119章 エリヤの到来
マルコ9章11〜13節/マタイ17章10〜13節
【聖句】
■マルコ9章
11そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
■マタイ17章
10彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。
13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。
【講話】
■エリヤと終末
今回の箇所は、山上の変貌記事への付け足しみたいに見えますけれども、とても複雑で大事なことを伝えています。この箇所は、人の子の受難と復活を預言したイエス様のお言葉に続いていますから、ここでは、エリヤと終末とが、メシア(救い主)と復活に関連づけられていて、エリヤ・終末・メシア(救い主)・復活の四つの関係がどうなっているのか? これが問われています。弟子たちが混乱したのはこのためです。
わたしたちはまず、エリヤの到来が終末と深く結びついていることを知る必要があります。終末とは何か? この問題が、ここでも問われているのです。エリヤが到来したかどうかは、終末が到来したかどうか?にかかわるからです。ところがイエス様は、エリヤの到来を「人の子」の受難と結びつけて語っておられます。人の子の受難は、人の子の復活とも結びつけられています。エリヤとしての洗礼者ヨハネの出現と共に終末が始まった。そして今、人の子が苦難を受けようとしている。しかし人の子は必ず復活する。こうイエス様は語っておられるのです
■神の子と人の子
先に、ペトロがイエス様はメシア(救い主)だと告白しました。マタイ16章16節でペトロは、イエス様を「神の子」と呼んでいます。この告白の後で山上の変貌の出来事があり、ここで、イエス様が「神の子」であると、天からの声ではっきり啓示されます。ところが変貌の後で、イエス様は、ご自分を「人の子」と呼んで、人の子の受難と復活を預言されるのです。だからイエス様が「神の子」であることが山上の変貌で告げられ(マルコ9章7節)、イエス様が受難から復活する人の子であることが、これに続いて告げられるのです(同9章9節/12節)。
神の子イエス様の姿は山上の変貌で三人の弟子たちに啓示されます。人の子イエス様の受難と復活は、弟子たちにまだ啓示されていません。栄光の神の子と受難の人の子、この二つのお姿は、いったいどのように結びつくのでしょうか? これが、エリヤの到来という終末と関連づけられて、今回の箇所で弟子たちに、そしてわたしたちに問いかけられています。
■終末と人間
エリヤの到来が終末と深く結びついていることは、わたしにはとても重要だと思われます。なぜなら、エリヤの到来は、天変地異とか新天新地とか、そういう宇宙論的な規模のこととしてではなく、洗礼者ヨハネというひとりの人間です、このひとりの「人間の出現」に深く結びつけられているからです。このように、終末が、人間の、それもひとりの人間の出現と深くかかわっていること、これがとても重要なのです。
エリヤの到来を表わす洗礼者ヨハネの出現は、ここでメシアとしてのイエス様の出現とも結びつけられています。エリヤもメシアも、どちらも終末において待望されています。だから「終末」とは「人間の出現」と深く関係していることが分かります。「終末」は<人間の有り様>とかかわっているのです。エリヤであれ、メシアであれ、特定の「人」が現われること、これが人類の「終末」に結びついてくるのです。
一般的には、人類の終末は、天変地異や世界情勢や大自然の変動などと関連づけて論じられています。あるいは世界の政治情勢や経済状態などとも結びつけて語られます。聖書が伝える終末は、宇宙や自然や世界情勢と無関係ではありませんが、何よりも「人間の到来」と結びつくことが大事なのです。仏教でも「末法の世」が来ると弥勒菩薩が現われると信じられているようですから、末法は弥勒菩薩の到来と結びついているのでしょう。
