【注釈】
■イエス様語録
 今回の復元全体はルカ17章6節に準じています。マタイ17章20節の並行箇所との主な違いは、マタイ福音書の「この山に向かってここからあそこへ移れ」とルカ福音書の「この桑の木に向かって抜け出して海に移れ」/マタイ福音書「すると移るであろう」とルカ福音書の「あなたがたに従うであろう」の二つです〔ヘルメネイアQ492~93頁〕。
 今回のイエス様語録の「からし種一粒ほどの信仰があれば」は、マタイ17章20節とルカ17章6節に受け継がれています。これに対して、マルコ11章23節のほうは、「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるなら、そのとおりになる」です。
 これらの点から見て、信仰の大小についてのイエスの言葉が、イエス様語録とマルコ11章20節では別個に伝承されたと考えられます(イエスの「からし種」のたとえが伝承の過程で「山」に転じたとも考えられますが、イエスは「からし種」と「山」の二つのたとえを、それぞれ別個の時に語ったのかもしれません)。ルカ17章6節はイエス様語録からでしょう。マルコ11章23節も伝承を忠実に伝えていると思われます。
 問題はマタイ福音書のほうです。マタイはイエス様語録とマルコ福音書を合成したと考えられます。その際に、マルコ福音書にある「山」のたとえを採り入れたために、イエス様語録の「抜け出して海に移れ」を「ここから、あそこへ移れ」へと変更したのでしょう。その上で、「あなたがたにできないことは何もない」を加えて、たとえの真意を明確にしたのです〔デイヴィス『マタイ福音書8~18』726頁〕。マタイはこの「海に移る」たとえをいちじくの木の場面でも繰り返しています(マタイ21章21節)。
 イエス様語録の今回の言葉は、ほんらい、どんな小さな信仰でも(からし種のたとえ)、決して粗末にしてはならないことを教えるものです。しかし、マルコ福音書の「山」のたとえは、「どんな願い事でも」信じる者にはかなえられることですから、意味合いがやや異なります。マタイは、両者を合成して、「小さな信仰の」弟子たちが、悪霊追放(マタイ17章14~17節)という「大きな信仰」へいたるための心得としているのですが、このために「からし種」のたとえのほんらいの意味が失われたという見方もできます。
【からし種一粒】ごく小さなものを表わすパレスチナのたとえです。しかし、これが成長すると大きくなることも今回のイエス様語録の言葉に含まれているのでしょうか。ちなみに「山が海へ」移るたとえは、決して起こりえないことを言い表わすパレスチナの諺です。
■マルコ9章の悪霊追放
 マルコ1章~7章までにも、数々の癒やしと悪霊追放の出来事が出てきました。今回の悪霊の追い出しは、フィリポ・カイサリアでのペトロの告白以後に行なわれる最初で最後の悪霊追放です。ここから以後、いちじくの木の奇跡(11章)を除けば、奇跡と癒やしは10章の盲人の癒やしだけです。10章46節以下の盲人の癒やしは、8章22節以下の盲人の癒やしと対応していて、両方が受難物語にいたるエルサレムへの旅の枠を構成しています。
 このように見ると、今回の悪霊の追い出しは、それまでの悪霊追放(1章23~25節/5章7~10節/7章25~29節)に見られない特徴を帯びていることに気づかされます。それは、弟子たちの失敗と続く弟子たちの質問です。これまでの悪霊追放は、周囲の人たちに驚きを与え、イエスの霊能を印象づけるものでした。ところが、今回の場合は、人々への印象ではなく、弟子たちへの教えと助言に重点が置かれています。
 ただし弟子たちには、すでに悪霊追放の霊能が与えられていました(3章15節/6章7節/同13節)。にもかかわらず、今回の失敗は、彼らの霊性が「今だに」不十分であることを示すものです。フィリポ・カイサリアでの出来事と、続く人の子の受難予告と山上の変貌を経て、新たな霊的体験の後で、弟子たちがイエスに従うための教育が、ここから始まるのです。
