118章 山上の変貌
マルコ9章2〜10節/マタイ17章1〜9節/ルカ9章28〜36節
【聖句】
■マルコ9章
2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
 
■マタイ17章
1六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
 
■ルカ9章
28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。
30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。
31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。
33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。
34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。
35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。
36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。
                        【注釈】
【講話】
■解釈の歴史
今回のイエス様の変貌記事は、古来いろいろに解釈されてきました〔ルツ『マタイ福音書』(2)664〜68頁〕。
(1)ギリシアやローマ、その他の神々の神話に比べて、イエス様こそが父なる神の独り子であるから、この地上におられた間でも神の栄光に与っておられた。このことが3人の弟子だけに啓示されたと解釈されました。第二ペトロ1章19節には、今回の出来事が「確実な預言の言葉」だとあります。これは、「天からの声」だけでなく、変貌の出来事それ自体が「預言」だという意味です。イエス様が地上に来られたことが<最初の来臨>なら、今回の変貌は、イエス様の復活顕現を予兆するだけでなく、その再臨への「確かな預言」だと見なされたのです。
(2)2世紀頃になりますと、山上の変貌は、イエス様を信じて救われたクリスチャンの<死後の状態>を表わすと受け止められました。イエス様を信じて眠りについた者たちが、死後どのような栄光の姿に変じるかを描いていると見なされたからです。特に今回の出来事が<弟子たちの視点から>描かれていることから、このような受け止め方がされたのでしょう。
(3)さらには、イエス様を信じる人たちが、祈りと賛美を通じて、この地上にあって神性に与ることができることを啓示している、という解釈があります。このような<人間存在の変貌>は、16〜17世紀のルネサンスの頃まで続いています。ルネサンスの頃には、この変貌が人間の「美徳」と深く結びつきます。英語の"virtue"(美徳)は、ラテン語の"virtus"(ウイルトゥース)から出ています。「ウイルトゥース」には、「勇気と剛健」だけでなく「価値/道義/道徳」という意味があります。しかもこの語には、「その力を発揮する」という意味も伴うのです。ちょうど薬が身体に「効き目」"virtue"(美徳/効き目)を現わすように、神の霊による「美徳の力」が、修行を積んだ人間の身体的存在そのものを<変貌させる>と信じられたのです。イギリスの詩人ミルトンなどは、聖なる純潔によって、人間存在が「エーテル」という不思議な気体に変質して、その窮極の姿で天に昇ると本気で考えていた節があります。
(4)教父クリュソストモスは、今回の変貌について「イエス様は、ご自分の神性を少しだけ開いて、イエス様の内部の神性を弟子たちに示した」と言っています。ルターは、イエス様が「栄光の姿において御子を、天からの声において父を、光り輝く雲において聖霊を」、すなわち三位一体を弟子たちに啓示されたと解釈しました〔ルツ『マタイ福音書』(2)664〜65頁〕。