このように、人類の終末は特定の人の出現と結びついて語られます。山上の変貌では、栄光の神の子イエス様のお姿がこれにあたりますが、その栄光の神の子に到達する以前に、人の子の受難と復活を経なければならない、というのが今回の箇所です。しかし、このことが弟子たちには分かりませんでした。これは、弟子たちだけでなく、わたしたちにも分かりづらい。人の子としてのイエス様が、受難を経て復活され、神の子の栄光をお受けになって初めて、神はイエス様を通して聖霊を、すなわち御復活のイエス様の御霊をわたしたちに遣わしてくださいました。こうして、「人の子」が「神の子」とつながり、初期のクリスチャンの言い方を借りれば、「イエス・キリスト、神の子、救い主」と称されるようになったのです。だから、エリヤとしての洗礼者の出現は、終末の到来を意味し、終末の到来と共に、人の子イエス様が現われ、その受難と御復活を通して、神はわたしたちにイエス様の御霊にある「新しい人間の有り様」をお与えになった。今回の箇所で、聖書はこう語っているのです。
■不思議な出来事
わたしは、人類の終末をこのように「人間の有り様」と結びつけて見ています。「新しい人間」が神の創造の御業によって出現すること、これが「終末」の意味であり、この意味で、終末は、わたしたち人間ひとりひとりが、現在でも体験できる出来事だと信じています。パウロはこのような人間の有り様を「キリストにあるわたしたち」(ローマ1章6節/同6章11節)とか「わたしたちの霊のからだ」(第一コリント15章44節)と呼んでいますが、こういう霊的な次元の出来事を、世界情勢だとか経済だとか、外から観察できる歴史学的な視点からとらえることはできません。また、大自然の変化だとか、宇宙の変貌のような自然科学の分野から立証することもできません。
今年の夏期集会でわたしは、コイノニア会の福音は躓きであり不思議であると語りました(2012年夏期集会「日本人のリヴァイヴァル」その1)。この想いはわたしが若い頃から抱き続けてきたものです。イエス様の福音は、三重の意味で世にも不思議な出来事です。一つには、今お話ししたように、イエス様の受難と御復活、これに伴う聖霊の降臨、すなわち御復活のイエス様の御霊のお働きです。二つ目は、このような不思議が、なんと二千年間も途絶えることなく信じられてきたことです。イエス様の受難と御復活は旧約聖書の信仰から出ていますから、これを加えると、およそ四千年ほど前から続いてきたことになります。三つ目は、このような不思議が、現在もなお全世界に広がりつつあることです。ギリシアとロシアの正教から、欧米のキリスト教へ、そして今や、東アジアが新たなキリスト教の舞台になりつつあります。
こんなことは、人間がやろうとしてもできることではありません。おそらく今これを読んでいる方々の中には、様々な疑いや不信の目でこの記事を見ている方がおられると思います。それは当然です。人間なら、だれだってその人たちが考えるように考え、その人たちが思うように思うはずです。普通の人から見れば、イエス様を信じるクリスチャンは、妄想にとりつかれているか、夢でも見ているのではないか? こう思うだろうとキェルケゴールが言っていますが、その通りです。だから、この福音は、絶対に人間が自らの計らいで創り出せるものではない。これだけは断言します! 「ホレイショー君、この天地には、君の学問では思いも及ばないことがいろいろあるんだよ」とシェイクスピアがハムレットに言わせているとおりです〔『ハムレット』1幕5場〕。
■霊的な出来事と比喩
しかし、霊的な次元の出来事でも、これを歴史学や自然科学の理論を<比喩的に>応用して説明したり、解釈したりすることはできます。例えば、ヨーロッパ中世の神学では、次のような論法が用いられていました。<太陽は万物に命を与える。→キリストは太陽である。→ゆえに、キリストは万物に命を与える。>ここで最初の「太陽は万物に命を与える」は自然科学にも通じる論理です。しかし、続く「キリストは太陽である」は科学的な法則ではなく、比喩的な言い方です。これを隠喩/暗喩と言います。だから、「キリストは万物に命を与える」という結論は、自然科学の法則ではなく、比喩的な考え方から生じた霊的、神学的な論理です。
このように、キリストを自然の太陽の働きと関連づけて見る論理を「類比」(アナロジー"analogy")と言います。だから、わたしたちは、霊的な出来事を自然や歴史との「類比」によって見たり考えたりすることができるのです。では、終末の出来事を、自然科学の類比によっ考えるとどうなるでしょうか?