 マルコ福音書の描写は、マタイ福音書とルカ福音書のそれの倍以上も長くなっています。マルコ福音書のこの記事は、ほんらい14~20節と21~27節の二つの異なる伝承が組み合わされて、これに28~29節の結尾が加えられたと見られていました。前半は弟子たちのこと、後半は父親のことであり、群衆が、14節と25節と、二度でてくること、病状が二度繰り返されていることなどからです。しかし、この説に対して、21~24節が後から加えられた(マルコ福音書の作者による?)編集であって、マタイ福音書とルカ福音書は、現行のマルコ福音書をそれぞれの仕方で縮めているという見方があります。病状は、単に繰り返されているのではなく、イエスとの出会いと追放命令によっていっそう激しくなったことが分かります。だから、編集者は、14~19節を踏まえてこれを補ったことになります〔コリンズ『マルコ福音書』434頁〕。
■マルコ9章14~29節注釈
[14]【議論して】弟子たちが少年の癒やしに失敗したために、律法学者たちから疑いを向けられて、批判と非難を受けていたのでしょう(2章6~7節参照)。議論は単なる癒やしや悪霊追放だけでなく、イエスの教えそのものにも及んでいたと思われます(3章22節以下/7章5節以下)。
[15]【群衆は】弟子たちと律法学者たちとの論争を聞いていた人々は、イエスを信じようとする人たちだったのでしょう。だから、イエスの一行を見つけると喜んで駆け寄ってきたのです。「驚いて」とあるのは、イエスの出現が思いがけなかったことを意味しますが、この言葉は強い驚きを表わしますから、弟子たちが苦境に立たされていたところへ、突然イエスが現われたのです。
[16]原文は「イエスは彼らに『あなたがたは彼ら(弟子たち)に何を問い求めているのか?』と問い質(ただ)した」です。「問い求める」は14節の「論争する」と対応しますから、イエスが問いかけたのは、人々のほうではなく、律法学者たちのほうでしょう。
[17]【ある者】ところが、イエスに答えたのは、律法学者ではなく、人々と一緒に息子を連れて来た父親のほうです。「おそばに」(あなた様のところへ)とは、イエスに直々癒やしてもらおうとして来ていたことを表わします。イエスが不在だったので、その弟子たちに癒やしを頼んだのです。「先生」は、弟子たちがイエスを呼ぶ時の言葉ですが、ここでは父親が自分の気持ちを表わすために用いているのでしょう。あるいは、集まっていた人々は、イエスのことを「先生」(律法の教師を指す)と呼んでいたのかもしれません。
【霊に】原語「<アラロン>の霊」とは「ものを言えなくする霊」です。しかしその症状は「てんかん」に似ているので、マタイ17章15節には「てんかん」とあります。マタイ福音書の原語は「月に打たれる/狂気になる/てんかん」から出ています。月の満ち欠けが人間に働きかけて狂気を誘うと考えられていたからです(英語の"lunatic")。ヘレニズム世界では、これも一種の「神がかり」と信じられていましたから、「てんかん」が「聖なる病気」だと見なすこともあったようです。この言葉は月が及ぼす「悪い霊」の働きを意味しますから、当時「てんかん」もこれの一種だと思われたのです。だから、この出来事は、現代の「てんかんの癒やし」と言うよりも、「悪霊追放」に属すると見るほうが適切です。
[18]「取り憑く」「地面に打ち倒す」「泡を吹く」「追い出す」などは動詞の現在形で、病気の状態と言うよりも悪霊の仕業だと見るほうが適切です。しかし、ここで語られている症状は、現在の「てんかん」によく似ています。「引き倒す/たたき付ける」の原語には「引きちぎる/砕く」の意味もありますから、「引き倒す」は内容を汲んだ意訳です(詩的な言い方)。「口から泡を吹く」「歯ぎしりして呻く」「こわばらせる/動けなくする」も恒常的な病気の状態ではなく、「悪霊の仕業」だと見なされたのです。ヘレニズム世界では、このような異常な状態がある種の「神がかり」と思われていたようです〔コリンズ『マルコ福音書』437頁〕。
