます。イエスとペトロとの個人的な対話から、弟子たち全員に向けての発言に切り替わるからです。マタイ福音書が語る「十字架を負う覚悟」は、マルコ福音書以上にはっきりと、文字通り十字架を背負って歩むイエスの後から「ついていく」ことを指しています。したがって、失う命は自分の身体的な命であり、得る命は死後の真の永生です。マタイ福音書では、その結果が終末における人の子の裁きによってはっきりと審判されます。
マタイ福音書でもマルコ福音書同様に、十字架の死に対する報いは、窮極の身の証しと栄光です。しかも、その裁きまでの期間が限定されているのもマルコ福音書同様です。ただし、その期間は、「人の子の終末での来臨まで」のことなのか、それとも人の子が御国を伴って来臨する時は、終末の裁きの時から区別されているのか、この点で解釈が分かれます。特にマタイ福音書では、御国は「神の」国ではなく、「人の子の」国です。
マタイ福音書はマルコ福音書を踏まえつつも、次の特徴を帯びています。(1)「望む」「自分の命」「救う/滅ぼす」「人の子」などの鍵語が繰り返しによって全体を構成するように配置されています(下記の私訳参照)。(2)群衆にではなく、弟子たちに語られています。(3)マルコ8章38節が省かれています。(4)結びでは、マルコ福音書の「神の国」の来臨よりも「人の子」の来臨が語られています。
それからイエスは自分の弟子たちに言われた。
「もし誰かがわたしについて来たいのなら
自分を捨てて
自分の十字架を採り
わたしに従いなさい。
なぜなら、
もし自分の命を救いたいなら
それを滅ぼし
自分の命をわたしのために滅ぼすなら
それを見出す。
なぜなら、
人に何の益があろうか?
たとえこの世全部を手に入れても
自分の命を損したならば。
あるいは、
人は何を与えようか?
時分の命と引き替えに。」
〔私訳〕
■マタイ16章
[24]【自分を捨て】マタイ10章33節とマタイ26章26節参照。だから「ついて来たい」は、比喩ではなく、文字通りイエスの十字架の「後からついていく」ことを意味します。マタイ福音書では、この言葉が、マルコ福音書のように一般の人たちへではなく、イエスの弟子(とマタイの教会)に向けられています。
[25]【わたしのために】マルコ福音書の「福音のために」が抜けています。マタイは、「わたしのため」と「福音のため」を同じだと見なしたのでしょう。
[26]【全世界】マタイ4章8節での悪魔の誘惑を考えているのでしょうか。
[27]原文は「<なぜなら>人の子は来臨することが<定められている>」。これは26節を受けて、人の子が自己否定に必ず「報い」てくださること。ここの「来る」の未来形は神の定めた通りになることを現わします(マタイ25章31~40節を参照)。マタイ福音書では、24~26節では「わたし」が用いられていて、27~28節では「人の子」ですから、マルコ福音書やルカ福音書のように、「わたし」と「人の子」とが同じ節にでてくることがありません。マタイ福音書は、現在のイエスと将来の「人の子」とを明確に区別しているのでしょうか? それとも、ここで人の子=イエスであることをより明確にしようとしているのでしょうか〔コリンズ『マルコ福音書』410頁〕?
