120章 悪霊憑きの子
マルコ9章14〜29節/マタイ17章14〜21節/
ルカ9章37〜43節/同17章5〜6節
【聖句】
■イエス様語録
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に言うがよい。
「抜け出して海に根を下ろせ。」そうすればあなたたちに従うだろう。
■マルコ9章
14一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
15群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
16イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
17群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
18霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
19イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
20人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
21イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
22霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
23イエスは、言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
24その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
25イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。」ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
26すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
27しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
28イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
29イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。  
■マタイ17章
14一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、
15言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
16弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
17イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところへ連れて来なさい。」
18そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出ていき、その子供はいやされた。
19弟子たちはひそかにイエスのところへ来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
20イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく、もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」  
■ルカ9章
37翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。
38そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てや
ってください。一人息子です。
39霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。
40この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
41イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
42その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
43(a)人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
■同17章
5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 
                        【注釈】
【講話】
■マタイの教会の信仰
 おそらくマタイの教会では、主様の御言葉が読まれ語られ、聴く人はこれを理解し、これを受け容れていたと思われます。しかし、それだけではどうも物足りなかった。救いの信仰はあるけれども、癒やしの信仰はない。敬虔な祈りは捧げるが、主の御手に全託するところまでは行かない。現在の教会でも、こういう人たちがけっこう多いのではないでしょうか。マタイは、それではまだ「信仰が薄い」と思っていたようです。祈りによって悪霊が追い出されて、病気が治らないのは、教会の信者たちが霊的に不十分だからだと見ているようです。だからマタイは、現代の「熱狂主義的な」霊能信仰者に近いという見方もあります〔ルツ『マタイ福音書』(2)677頁〕。マタイは、「山を移すほどの信仰」について二度もイエス様の御言葉を引用していますから。
 こういう考え方、こういう信仰に立つならば、霊能の人こそ「ほんものの」信仰者であり、「断食と祈り」を通じて、霊能の業に達することで初めて、「成長した」高いレベルの信仰に到達したことになりましょう。ただし、こうなりますと、信仰の基準がその人の霊能と結びつきますから、霊能の人こそ高く貴いことになります。だから、霊能こそ、その人に具わる霊性の価値を決める基準になりそうです。どれだけ多くの人が癒やされ、どれだけ大勢の人が集まったのかが、霊能伝道者の値打ちを測る基準になりましょう。しかし、このような基準が、正しくないこと、危険を伴うこと、イエス様の御霊の福音の最も大事な点を見落としていることをマタイ7章21〜23節が教えてくれます。
 パウロもこういう成り行きを心配したのでしょう。彼自身も癒やしなどの霊能を発揮していますが、そういう霊能もまた「<一つの>賜物」として、指導する知識や慈善などに奉仕する仕事などと共に、言わば「同列に」置いています。イエス様の御霊は、それぞれに応じて、その人にふさわしい御霊の賜物をお与えになるからです。与えられたのはエクレシア全体のため。与えられなくてもその人はエクレシアにとって重要です。だから、霊能者以外は「信仰薄弱」だ、というわけではありません。
■山を移す信仰
 でも、イエス様がここで言われていることは、ほんとうにそのような「霊能主義」でしょうか? 「山を移すほどの信仰」と言われており、「桑の木がひとりでに抜けて海の中に入る」と言っておられますが、いったいそんな信仰、だれが実現できたのでしょうか?イエス様のこの基準に照らして「霊能」の基準を測るなら、悪霊追放やガンの癒やし程度では、まだまだ「信仰薄き者」ではないでしょうか?悪霊が出ていき、ガンが治るのなら、それで十分だから、それ以上、「山を移す」などと言うのは馬鹿げている。そう思う人たちがいるでしょう。しかもイエス様は、「からし種一粒」ほどの信仰があれば、山を移すことができると言われているのです。だとすれば、どんな霊能者でも、からし種一粒の信仰も持ち合わせていないことになりませんか?