 マルコ福音書では、マタイ福音書やルカ福音書に比べると症状が詳細に描かれています。筆者(私市)は、マルコ福音書のこのような描写に出合う度に思うのですが、これらの描写は、マルコ福音書の作者自身が目撃しているか、あるいは、作者自身が、このような悪霊追放を行なっている/行なったと考えられます。かつて共に癒やしの伝道をしていたオズボーンさんが、「マルコ福音書は神癒の教化書」だと言っていたのを想い出します。
【できなかった】原文は「あなたのお弟子さんたちに頼んだのですが、これを追い出すだけの力が及ばなかった」で、弟子たちの「力不足」が強く出ています。
[19]【信仰のない時代】ここで言う「時代/世代」が具体的に何を指しているのか?が問われています。父親、弟子たち、民衆、律法学者たち、どれもあてはまるようにも思えます。しかし、直前に「力が及ばなかった」とあることから見れば、直接には「弟子たち」のことだと考えられます。ただし、「時代/世代」とありますから、イエスは、周囲にいる誰彼のことではなく、弟子たちの力不足をも含めて、「この世の人たち」の不信仰を嘆いているのでしょう。ここには、七十人訳申命記32章20節「それはよこしまな世代、信仰を持たない子たち」が反映していますから、マルコ福音書では「信仰/信頼」が重要視されているのが分かります。マタイ福音書とルカ福音書のほうは、申命記32章5節「不正を好む曲がった世代、神を離れその傷のゆえに、もはや神の子ではない」から出ています。
【いつまで】これに続いて「共に居る」と「我慢する」が並んで出てきます。「共に居る」は、イエスが間もなく地上から去ることを予測した言い方です。また「あなたたちに対して我慢する」は、イエスに敵対する人たち(律法学者たち!)をも言外に含むのでしょう。ただし、イエスのこの言葉には、人々から隠された神からの霊性が宿っていて、栄光の御霊を証しすることがイエスの使命であることをも指しています。だから、少年を連れて来なさいと命じたのです〔コリンズ『マルコ福音書』437頁〕。ここで言う「不信仰」については3章5節/4章40節/6章3節/7章18節/8章12節/同17節/14章48~50節などを参照。
[20]悪霊がイエスを見ると直ぐに、悪霊のほうからイエスに対して反応したのです(5章2節/同7節)。ここ20節の「引きつけさせる」の原語は「ススパラッソー」のアオリスト(過去)形で「けいれんさせた」ですが、26節の「スパラッソー」は「引きちぎる/食いちぎる/けいれんを起こさせる」ことです。どちらも同じ意味でしょう。「口から泡を吹きながら転げ回っていた」〔不定過去形〕とありますが、続くイエスの祈りに「ものを言わせない/言語障害の霊」とありますから、この少年は普段口をきくことができなかったのです。このために悪霊はいっそう激しく少年の「体に」働いて抵抗したのでしょう。
[21]~[22]【幼い時から】イエスが「いつ頃からか?」と尋ねたのは、その少年の症状と悪霊の働きを正確に知るためだと思われます。「幼い時から」とあるのは、症状が一時的なものではないことを意味しますから、悪霊の働きがそれだけ根深いことを意味します〔フランス『マルコ福音書』366頁〕。なお、「幼い時から」とあるので、息子は「子供」というよりも「少年」に近いと思われます。
【殺そうとして】悪霊が少年を<殺そうと意図している>ことを指します。だから、悪霊の働きの結果として、たまたまその子が火や水に飛び込もうとしたという意味ではありません。
【おできになるなら】原文は「あなたになにかできることがあれば」です。父親は、弟子たちが失敗したのを見て、イエスの力にも疑問を抱いていると思われます。1章40節でのライ病患者の癒やしではイエスの「意志」が問われていますが、ここではイエスの能力が問われています。
[23]~[24]「なにかできるのであれば」という父親の条件付きの願いは、息子の症状の重さから見て、イエスの霊能にも限界を感じたからかもしれません。これに対してイエスは、すかさず「信じる者にはなんでもできる」と答えます。