■宇宙と生命の進化
宇宙がビッグバンによって誕生したのは約137億年前です。太陽系が誕生したのは約46億年前です。この太陽は今から70億年くらい経つと消滅するそうです。地球が誕生したのは太陽の誕生の1億年ほど後だと言われますからほぼ45億年前です。今から7億3000年〜6億3000年前に、地球が氷河で覆われる全球凍結が起こり、生命は絶滅に瀕しました。しかし、その中で、海中において、環境に強いDNAをもつバクテリアが誕生しました。これが現在の生物の元祖です。地球の凍結は2000万年以上続きましたが、火山の噴火によって氷が破壊され、太陽の光が海中に注ぐようになりました。生き残ったバクテリアは、光合成を行なって生命を進化させ始めました。まさに命の始めは「光あれ」だったのです。
約6500万年前に、直径10キロほどの巨大隕石が落下して、塵が全地を覆い、恐竜が絶滅しました。生き残ったのはネズミなどの小さな動物です。それでも生物は進化を続けて、恐竜の中のある種は、空を飛ぶ鳥へ変身しました。また、ネズミはほんらい卵生(卵を産んで子を残す)だったのが、進化の過程で胎生(お腹の中で子供を育てる)へと変容しました。恐竜と言いネズミと言い、とうてい信じられないような<奇跡の変身>を遂げたのです。
現代の人間に直結する進化の道筋は、約440万年前のラミダス猿人までさかのぼることになります。しかし、現在のわたしたちの直接の先祖は、ホモ・サピエンスと呼ばれていて、約25万年前に別の人類から進化しました。このホモ・サピエンスは、どんなに遅くても、15万年ほど前には、火と道具と言語と宗教を持っていました。この点で、他の動物と異なっています。文字が用いられるようになったのは、およそ5000年前です。一般の人が本を読むようになったのは、グーテンベルクの印刷機ができた以後の16世紀頃からですから、400年ほど前です。
わたしたちが住んでいる太陽系は、わたしたちを囲む銀河系の中を何億年かの周期で移動しながら回っていますが、この銀河系が作る渦の中にある星雲を通り抜ける際に、幾度か氷河期を経ていると考えられています。これで見ると、地球上の生命は、今まで幾度も大規模な「終末」に直面してきたことが分かります。けれどもその度に、不思議な神の御手によって、環境に適応できるように生命が維持され進化を遂げてきました。それも、徐々に時間をかけて進化しただけでなく、ある時期に突然に大きな変異が、ネズミや恐竜に生じたことが分かります。人間の場合も、猿のように木の上で生活することを止めて、地上に降り立って二足歩行を始めた時から、突然変異と呼んでもいいような大きな変化が生じました。脳の発達もからだの変異もこの二足歩行から始まったからです。
人間の脳は、魚の脳幹体から鳥の脳へ、さらに動物の前頭葉を具えた脳へ、そして猿類へ、類人猿へ、人間の前頭葉を持つ脳へと6億年かけて発達してきました。人間の前頭葉は、生まれてから半歳から2歳くらいまでの間に、母親や他の人たちとの愛情ある交わりにっよって発達します。この前頭葉は、扁桃葉(脳幹の近くにある)と密接に結びついていて、情報を前頭葉へ送り、これをフィードバックしたり、逆に抑制したりします。前頭葉は人との接触がなければ発達しません。したがって、人との交わりが欠如した場合には、抑制が効かなくなるのです。いわば、人間の心は人間の肉体と、特に前頭葉+扁桃葉と不可分一体です。右の脳は音楽・算数・芸術活動を、左の脳は言語活動を司るものです。
これで見ると、どうやら人間の肉体とパウロの言う「霊体」との関係は、脳の特に前頭葉と関連しているようです。しかし、イエス様の御霊の御臨在にあって生じる「霊体」は、人間の前頭葉それ自体を主に捧げることによって、すなわち主のみ名にある祈りを通して無心になることによって初めて、その「超能力」を発揮することができるのではないかと考えられます。しかも、こういう人間の脳の能力は、人間同士の交わりの中で形成されるのです。昔から、聖人たちの頭部にオーラを現わす光輪が描かれているのも、このような神から授与された知恵を象徴するものでしょう。
■霊性の進化と終末
わたしは、霊的な世界でも、長い人類の霊性の過程において、生物としての進化に類比する<霊的な成長>が生じてきたのではないかと考えています。それも、徐々に同一の速度で成長が生じたのではなく、ある時期、ある時に、言わば生物学上で言う「突然変異」に相当するような霊的な異変が、人類の霊性においても過去に幾度か起こったのではないかと思っています。例えば、紀元前500年前後に、ピタゴラス(582頃〜497頃)や第二イザヤ(550年頃)、釈迦(563頃〜483頃)や孔子(552頃〜479頃)、ソクラテス(469頃〜399頃)が現われています。
わたしに言わせるなら、進化論と聖書の信仰とは、矛盾するどころか、類比的に観れば両者は一致しています。言うまでもなく、これは、あくまで比喩的な意味であって、聖書の霊性を「科学的に説明する」ことではありませんから、誤解しないでください。
