【注釈】
 
■エリヤの到来について
 エリヤについての11節の弟子たちの質問は、山上でのイエスの変貌の場に、モーセと共にエリヤが顕現したからです。エリヤの顕現は終末的な意味を帯びていて、それは「見よ、わたしは、大いなる恐るべき<主の日>が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3章23節)と預言されていました。ただし、マラキのこの預言は、「主の日」の到来に先立って、エリヤが「まず先に来る」という意味であって、「メシアの到来に先立つ」という意味ではありません。しかし、シラ書48章10節に「あなた(エリヤ)は、書き記されているとおり、定められた時に備える者。神の怒りが激しくなる前に、これを静め、父の心を子に向けさせ、ヤコブの諸部族を<立て直す者>」とあります。イエスの頃の律法学者たちが、エリヤの到来を信じていたのは、『第一エノク書』などの黙示文学で伝えられて来た終末でのエリヤの到来のことです(マルコ9章10節)。だからイエスも、エリヤが到来して「万事を元どおりに復興する」と答えているのです。
 しかし、今回のマルコ9章11節の弟子たちのイエスへの質問は、直前の10節に、弟子たちが「人の子が死者の中らか復活するとはどういうことか?」と論じ合ったところから続いています。だから、ここで問われているのは「死人の復活とエリヤ」との関係になります。エリヤが「主の日」、すなわち終末的な日と関連しているのは上に述べたとおりです。だから、10節から判断すれば、この「主の日」に「人の子の復活」(9節)が生じることになりましょう。さらに当時のファリサイ派などのユダヤ教では、「死者の復活」とは、特定の人たちの復活のことだけではなく、<全人類に及ぶ復活>です。「主の日/終末には」全人類が復活して、主の御前で裁かれ、救われる者と最終的に滅ぼされる者とに分けられるというのが、当時の一般的な「終わりの日のよみがえり信仰」だったからです(第一テサロニケ4章6節/ヘブライ9章27節/『第一エノク書』22章3節に「大いなる裁きの日」に全人類の魂が呼び集められるとあります)。
 ところで、もしもエリヤが「主の日」の到来<以前に>来るとすれば、彼は「死者の復活」以前に来ることになります。だとすれば、「人の子イエス」が死者から復活するその前に、先にエリヤが来ていなければなりません。ところが、イエスが人の子の復活が間近であると告げているのに、エリヤはまだ到来していない。このように弟子たちは考えたようです。この弟子たちの「誤解」は、人の子イエスの復活が、終末の時の全人類の復活の<以前に>、その初穂として最初に起こる(第一コリント15章20節)ことを知らないところからでてきます。
 このように、人の子の復活と、終末での全人類の裁きへの復活と、エリヤの到来、この三つの関係がここで弟子たちの間で混乱しているのが分かります。このような混乱から、原初のキリスト教会において、エリヤは<メシアの到来の前に再臨する>という解釈が生じたと考えられます。「メシア到来以前のエリヤの再臨」は、当時のユダヤ教には見られない信仰だったからです〔コリンズ『マルコ福音書』429~30頁〕。
■マルコ9章
[11]【エリヤ】エリヤについては、前回の「山上の変貌」のマルコ9章の「エリヤ伝承」と「エリヤの再来について」の項と、さらに同9章4節の注釈を参照してください。以下にエリヤについてごく簡単にまとめます〔TDNT(2)931-41〕。
(1)エッセネ派のクムラン文書の一つ『ダマスコ文書』〔日本聖書学研究所編『死海文書』山本書店(1963年)253~76頁〕には、「義の教師」がでてきます(前掲書1章12節)。この「共同体の教師」は天に召されますが(前掲書「写本B」34節)、クムラン宗団は、彼が再び戻ってきて「真理を教える」と信じていました(前掲書20章14節/20節)。この「真理の教師」がエリヤだと解釈されています。
 ところが『ダマスコ文書』には、「義の教師」のほかに、かつての祭司アロンとイスラエルから「油注がれた者=メシア」が表われると預言されています(前掲書20章34節)。だから、イエスの到来を含むキリスト教<以前の>クムラン宗団では、過去に存在し終末に現われる「義の教師」と、かつて存在し終末に現われる「メシア」とが並行して期待されていたことになります。エリヤが再来する時は、「救いの時」の開始であり(マラキ3章23節)、「共同体を救いに向けて準備する」時であり(ルカ1章17節)、イスラエルを「復興させる」時です(マルコ9章12節)。
(2)新約聖書でのエリヤ伝承は列王記上17章~19章とマラキ書3章23節とシラ書48章1~11節に基づいています。エリヤは「火」と結びつけられていますが、彼の働きは次のようなものです。
[i]エリヤが終末に先立って再来すること(マルコ9章11節=マタイ17章10節)。
[ii]エリヤは苦難の時の助け手であること(マルコ15章34節)。
[iii]イスラエルを復興すること(マルコ9章12節)。
[iv]神への祈りの証人として立つこと(ヤコブ5章17節/ヨハネ黙示録11章6節も参照)。
(3)イエスの頃のパレスチナでは、エリヤがだれであるかについて、次のように言われていました。