 現在でも、今回の変貌は、地上に居ながらにしてイエス様の天的な霊性が啓示された出来事だとするのが、最も一般的な解釈です(フィリピ2章6〜9節参照)〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)704頁〕。これはヨハネ福音書の序の言葉「あなたたちはその栄光を観た。父の独り子の栄光であって、恵みと真理に満ちていた」とあるのとも一致します(ヨハネ1章14節)。
■解釈の視点
 山上の変貌記事は、これを送り手(共観福音書の作者たち)と聖書本文それ自体と、受け手(わたしたち読者)の三つの視点から見て初めて、これを総合的に把握できます。
(1)この物語の送り手たちは、これがイエスの在世当時に、フィリポ・カイサリアで起こった出来事であることを伝えようとしています。だから、ここに書かれていることは、そのまま御復活以前のイエス様に起こったことであり、ペトロとヤコブとヨハネだけが、これを目撃する証人に選ばれたことになります。
(2)しかし、変貌記事の本文を読みますと、この出来事が、イエス様のほかの出来事と結びついているのを読み取ることができます。一つは、変貌の際の天からの声とイエス様の洗礼の時の天からの啓示の声です。二つの天の声は、イエス様の変貌がその洗礼と対応しているのが分かります。次に、ここの変貌が、イエス様御復活の出来事と対応していることです。変貌記事それ自体がほんらい復活の記事であったのではないかとさえ言われます。しかし、御復活にモーセとエリヤは出てきません。御復活は、変貌に見るような<輝く栄光>を伴って描かれていません。また、語り方も御復活と変貌では、ずいぶん違っています。イエス様の洗礼と御復活が今回の変貌の出来事と関連づけられることは確かです。なぜなら、イエス様に働いておられる聖霊がイエス様を復活させたかみのみたまだということは、イエス様の御復活以後になって初めて弟子たち全員にわかったことですから。しかし、マルコ福音書やマタイ福音書がこの変貌の出来事で伝えようとしているのは、変貌は、イエス様の御復活のことではなくて、それが、イエス様がまだ地上におられた時に、イエス様の霊性がモーセやエリヤの神の御臨在を顕わすものであること、そのことが三人の弟子たちに啓示されたことなのです。だからイエス様は、「わたしが復活するまでは、あなたがたが見たことをほかの弟子たちにさえ話してはいけない」と命じられたのです。マルコ福音書はイエス様がメシアであることを最後まで秘密にしていたと言われています。しかし、それなら、地上のイエス様はただの人間であって、復活して初めて神の霊性を表わす者とされた。こう誤解される恐れがあります。そうではなく、地上で使徒たちを過ごされていたすでにその時に、イエス様の霊性には神ご自身の聖霊が働いていたこと、<そのことが>三人の弟子だけに啓示されたのです。これがマルコ福音書の作者の意図です。
(3)今度は、わたしたち受け手のほうです。これにはいろいろな立場(解釈)があります。これを作者たちの意図したとおりに、イエス様の生前に起こった出来事だと見ることができます。あるいは、ここで描かれているのは、弟子たち、とりわけペトロが幻想的に見たヴィジョン、つまり、ペトロの心理的な幻視を描いたという解釈もあります。あるいは、これは生前のイエス様に起こった出来事ではなくて、イエス様御復活の顕現を記者たちが誤ってか、意図的にか、イエス様生前の出来事として組み込んだ。こういう見方もあります。
 現在では、弟子たちと変貌を結びつける解釈は影を潜めています。変貌がわたしたちとどのように関係するのか?と問うことはしないで、その代わり、変貌記事の出所はどこか? とか、この記事に影響を与えている出典はなにか?とか、その思想史的背景や、せいぜい、弟子たちの心理学的な考察が試みられる程度です。
 このように、地上におられた間のイエス様の霊性とそこに生じた霊的な出来事は、これを客観的に、言い換えると歴史的に実証することができません。イエス様の霊性とこれがもたらす霊的な出来事は、その性質上、新聞が伝えるような外から見える出来事ではないからです。 外からは、せいぜい、病人が癒やされたとか、悪霊が出て行ったとあるように、見える部分しか伝えることができません。福音書が伝えるイエス様の出来事は、イエス様を通じて働く聖霊の御業ですから、その御霊それ自体の有り様は、霊的に察知する、悟る、洞察するほかには、知ることができないのです。だから、今回の出来事も、三人だけに顕わされましたが、ほかの弟子たちからは隠されているのです。