だから、今回のエリヤの到来をめぐるイエス様と弟子たちの終末観からも、人類がそれまで体験したことのないような大きな霊性の大転換がここで生じたのではないか?と思うのです。イエス様の「神の子変貌」とイエス様の「人の子受難と復活」の狭間に立たされた弟子たちが体験した不思議と戸惑いは、このような霊性の大転換期に彼らが置かれていたからです。イエス様が、その御復活が証しされるまでは、観たこと聞いたことをだれにも漏らすなと三人を戒めたのはこの理由からです。
■御霊にある霊体
イエス様の御復活は、神がイエス様を通じて遣わされる聖霊の御臨在が、わたしたち人類に授与されるためです。このことは新約聖書にはっきりと証しされています(例えばヨハネ14章/使徒言行録2章)。そして、イエス様を信じる者には、神からの新たな霊性が「霊の体」としてそれぞれに与えられると約束されています。わたしは、現在もなおキリスト教会で行なわれている聖餐は「このこと」を証しするためだと思っています。
朽ちて滅んでいく肉体が、朽ちることのない不滅の霊体をまとうことができる。新約聖書は、イエス様の御名によって生じるこの不思議をこのように証ししています(使徒言行録13章34節/第一コリント15章42節/同53節)。人間の肉体とイエス様の御名によって授与される霊体とは、いったいどのように関わり合うのか? 学者の間でいろいろ論じられていますが、そういうきめ細かい神学論争に立ち入る必要はないでしょう。人の理性で分析して理解できる次元のことではないのですから。ただ幼子のように主を信じて祈る者にだけ、啓示される不思議ですから。
霊体と肉体はひとつではありません。霊体と肉体は別個のものでもありません。相反するものでもなければ、ひとつのものでもありません。ただ、聖霊の御臨在による霊体はわたしたちの肉体をも浄め護り支えてくださいます。「イエス様を復活させた方の御霊があなたがたに宿っているのですから、このキリスト・イエスを死者の中から復活させた方(神)は、あなたがたに宿るその御霊にあって、あなたがたの滅び行くからだにも働いて、命を創造してくださる」(ローマ8章11節)からです。滅び行く肉体に働く創造する命、朽ちる体に働く朽ちることのない霊体。医学的には死にゆく今のわたしの体さえ不思議に護り支えてくださるイエス様の御霊の命。死ぬべき体で蒔かれて永遠の命によみがえり、滅び行く肉体で蒔かれて、不滅の命を刈り取る。これが、イエス様の御名を信じる者たちに与えられる神様からの贈り物です。
■霊体と肉体の不思議
第一コリント人への手紙15章に「肉の体で蒔かれ、霊の体によみがえる」とありますが、肉の体(生物体)と霊の体(御霊にある体)という、この二つの間の類比の意義はとても奥深いです。これは、肉体と霊体とが、同じ自然のサイクルの中にあることを意味しません。同時に、霊体と肉体は、完全に別個の次元で生じる無関係な世界の出来事であることをも意味しません。肉体で蒔かれて、<その中から>霊体が生じることです。滅び行く肉体から不滅の霊体が生じることを理解するためには、この霊体とは<神の創造>に関わる出来事であることを悟らなければなりません。
それは、滅び行く肉体から滅びない命が生じることであり、人の罪から神の義が顕われることであり、罪のからだが御霊にあるからだをまとうことであり、死に行く肉体から永遠の命が芽生えて成長することであり、人間の肉体における死と罪と滅びの<まさにその中から>霊体と命と不滅が生じるという、神の不可思議な創造の御業です。御子イエスの十字架は、この矛盾と不可解の「しるし」であり、このことの証しにほかなりません。
これが福音の神秘であり、人の知恵によらない神の知恵から生まれた賜です。霊・肉のこのような不可思議な福音の出来事は、イエス・キリストにあって個人個人に起こる出来事であるだけでなく、全人類の歴史の過程においても、同じ創造の御業が成し遂げ続けられていることを知ることができます。生物的な自然のサイクルと永劫回帰の思想ではなく、終末へ向かって歩み続ける人類の生物的・歴史的な歩みから生じる神による創造の御業です。個人にとっても人類にとっても、恐ろしいのは肉体の「死」ではなく、人を神から切り離す「罪」なのです。
このような御霊のお働きにあって観る時に、人の世の清さも汚れも、正も不正も透けて見えます。また人の営みの美しさも誉れも、そのはかなさのゆえにいっそう美しく、いっそう愛(いと)おしく映ります(フィリピ4章8節)。その様は、自然の美しさにも、その壮大さにも似て、移ろいゆくがゆえにいっそう美しく、いっそう壮大に見えます。主にある者の人生は、この御霊の福音を証しするためにほかならず、肉体の死もまた御栄光を顕わすためのものです。ナザレのイエス様の御霊の御臨在にあって生きるとは、こういうことです。
共観福音書講話へ