117章 自分の命の代価
マルコ8章34節〜9章1節/マタイ16章24〜28節/ルカ9章23〜27節
【聖句】
 
■マルコ8章
34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか。
37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
■マルコ9章
1また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
■マタイ16章
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。
28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
 
■ルカ9章
23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」
                       【注釈】
【講話】
■自分の命
 今回の箇所の前半は、イエス様御自身の受難予告を受けて、今度はその弟子たちにも同じような覚悟を迫るものです。マタイ福音書ではこの教えが弟子たちに向けて語られますが、マルコ福音書では一般の群衆に向けられています。だから、この厳しい教えは、ある特定の人たちだけに向けられているとは限りません。
 ここで語られているのは、人がどんなに貪欲にこの世の地位や名誉や富や学識を求めても、いつ何時それが無になるか分からないこと(ルカ12章13〜21節参照)、それともう一つ、「自分の命」こそ、何物にも替えられない大事なものだということです。ただし、ここで言う「命」とは、身体の命のことではありません。では、わたしたちの肉体に宿ると言われる「霊魂」のことなのか? と言えば、そうでもありません。古代のギリシア人の考え方ですと、この場合、身体に対して霊魂を指すことになりますが、イエス様の場合は少し違います。旧約聖書では、「命」は現在わたしたちを生かしている命のことですが、この命が、人間のものではなく、<神様から来ている>と考えられました。だから、「命の神」から切り離されることがすなわち「死」を意味したのです。
 「命」が神のものであり、神から贈られてくるものなら、神に従うことこそが生きる道になります。逆に神に逆らい、これに背くことは「死」を意味しますから、このような「神の命」は、動物と同類の生物的な人間の命のことではないのが分かります。だからヘブライでは、神の御前に「正しく生きる」こと、すなわち「義人」こそが「命」に与る人たちで、罪人は、神様の命に与ることができないことになります。
 このように考えると、イエス様がここで「自分の命を捨てる者はこれ(命)を得るが、自分の命を守ろうとすれば、かえってその命を失うことになる」と言われた意味が理解しやすくなるかもしれません。命が神からのもので、神に従うことが生きることなら、神に従った結果、たとえ「殺されても」、それは「死」ではなく「命」の道につながることになります。逆に、たとえ肉体の命を守っても、それが神に背いた結果なら、そのような命は「生きた証し」にはならないことになります。
 前回では、ご自分の受難を予告したイエス様に向かって、ペトロがイエス様を戒めようとしました。すると、イエス様は彼を「サタン」と呼んで、厳しく退けられた。イエス様が言われる「自分を捨てる」とはどういうことかを、このペトロへの叱責が教えてくれます。イエス様にとって「生きる」とは「主なる神に生きること」であり、「死ぬ」とは主なる神を失うことです。わたしたちクリスチャンにとっても、「生きる」とは「主にあって生きる」ことであり、「死ぬ」とは主であるイエス様を失うことです(ガラテヤ2章20節/フィリピ1章21節)。けれども、これはとても厳しい「生き方」です。普通の人は言うまでもなく、クリスチャンでもなかなか「主にあって生きるために自分に死ぬ」ところまでは行き着くことができません。だとすれば、罪深いわたしたち、イエス様の贖いと罪の赦しに生きるわたしたちは、いったいどうなるのだろう? こういう不安がよぎります。神の憐れみとイエス様の恵みによって「自分の命」がはたして保たれるのだろうか?と心配になるのも無理からぬことです。
■人が生きる値打ち
 今回語られている「人の命」とはなんだろうと考えると、これはどう見ても、身体的、生物的な命のこと<だけ>ではないようです。生物的な命を超える<霊的な>命、人を人格的にその人たらしめている値打ちですから、これは<命の価値>にかかわることです。「人を殺しては、どうしていけないの?」子供にそう聞かれたら、どう答えますか。子供はここで、<命の価値>を尋ねているのです。だから<霊的な命>とは<真の命>のことで、それは人間の価値観にかかわることなのです。「生きる」そのことに含まれている意味と価値こそが、ここで問われていると思うのです。
 例えば、松江の青谷(あおや)の和紙作りの職人さんや、香川の丸亀の扇作りの職人さん、能登の輪島の漆器作りに携わる職人さんたちは、地味な仕事をこつこつと何十年も続けておられます。この人たちに共通するのは、名誉や地位や富には関心がなく、伝えられた技術を何年もかかって習得して受け継ぎながら、それでいて常に創意工夫をこらして、何か新しい作品を<創り出そう>としていることです。人まねでもなく、伝えられた仕事を繰り返すだけでもなく、そこから何かを創造しようと努力する営み、これが、人間にとって一番大事なことであり、人間の生き方の「値打ち」だと思うのです。