■「変貌」の意義
 わたしはここで、変貌記事の意義を考察したいと思うのですが、その際に、イエス様を信じる者に生じる「変貌の意義」に注目したいと思います。人間は、御復活のイエス様の霊性に接することで、人間存在の様態そのものが変貌/変化させられるのではないか? という視点です。今回の記事が弟子たちの視点から描かれていることも、このような考察へ向かわせる要因です。
 ギリシア・ロシアの東方正教では、6世紀以降、今回の変貌の出来事は「メタモルフォーシス」(変貌)の祭りとして1月6日に祭日礼拝として守られてきました。それは、イエス様の地上での変貌を祝うだけでなく、イエス・キリストを信じる人たちもまた、「復活の現実に神秘的また希望的に参与する」ためです。弟子たちは、イエス様の変貌に接することで、それまで知られなかった新しい神性がイエス様に宿っていることを体験したのです。
 山に登ることも、6日間歩いて遠く離れることも、この世から別の世界へと移行することを意味します。だから、古代教父の時代から宗教改革の時代にいたるまで、変貌の出来事は、「わたしたちの本性もまた、自然のものから超自然のものへと変容する」ことの証しであり、弟子たちは、「肉的な生涯を終える<それ以前にも>、すでにある程度、肉から霊へと達していた」と見なされました。このように、変貌は、イエス様のことだけでなく、イエス様につき従った弟子たちのことでもあったのです。だからわたしも、昔からの伝統的な解釈にこだわりつつ、そこに自分なりの光を当ててみたいと思うのです。
■品物の意義と価値
 ヴァレンタインの日に、彼女から贈られた本命のチョコレートは、これを受け取った男性から見れば特別な意味を帯びていますから、店で売っているほかの同類の品物と同じではありません。天皇陛下が訪れて校庭に植えた木は、その学校にとってほかの木とは違った意味を持っています。有名選手が身につけていたユニフォーム、女王陛下の愛用品など、物それ自体は同類のほかの品と変わらなくても、誰か特別な人物と結びつけられると、このように、そこに新たな価値が生じるのです。品物は、このように人と結びつくときに<違った意味と価値>を帯びます。現在の科学的な視点から客観的に見れば、贈られた品物と店に並んでいる品物との間に、なんの変わりもありません。しかし、物質的な存在は、これが<人間と結びつけられる>ときに、そこに独特の意義と価値が生じるのです。言い換えると、ほかの同類の品物にはない<神話性>を帯びるのです。
■人間の変貌
 ただし、神話性を生じる働きが、物質ではなく、直接「人間」に及んでくると、その人自身にある種の「変化」を生じさせます。それまで、「あまり見栄えのしなかった」人物が、一度(ひとたび)権力の座に就くと、「人が変わったように」振る舞うのは、わたしたちが日常体験していることです。周囲の人たちの接し方や評価がその人物に影響を及ぼすからです。神として崇められたり、偶像(アイドル)化されたりすると、人は確実に「変貌」します。
 クリスチャンの体験も、このような「変貌」と通じるところがあります。ただし、クリスチャンに変貌を生じさせるのは、人の評判や名声ではなく、聖書の御言葉、とりわけ「イエス様の御言葉」です。ただしこれも、人が人に向けて語る言葉が、語られた相手を変える場合を思い出せば、不思議でも珍しいことでもありません。
 人が苦境に立たされたり、生きるか死ぬかの瀬戸際にある時に、聖書の御言葉に接したりイエス様の御言葉が語られるのを聞いて、その言葉が、まるで生き物のように不思議な力を帯びて聞く人の心に響くと、思いがけない大きな転換が生じることがあります。こういう体験は、クリスチャンならだれでも見聞きしたり、自分自身で体験していることです。