 この譬え、どこかおかしいです。おかしいのは譬えのほうなのか? それともその譬えの<解釈>のほうなのか? おかしいのは、この譬えを「人間の信仰」「人間の霊能」として解釈するからです。とりわけ今回の箇所では、「<信じる者>にはなんでもできる」「<あなたがたに>できないことはなにもない」とありますから、なおいっそう人間のこと、自分のことを考えてしまいます。「僕はなんでもできるんだ」と。
 「金持ちが神の国へ入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(マタイ19章24節)。イエス様はこう言われました。これを聞いた弟子たちは驚いて、「では、いったいだれが救われるのだろう?」と考え込んでしまった。するとイエス様は弟子たちをじっと見つめて言われた。「人にはそれはできないが、神にはなんでもできるんだよ。」これは、今回のイエス様のお言葉とも通じています。イエス様のところへ救いを求めて来たあの金持ちの青年も、弟子たちも、そしてわたしたちも!イエス様の譬えを聞くと、それを直ぐ「自分と結びつけて」考えてしまいます。
 ところがイエス様がご覧になっているのは、人間のほうではない。天の父なる神様のほうなのです。それも、人間の理解を超えた「全能の神」のことです。だからイエス様は、今回の場合でも、「人間には絶対に不可能なこと」として譬えを語っておられます。「山を動かす信仰」から見れば、人間は全く無力です。この大宇宙を創造し、今もなお働き続けておられる神様の業から見れば、人間は、霊能を誇るどころか、<完全に無力>だということ、このことが分かるかどうかです。このことにハタと気がつくかどうかです。
 わたしたちクリスチャンは、どうも「二つの」大きな誤りを犯しているようです。一つは、聖書の奇跡や不思議は、かつて起こった過去のことだから、今はそれよりも、わたしたちの教会生活に応じた範囲で、<自分たちの尺度に合わせて>イエス様のお言葉を解釈し、聖書の御言葉を<自分たちに適合>させようとすることです。だから、現在の自由プロテスタント神学では、イエス様のことをもはや「神の御子」だとは考えないで、「ただの人」だと見ています。「人間としてのイエス」の生き方から、現在の自分たちの人間としての生き方を学ぼう。奇跡だとか、霊能だとかは、過去の神話的な遺物にすぎないのだから、時代遅れの「信仰」など無用だ。こう考えています。
 もう一つは、今度は逆に、霊能の御霊こそ、神がイエス様を通じてわたしたちクリスチャンにお与えくださる最大の賜物だ。これさえあれば、悪魔払いでも、異教撲滅でも、伝道でもなんでもできる。だから、断食して祈って、ひたすら聖霊を求めて、神のみ業である霊能を発揮しよう。「<わたしたちに>できないことはないのだ」と。イエス様の言われていることをそのまま聞くと、確かにこのように受け取れます。だから、霊能を否定する人たちは「信仰薄き者たち」で、自分たちのほうこそ「信仰篤き者たち」だ、こう思い込むのです。
■からし種の信仰
 どちらが正しいのでしょうか? どちらにも共通するところがあります。それは、自分たちは、<神様の御前に完全に無力だ>ということを忘れていることです。忘れているのはそれだけではない。自分たちも人間であり、人間は恐ろしく<罪深い>存在だということです。この無力で罪深い自分に気がつけば、もうなんにもできない。ただ黙ってイエス様を仰ぐ、自分をお造りくださった全能の神様とその父がお遣わしになった主イエス様に「主よ、おまかせします。どうか、不信仰なわたしを助けてください!」と呼び求め、祈り求める。これだけです。なんにも難しくない。あの徴税人の祈りです(ルカ18章13〜14節)。そうすると、不思議が起こる。ナザレのイエス様の御霊の御臨在が分かるのです。御復活のイエス様が、自分と<共に居てくださる>。このことが「顕(あらわ)れる」のです。ただそれだけです。でも、その<ただそれだけ>がものすごい。いったいこれは人間の世界か? そう思うほどすばらしい。まるで宇宙全体が変わってしまうような印象を受けます。イエス様の語りかけと父親の答えは、自分でもなく相手でもなく、自分でもあり相手でもあるという祈り祈られる御霊の交わりを顕しています。祈りは二人を結ぶ主客一如の霊的な出来事だからです。
 これが「からし種一粒」の信仰です。こんな小さなこと、無力な人間のなきに等しい祈りが、驚くべき神様の御力とみ業の働きを興すのです。もうこれは、自分で何かをやる世界ではない。無我無心で主様の御霊が働いてくださる。御霊にあるまま、導かれるまま、ただあるがままそのままですから、「空の鳥」「野の花」のように、神様に委ねきっている状態です。自分では、「髪の毛一筋でも」思いのままにできないからです。
■時を生きる信仰
 前回の「エリヤの到来」では、宇宙の成り立ち、地球の成り立ち、人類の歩みなど、気が遠くなるような遠大で壮大なことをお話ししました。こういう話を聞きますと、皆さんは、何かとてつもなく大きい時間の流れを想像するかもしれません。そのような地球の成り立ちや人類や歴史など、今のわたしの生き方とどんな関係があるのだろうと思っておられるかもしれません。
 けれども、よく考えてみれば、大宇宙も地球も人類も、そしてあなた自身の歩みも、「時の流れ」の中で起こっているのです。この点では全く同じです。だから、聖書が伝える神は、存在するだけでなく、それ以上に「働く」神であることが分かります。聖書の神は言葉の神、言葉の神は言葉を<語る>神、神が「語る」とは<その時その場で>働かれることです。ちょうど今、わたしが言葉を語っているようにです。だから神とは、今その時その場で働く御言葉のことです。では「今」とは何か? 今とはあなたの「体」があるその場のことです。「今」は、皆さんが、心の中、頭の中で、漠然と考えているような「今」ではない。今あなたの体が置かれているその時その場、これが「あなたの今」なのです。<あなたの体>がある所、そこがあなたの<今>です。これ以外にどこにも「今」は存在しません。御霊は<そこに>働いて、御霊は<そこで>あなたに語るのです。
 ですから神の御言葉は、その時その場です。24時間、365日などという物理的な「時間」(クロノス)のことではないのです。今の「時」(カイロス)です。神様の御言葉は、あなたの心臓の鼓動のように、刻一刻と語り、その時その場で働いておられます。どうぞ、このような神の偉大で壮大な時の流れが、今この時の小さなあなたといかに近いか、胸に手を当てて考えてください。だから、宇宙の神様のお働きは、今のあなたの生き方そのものです。生きるとは「時を生きる」ことであり、時を生きるとは、「時を活かす」ことです。「時」とは何か? 今のこの時に与えられる御霊にある「祈りの時」です。だから、英語で祈祷書のことを「時祷の書」(the Book of Hours)と言います。
 エフェソ5章16節に「今の時を活かして用いなさい」とありますが、これは「時(カイロス)を贖い出しなさい」という意味です。どうすれば「贖い出す」ことができるでしょうか? 「贖い出す」とは「最善の仕方で用いる」こと、刻一刻をナザレのイエス様の御霊の御臨在にあって生きなさいという意味です。これが「あなたの時」を最善に活かす道です。祈りはクリスチャンの呼吸なのです。
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