 人は結婚して子供を生んで育てます。今までどこにも存在しなかった「人間」が現われるのですから、創世記にあるとおり出産は驚くべき創造の業だと思うのです(創世記1章28節)。しかも、生まれた子供を育てることは、多大の労力と親の自己犠牲を伴います。親の尊さとは、この自己犠牲の愛情のことでしょう。この営みは人間に限らず、生物全体に共通することですが、わたしは「いのち」の尊さとは、この「自己を捨てる」営みにあると考えます。
 これほど地道で欲得のない「自己犠牲」は、これ以外に、人間の営みの中では見ることができません。だとすれば、創造すること、常に新たに創造し続けること、これこそ、そこに含まれる努力と自己放棄/犠牲と共に、人が生きる命そのものだと言えましょう。創造は自己放棄と犠牲を必要としますが、その自己放棄と自己犠牲が、<自発的に>行なわれること、しかも喜びを伴って<自由に>行なわれること、これこそが、創造の営みの真の尊さです。この「自由な創造の喜び」こそ、人の命であり人が「生きる値打」だとわたしは考えます。
 今回の35〜38節で、イエス様は、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」と言われてから、続いて「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか」と言われています。「失うことによって得られる命」というこの不思議な命とはなんなのか? これを解く鍵は「わたし(イエス様)のため」にあります。「イエス様のために命を失う」とあるこの「命」は、パウロに言わせると「肉の自分」のことです。だからパウロは、「生きているのはもはやわたし(エゴー)でない。キリストがわたしにあって生きておられる」(ガラテヤ2章20節)と言うのです。
 イエス様の御霊にある愛は、わたしたちをこういう所へ導いてくださいます。だからこれは「狭い門」です、その道は「細い」です。そこから入る人が少ないのは当然でしょう(マタイ7章13〜14節)。だから多くの人は、そこから「広い門」のほうへ向かうか、門の前から引き返して戻ってしまうのです。せっかくイエス様の門の前まで来ていながら、そこから別のほうへ向かったり、引き返すのです。「そんなことだれができるのだろうか?」(マタイ19章25節)と言って、それ以後、御霊の御臨在に従うのを止めてしまう人がいかに多いことか!残念です。でも仕方がない。だれだって、自分の命を捨てることなどできませんから。
 ところがイエス様は言われた。「それは人間にはできない。でも、神様にはできる。神様はなんでもできる」(同26節)と。だからこれは人がやろうとしてできることではありません。イエス様の御霊に己を委ねきるところに初めて生じる事態だからです。だから「従うことができる」そのことが、実は大きな恵みなんです。頑張ったり、努力したりする必要はありません。黙ってそのまま「ついていく」。ただそれだけです。イエス様の後からついていくだけでいいのです。それ以外は全部神様のほうがやってくださいます。キリスト教とは世にも不思議な宗教です。「人間のエゴ」という、一番大事なところを捨てるのですから、こんなに難しくて困難なことはありません。しかも、こんなにも難しく困難なことを、なんと世界の30億とも40億とも言われる人たちの宗教なんですから。内容の難しさと広がりの大きさ、これは二重の不思議です。とうてい人のできることではない。まさに神業です。
 自分のエゴを捨てることなど、自力でやれることではありませんから、やろうとしてはいけません。黙ってイエス様に任せる。ただこれだけです。すると不思議に御臨在の御霊が働いてくださる。地上に生きている今の自己に起こることですから、これができるのは、かつてわたしたちと同じ<人間になられた方>の御霊のお働きだけです。御復活のナザレのイエス様、その方の御霊だけができることです。まな板の上の鯉。手術台の上の患者。静かに聖霊のお働きを待つ。そしてこの御霊のお働きに従う。だから「従う」は「留まる」こと。「留まる」は「動かないこと」。「動かない」は、ものすごい御霊のお働きを受けることですから、すごいダイナミックな力です。「霊能」は、ここでは静かな「霊性」につながります。受動かつ能動。能動的な受動です。積極的な自己放棄です。自発的な自己否定です。これこそが、創造的な自己否定の極意です。
 イエス様は、「サタン」の賢(さか)しらな意見や、心ない人たちからの誤解や嘲笑にもめげることなく、自ら進んで十字架を負い、自ら望んでその道をお選びになった。このイエス様こそ、<人の生き方の真の値打>と、人の命の尊さを体現された方です。このイエス様が、今、御復活の御霊となられて、わたしたち一人一人をご自分の生き方へ導いてくださる。自分の肉体の命を含めて、<すべてを捨て去って>イエス様と共にこの世を歩む生き方へ誘ってくださる。そうすることで初めて、永遠に失われない命が人に宿ることが、その人に示されるからです。教会堂もなく、牧師もいない。ビルの集会場を借りて月に一度集まって、賛美し、祈り、お言葉を読む。ただそれだけのコイノニア会のようなミニ集会も、フランスとイタリアとスイスの国境に近いアルプスの山麓にあるグランド・シャルトルーズ修道院(ドイツの修道士ブルーノによって1084年にカルトジオ会の修道院として創設)の人たちも、この点では全く同じ生き方を目指しているのです。「すべてを捨て去ってイエス様にお従いする」この一事です。