 わたしが御復活のイエス様に出会うと言うのは、このような体験を指します。現在もなお「生きて働いておられるイエス様」からの語りかけを聴き取る人にこの変容が生じるのです。イエス様に触れる、あるいはイエス様に出会うことによって、その人が「変わる」のです。それまでとは異なる自分を自分の内に観るという新たな「自己発見」が与えられるのです。御言葉は霊的な人格を帯びて働きますから、イエス様の御言葉が人に働きかけると、その人にこのような変貌が生じるのです。
■人間と超自然性
 ここまでは、クリスチャンでない方でも、ある程度「合理的に」納得できると思います。しかし、問題は<その次の>段階です。なぜなら、イエス様の御言葉は、あるいは聖書を通じて語られる「神の御言葉」は、通常の人間存在では不可能な「超自然」の世界へ人間を<移し替える>働きをするからです。この問題は、例えば「敵を心から愛する」ことが、人間ほんらいに具わる自然な性質なのか? それとも自然な人間には不可能な超能力なのか? という疑問とも関連します。今回のイエス様の変貌は、<このこと>をもわたしたちに啓示しています。
 しかし「超自然」と言っても、人間の「自然な」存在と必ずしもかけ離れているわけではありません。なぜなら、聖書が伝えている「超自然」とは、太古の昔から人類が求めてきたことを受け継いでいるからです。永遠の命、死者の生き返り、天国と地獄、世界の終わり、どれをとってみても、人間がまだ文字を持たない何万年も前からの口頭を通じて、あるいは文字で書かれた文書を通じて受け継がれてきた祈願や思想や信仰です。これらがヘブライの聖書へ流れ込んで一つの大河を形成している、このように見ることができます。旧新約聖書の最終的な成立は、紀元1世紀末(旧約聖書の正典化)から始まって、紀元4世紀末(新約聖書の正典化)になってからです。聖書は口伝と文書による宗教的な聖典としては、イスラム教のコーランを除くなら、人類全体にとって比較的新しいのです。
 「自然な」人間存在からみれば到底不可能なものを人が追い求めるのは、いったい<なぜ>でしょうか? どうやら人には、今のままの自分の状態を「超えよう」とする力が働いているようです。言い換えると、人は、人の存在それ自体を「別次元の世界へと」移行させようとする意欲を具えている、同じことですが、人は現在の自分を新たに変容/変貌させようとする力に動かされている。このように見ることができるのです。
 聖書を含む古代の神話は、このことをはっきりと証ししてくれます。古代の神話を荒唐無稽だと笑う人たちにわたしは問いかけたい。現在わたしたちを取り囲んでいる様々なテクノロジーの技術、これらのどれ一つをとってみても、これまで人類が「だれも思いつかなかった」ことが、何か一つでもあるだろうかと。空飛ぶ絨毯、前に立てばひとりでに開くドア、呪文を綴れば(コンピューターを動かすスペル/綴り/呪文)なんでもできる機械、自分の髪の毛の束から全く別の自分を何人でも創り出す魔法、錬金術から科学へ、占星術から天文学へ、現在のテクノロジーが追い求めてきたこと、今もなお追い求めていること、これらはすべて、過去の人類の神話から生まれてきたことに気づかされます。人間とは「自然のままの状態」を常に乗り越えようとする欲望に駆り立てられているほとんだ唯一の動物です。とは言え、長い長い生物の進化の過程を振り返るなら、巨大な恐竜が空を飛ぶ小さな鳥へ「変身」したように、そこに驚くべき「変身」「変容」「変貌」の進化の過程が生じてきたことになりますから、「超自然」と思えることも不思議でない「自然な」営みなのかもしれません。
■人の力か、神の力か?
 さて、問題はここからです。人間には、人間を超えようとする力が具わっているのであれば、そのような意欲と力は、人間がほんらい具えている<自然な能力>なのでしょうか? それとも人間存在を超えたところから与えられる意欲であり力なのでしょうか? 言い換えると、それは、人の力の及ばないところから来る働きかけなのでしょうか? もしも人間から出たものでないとすれば、その働きかけは、人にとってあまりにも大きな負担になるのではないでしょうか? さらに言えば、人が自分の有り様それ自体を変えようとする意欲と力それ自体が、人からではなく人を超えたところからくるのだと<自ら悟る>ことでしょうか? 