【父の栄光に輝く】イエス・キリストの再臨の時でしょうか? それとも十字架と昇天以後のイエス・キリストの顕現のことでしょうか?(マタイ28章18節)
【行ないに応じて】「行ない」は単数ですから、その人の「生き方」を一まとめにして見ています。一つ一つの行為に対して賞罰を与えるという意味ではありません。この部分はマルコ=ルカ福音書にはありません。マタイ福音書では、ペトロの告白による「イエスのメシア性」からイエスの受難予告へ、弟子たちへの勧告から弟子たちへの報いへと内容が移行します。
[28]【その国と共に】ここでは、御国は「神の国」ではなく「人の子の国」です。したがって、人の子が十字架のイエスと同一であったことと、イエスが栄光を受けて王座に座った時のことを指しています。ただし、この出来事に続いて山上の変貌があり、イエスの栄光の予兆を弟子たちは観ることになります。したがって、「人の子の国」を観ることになる「弟子たちの中のある人たち」とは、ここでのイエスの発言に始まって、山上の変貌と十字架の後の復活と昇天と、さらにそれ以後も続くマタイ福音書の作者の時までを見通しているのでしょう。
■ルカ9章23~27節
ルカ福音書の構成もその用語もマルコ福音書を受け継いでいます。しかしルカ福音書では、マルコ福音書の「民衆」の代わりに「みんな」が来ています。また、マルコ8章37節~38節前半が省いてあり、マタイ16章27節後半も省かれています。
[23]【ついて来る】ルカ福音書の「後に<従う>」が「後から<来る>」に変えられています。また、マルコ福音書の「自分を<捨てる/放棄する>」が「自分を<否定する>」になっています。
【日々】マルコ福音書とルカ福音書の最大の違いは、「<日々>十字架を背負う」となっていることです。これは、マルコ=マタイ福音書にあるように、イエスの十字架を自分も背負ってイエスに従うとある文字通りの意味から、十字架の意味を比喩的に理解して、わたしたちの日常の生活態度に適用させるものです。ただし、ルカ福音書9章51節から、イエスはエルサレムへ向けて旅立ちますから、この点からすれば、「日々」は、エルサレム(受難)への旅の「日々」の意味にもなります。
[24]ルカ福音書ではマルコ福音書の「福音のために」が抜けていますが、節の終わりで「その命を失う者、<その者は>・・・・・」と強めています。弟子の歩みを襲う外部からの迫害とこれに伴う殉教よりも、むしろイエスの言葉に従う内面的な厳しさと覚悟が求められていると言えましょう。
【命を失う者は】この世の肉体の命と来たるべき世の霊の命との対比/対照を指すというのが一般の解釈ですが、「自己に執着しない」生き方こそ、この世において、己に与えられた命を十全に成就させる道であるという解釈も成り立ちます〔ノゥランド『ルカ福音書』WBC9章24節注釈〕。
[25]【自分の身を】原文は「自分自身を滅ぼす」。24節で言う「命」の意味が、ここでは自己の人格的な在りようであることがはっきりしてきます。ルカ福音書では、この世の富への執着が救いの妨げになるとしばしば指摘されています(12章13節以下/16章19節以下)。ただし、マルコ福音書の「命を買い戻す値・・・・・」はルカ福音書にはありません。
[26]【自分と父と】マルコ福音書では「人の子が、父の栄光に輝いて」ですが、この言い方が分かりにくいと判断したのでしょうか、ルカ福音書では「人の子もまた、彼とその父と聖なる天使たちの栄光に輝いて」へと変えられています。このために、「父の栄光」だけでなく、「人の子の栄光」も強調されています。ルカ福音書は、イエスと「人の子」を「父」を通じて同一視していると言えます(使徒言行録1章11節参照)。
[27]【神の国を見る】ルカ福音書のこの節には、マタイ福音書の「人の子」もマルコ福音書の「力を持って来る」もでてきません。ルカ福音書では、「神の国」がイエスを信じる人たちの間に「すでに来ている」ことが強く印象づけられています(17章21節)。それなのに人々は、なおも「神の国」が「現われるのを見よう」と求めているのです(19章11節)。「神の国」は、観る目がある者には見えるのに対して、見えない者には見えないのですが、それでもいっそう明らかに御国を「観る」ことが期待されているようです。現臨する御国と将来顕現する御国との内実と時期的なつながりは、はっきりとは語られていません。イエスに従う者に求められるのは、「日々」自分の十字架を背負って、御国の完全な顕現を求めて歩むことなのです。