■イエス様の受難と復活
 イエス様の受難についてもう少しわたしなりの考察を深めたいと思います。わたしたち日本人にとって、「受難」と言えば通常「非業の死」を思い浮かべます。正しい人、罪のない人が、なんのいわれもなく殺されたり死に追いやられたりする場合です。だから、受難に遭った人たちは、そのほとんどが怨念を抱いて死んでいきます。これが、死後の怨霊となって現世の人たちに祟りを及ぼす。こう考えられていました。このために、死者の怨霊を鎮める目的で神社を建てて祀ったり、寺で供養したりします。聖徳太子の場合は法隆寺がこれにあたり、菅原道真の場合は北野天満宮がこれにあたります。この場合、犠牲にされた怨念を鎮めるために祀るのは人間の側からの行為です。イエス様も、ファリサイ派の人たちに、あなたたちの先祖は、預言者たちを殺してから、彼らの墓を建てていると批判しています。
 ところが、イエス様の場合の受難はどうもそうではないようです。洗礼者ヨハネの殉教では、弟子たちはその遺体を引き取って胸を打って悲しんだとあります。イエス様の場合も、これに似た表現がないことはないのですが、それよりもむしろ、終始一貫して弟子たちを始め周囲の人たちの「驚き」と「意外性」のほうが強く伝わってくるのです。弟子たちは、最後の最期まで、どうしてイエス様が十字架の死を遂げられたのか、その理由が全く理解できないでいます。現代の文献批評や学者たちは、そこにいろいろともっともらしい理由を付けてイエス様の死を説明しようとします。しかし、わたしの見るところ、そういう理由づけは、イエス様のほんとうのお心の内を正しく見抜いてはいないように思われます。前回のイエス様によるペトロへの叱責にもはっきりと表わされているように、イエス様は、終始一貫「自ら進んで」十字架の死へ赴かれたとしか考えられません。この点を一番明確に記しているのがヨハネ福音書です(ヨハネ10章18節)。イエス様は、自ら進んで、ご自分の命を捧げておられます。これが、弟子たちを始め、周囲の人たちを驚かせ、躓かせたほんとうの理由だと考えられます。
 だから、イエス様の死後もイエス様を知る人たちは悲しんだけれども、「非業の死を悼む」という様子があまり見受けられないのです。また、イエス様を葬りその死を悼むことはしていますが、それ以上のことは考えられていないように思われます。そこへ、突然に、イエス様の復活顕現が生じるのです。だからこれは、人間の側から社に祀ったり、怨霊を鎮めたりしようとしたのではない。全く人の側からではなく、<向こう側から>御復活が啓示されるのです。パウロへの顕現の場合がその典型です。しかもその復活顕現が、大きな喜びを伴っているのです! イエス様は、人間を奴隷にしようとする深い闇の力、神の御心による正しいことを阻もうとする罪の力、人を殺そうとする死の力、こういう霊力に打ち克って、わたしたちを死と闇と罪の力から救い出してくださる。このために、ご自分を犠牲として献げられたのです。十字架の贖いの御業を成し遂げられたのです。
 このように見ると、イエス様がご自分で自ら選び取り、進んで十字架の道へと向かわれたことと、これに続くのが、人の側からの鎮魂や哀悼ではなく、向こう側から突然に啓示される喜びを伴う復活であるところに、イエス様の御殉難と御復活が、人類史上空前絶後だとされる理由が分かります。イエス様は、この意味で、人類の歴史に全く新しい<創造的な死>を誕生させた。こう言えると思います。それが復活の命につながる「死」の真の意義です。
■人の子が来る時
 今回の箇所でもう一つ問題になるのは、結びの所で、「神の国が現われる」(マルコ福音書)「人の子が神の国と共に現われる」(マタイ福音書)とあるのは、いったい何時のことなのか? とうことです。ギリシア・ロシアの東方正教会もラテンのカトリック教会も、次回に来る「山上の変貌」の時こそ、ここで言われている「神の国が現われる」ことだと判断したようです。だとすれば、「弟子たちの中の」ペトロとヨハネとヤコブの3人だけが、イエス様の御国の顕現に与ったことになります。これが宗教改革の時代になりますと、イエス様の復活と昇天とペンテコステの聖霊降臨の時までだと解釈されたようです〔ルツ『マタイ福音書』(2)642頁〕。しかしそれ以後には、終末のキリストの再臨の時を指すという解釈が有力になりました。
 イエス様から見るなら、変貌も復活も昇天も聖霊降臨も、終末の再臨も、すべては未来のことです。旧約の預言者たちもそうですが、未来への預言は、その時代時代が区別して顕れるのではなく、全体がひとまとまりになって見えてくる。わたしたちが空の星を見るように、比較的近い星も、宇宙の遙か彼方にある遠い星も、それらの光が地球に届く時間的な差にかかわりなく、全部が同じ平面に見えてくるのです。預言者たちが見たメシア預言のヴィジョンは、イエス様の来臨を予告するものでした。それらのヴィジョンは、イエス様が到来するまでに生じる様々な出来事を同時に重ね合わせて預言しています。だからそれらの出来事はメシア到来の予兆です。このような予兆となる出来事を「予型」(タイプ)と言いますから、預言者たちは、それ以後の出来事をタイポロジー的にメシアの到来まで見通していたことになります。イエス様の場合も同じで、イエス様は、それ以後に起こることすべてを、イエス様の再臨にいたるまでを、タイポロジー的に予告しておられたのです。
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