 今回の変貌記事で、イエス様の衣服が「地上のどんな布さらし職人も及ばないほどに」白く輝いたとあるのは、大事なことを教えてくれます。ここで起こっているイエス様の変貌が、<人間の最高の技能によっても及ばない>性質のものであることを言い表わしているからです。ここで問われてくるのは、人が人の現状を超えようとするその試みが、人間の自己努力によって行なわれるのか? それとも、人間を超えた神から来る力に動かされているのか? ということです。人間に与えられる能力とこれに対する謙虚と傲慢、わたしたちは、この分かれ道に立たされているのが見えてきます。
■悪魔的変貌
 この分かれ道はとても大事なことを指しています。なぜなら、聖書が伝えるこの超自然的な変貌の出来事が見失われるならば、必ずこれに取って代わろうとする「悪魔の変貌/変身」への欲望が人間を脅かすようになるからです。人間の体を複製して、人の技術で人体を<創り出そう>とする欲望がすでに生じています。人間の体を売買して、自己の身体の延命を図ろうとする人たちが、すでに出現していると聞いています。人の体を売り買いして、己の体を延命させようとしたり、自分の体をもう一度この地上に<よみがえらせよう>とする恐ろしい試みがすでに始まっているのです。これがもたらす結果が、どのような恐ろしい結末を迎えるかを予測させます。
 楽園で<狡猾な>蛇がエヴァに言いました。「超自然の変貌など、神から与えられた賜物ではない。それは、お前が自分で創り出すことができるものなのだから。そのような信仰は、お前が自力で実現すればいいのであって、神が与えてくれる神の賜物などではない。」このように誘いかけて、神の知恵の樹の実を<我が物>にするよう誘いかけるのです。人間は、このずる賢い蛇の悪巧みに乗せられないように注意しなければなりません。そうでないと人類は、恐ろしい技術を手に入れることになるかもしれないのです。イエス様の変貌は「光を放つ栄光」を伴っていました。神への畏敬と人間の尊厳を証しする変貌だからです。しかし、人間の傲慢と欲望に裏打ちされて、肉体の命を取引する闇の復活技術が、そのような栄光の輝きを帯びるでしょうか?
 イエス様の「からだ」の御復活を予兆する変貌は、人類の英知を導いて、人間の医術を含む人類の能力を神の知恵にあって正しい方向へ導いてくれるものです。これだけが、人間の肉的な変貌欲望がもたらす弊害を防ぎ、人類に真の救いをもたらすことができる唯一の道だからです。
  現在我が国で、原発をどうするのか? 経済成長をどうするのか? 地球環境問題をどうするのか? いろいろ論じられています。しかし、エコロジーとエコノミーとエネルギーの3Eは、決してばらばらではない。ほんらい一つにとらえなければならない問題です。ところが、そういうとらえ方をする企業の経営者たち(電力や経済連)も政治家もいません。むしろ、国家や宗教団体や経済組織を超えた国際的な広がりの中で、地球市民的な人たちが今ようやく目覚めて、こういう新しい視野を開こうとしています。ただし聖書は、この3E問題を、人間の<外の>問題としてではなく、<人間の有り様>それ自体の問題として提示するのです。人間の霊性、人間の霊的な視野、見えない永遠の世界の中の人間存在としてとらえること、そして<人間が変わらなければならない>こと、このことを聖書はわたしたちに求めているのです。
■秘められた啓示
 三人の弟子たちは、山上でイエス様の御栄光を拝することができました。この次にイエス様が三人だけを連れて行くのは、イエス様がゲツセマネで血の汗を流して祈られるときです(マルコ14章33節)。山上の変貌では、イエス様が「神の御子」であることが啓示されました。しかし、イエス様が「神の御子」であることがほんとうに分かるのは、「人の子」として、十字架へいたる道を<この地上において最期まで歩まれる>ことによって初めて達成された。このことをゲツセマネは伝えています。変貌の出来事が、限られた弟子たちだけに啓示されたのはこのためです。
 弟子たちが自分たちの体験を「心に留めた」とあるのは、何か貴重な物を「自分だけの物として大事に保管する/隠し持って管理する」ことです。ダニエル書では、終末に起こる出来事とこの際の死者の復活とが「黙示」として啓示されます(ダニエル書12章1〜3節)。その際、これを書き留めた書物を「封印して、秘密にしておくよう」命じられています(ダニエル書12章4節)。これは終末の時が来るまでは、人々は右往左往して「知識を追い求める」けれども、それらはすべて空しく、実際に終末の災厄が降るまで人々から隠されているからです。逆に終末が近づく時には、「秘密」にしてはならないとあります(ヨハネ黙示録22章10節参照)。イエス様が三人に沈黙を命じたのも、啓示された出来事を、事が実際に起こる前に人々に告げても、誤解と嘲笑を、悪くすれば冒涜を人々の間に生じさせる危険があったからでしょう。この事情は現在でも変わりません。
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