[i]洗礼者ヨハネがエリヤであること(マルコ6章15節/ヨハネ1章21節)。洗礼者の身なりから判断して(マルコ1章6節)、当時の人々は、洗礼者ヨハネを再来したエリヤだと信じていたと考えられます。エリヤについて、「子の心を父に向けさせる」(マラキ3章24節)と預言されているのは、神と民との間のことだけでなく、家族同士のことでもあり、さらに隣人同士のことを指すと解釈されました。だから、エリヤが再臨して、人々に<悔い改めを説く>と言われたのです。このために、悔い改めを説く洗礼者ヨハネを人々はエリヤだと信じたのでしょう(ラテン語エズラ記6章26節参照)〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)715頁〕。さらにエリヤが、子供をよみがえらせたことも(列王記上17章22節)、十二弟子たちの間で、エリヤの再来が復活と結びけられて論じられた理由でしょう。
[ii]イエス自身は、洗礼者がエリヤであると見なしていました(マルコ9章13節=マタイ17章13節)。しかし、「人々は洗礼者を好き勝手な仕方で扱った」(マルコ9章13節)とありますから、洗礼者が文字通りの肉体を採った「エリヤ」の再来だという意味ではなく、エリヤ預言が違った形で解釈されていたことになります。エリヤがメシアの先駆けだという解釈は、そこからでているのかもしれません。イエスもまた、洗礼者を政治的に「イスラエルを復興する」預言者だと見ていたのではなく、霊的な意味でエリヤの再来だと見なしていたのです。
[12]【元どおりに】イエスがここで言うのは、政治的なイスラエルの独立と復興のことではなく、宗教的、霊的な意味でイスラエルの民の霊性を「復興する」ことを指すのでしょう。なお12節前半は、「エリヤが来て、すべてを元どおりにする<と言うのか?>」のように、ほんらいの伝承は疑問ではなかったかと思われます。このほうが、イエスが続けて、「それなら、なぜ~?」と問いかけている意図がはっきりします。
【辱め】「辱めを受ける」のギリシア語の原語「エクスーセネオー」(無視する/軽蔑する)は、使徒言行録4章11節の「あなたたち家を建てる者に<捨てられた>が、隅の親石となった石」とある動詞「捨てられた」と同じです。使徒言行録4章11節は詩編118篇22節から出ています。七十人訳の詩編118篇では「<退けた>石」(原語「アポドキマゾー」)とあって、使徒言行録の「捨てられた」とは異なるギリシア語動詞ですが、内容は同じです。二つの動詞の共通性から見ると、マルコ8章31節の「排斥される」(アポドキマゾー)と同9章12節の「辱められる」(エクスーセネオー)は、同じ内容を指すと考えられます。なお詩編22篇7~9節/イザヤ書53章3節を参照してください。
[13]【好きなように】おそらくここでは、ユダヤ教の各派の指導者たちそれぞれが、「自分勝手な解釈で」洗礼者ヨハネを扱ったこと指します。冒頭の「エリヤの到来」で述べたように、当時、エリヤの再臨について、様々な解釈が行なわれていたからです。
 
■マタイ17章
[10]マタイ福音書は、ほぼマルコ福音書に準じていますが、マルコ福音書9章12節後半の「それなら、」以下が略されていること、逆にマタイ17章13節が加えられている点が異なります。
【彼らはイエスに】原文は「弟子たちはイエスに尋ねて言った」で、主語の「弟子たち」が示されています。この構文は直前の9節「イエスは彼らを戒めて言った」に対応しています。
【なぜ】マルコ福音書では「エリヤが来るはずである<ことを>(言う)」ですが、マタイ福音書では「こと」を「なぜ?」と疑問に変えて明確にしています。「はずである」とは、聖書にそのように預言されているという意味です。
[11]【確かに】マタイ福音書の原文では、「デ~、デ~」とあって、「なるほど/確かに~であるが、しかし~」"It is true..., but..." の構文になっています。
[12]【既に来た】クリュソストモスなど初期の教父たちは、ここを「かつてのエリヤは既に来た、しかも再び未来(終末に)に来るだろう」と解釈しました(ヨハネ黙示録11章5節の「口から火を出す」預言者はエリヤだと解釈されています)。洗礼者ヨハネは「わたしはエリヤではない」(ヨハネ1章21節)と言っています。洗礼者自身は自分をエリヤだとは思っていなかったかもしれません〔TDNT(2)936-37〕)。だからクリュソストモスは、終末でのエリヤの最終的な顕現が「まだなお先のこと」であると解釈することによって、ヨハネ福音書での洗礼者ヨハネの発言と共観福音書との間の矛盾を避けようとしたのです。
 しかし、イエスはここで、エリヤは「既に来た」と明言することで、終末が<既に生じている>ことを言い表わしています。「それなのに、(彼らは)認めなかった」のです。ここでは主語が明らかでありませんから、「彼ら」とは、一般の人々なのか、ユダヤ教の指導者たちのことなのかがはっきりしません。しかしイエスは続けて、エリヤ=洗礼者ヨハネに対するこの仕打ちが、<自分自身にも及ぶ>と、自分の死を預言しています。この「認めなかった」とある部分は、おそらくマタイ福音書の作者の編集でしょう。
【苦しめられる】原文は「このように、人の子もまた、苦しみを受けることになっている」です。マタイ福音書はここで、「洗礼者と同じように」「人の子イエスもまた」「必ず苦しみを受けるべく定められている」と述べて、洗礼者ヨハネとイエスとの類似性を明確にしています。ここでイエスは、人の子の復活の前に、人の子の受難が来ると告げています。ただし、この信仰は、イエス独自のものではなく、当時すでに、ダニエル書7章13節の「人の子」がイザヤ書53章の「主の僕」と結びついて、人の子の受難の預言として受け取られていました。
[13]弟子たちは、イエスの解き明かしを聞いて初めて洗礼者ヨハネがエリヤであったことを悟ることができたのです(マルコ福音書では、弟子たちの理解がどのようであったかには触れていません)。イエスが洗礼者ヨハネとエリヤが同一であることを語るのはこれが二度目です(11章14節)。
                        戻る