【できれば】原文では、「『できれば』とは!/あなたはわたしに『できれば』と言うのか?」のように、イエスは相手の言葉をそのまま繰り返して問い返しています。問題はイエスの能力のほうではなく、父親の信仰のほうにあるからです。ここを「もしあなた(父親)が信じることができれば」のように読み替える複数の異読があります。この読み方だと「できる」の主語がイエスではなく父親のほうになりますから、ほんらいの読み方を誤った後代の書き換えです〔新約原典テキスト批評100頁〕。
【なんでもできる】英語では "All things are possible for the one who trusts. "〔コリンズ『マルコ福音書』433頁〕です。「全能の神を信じる」ことの意味をこれほどはっきりと言い表わした言葉はありません。ここで言う「信じる者」(単数)とは、イエスを指すのか?それとも父親を指すのか?が問題にされています。父親のほうを指すとすれば、「信仰/信頼」によって、人間に神的な能力が授かることになりましょう〔コリンズ『マルコ福音書』438頁〕。しかし、父親の信頼に応えるのはイエスのほうですから「できる」の主語には、イエスと父親の両方が含まれているという解釈もあります〔フランス『マルコ福音書』368頁〕。なお、マルコ2章5節/5章34節/同36節/11章22節を参照。
【信仰のないわたしを】父親の答えを直訳すれば「信じます。わたしの不信仰を助けてください!」です。新約聖書の「祈り」をこれほど的確に言い表わす言葉はありません。不可能を可能にする神の働きも、人の神への信頼なしには生じませんが、その信頼もまた、神の助け無しには不可能です。
[25]【群衆が】すでに集まっていた群衆(14節参照)の数が増えてきたことを指すのでしょう。あるいは、イエスと父親とは群衆から少し離れていたのかもしれません。
【汚れた霊】ここまでは、単に「霊」と言われていましたが、ここでは「汚れた霊」とはっきりその正体を言い表わしています。これがマルコ福音書での悪霊追放の時の用語です(1章23節/3章11節/5章12節/6章7節/7章25節)。ここでのイエスの悪霊追放の祈りは、次のような特徴を帯びています。
(1)「もの言わせず耳を聞こえさせなくさせる」と悪霊の働きを正確に告げています。オズボーン師は耳が聞こえない人のために祈る時には、「左の耳に働く聴覚障害の霊よ」あるいは「両耳に働く」のように、どちら側の耳に働く霊なのかを告げていました。
(2)「叱って」とあるように厳しく<命令>していることです(1章25節)。
(3)「二度とこの子に入るな」とはっきり戻ることを禁じた命令を発しています。しかも「だれに」入ってはならないのかを告げています。オーラル・ロバーツの天幕での神癒集会では、ロバーツが悪霊に憑かれた女性に手を当てて祈ると、悪霊が次々と出ていって、大勢の聴衆の中で、ロバーツの祈りを嘲るように見ていたひとりの男に入り込んで、彼を地面に打ち倒したことが報告されています。
【叱る】マルコ1章25節を参照。「叱る」は、イエスが風と波に向かう時にもでてきます(ルカ8章24節)。なお旧約では、主なる神が諸民族や荒れる波を「叱る/った」とあります(詩編9篇6節/同106篇9節)。
【もの言わせず~】原語「アラロス」は口が利けない障害を指し、もう一つの「コーフォス」は、耳と口のどちらか、あるいは両方に障害のある場合です。おそらく「口を利けなくさせる霊」「耳を聞こえなくさせる霊」のように特定して命じているのでしょう。
[26]~[27]「死んだように」見えることと、手を取って「立ち上がらせる」ことは、5章35~43節の娘のよみがえりと似ています。しかし、娘の場合は、はっきりと死からのよみがえりであり、今回の場合は、そうではありませんから区別してください。悪霊追放の場合、激しい霊的な抵抗が、祈られる当人に生じることがあります。しかし、悪霊そのものと、これに取り憑かれている本人とは、霊的人格において別です。だから、悪霊追放の祈りそれ自体が、祈られる当人に害を及ぼすことはありません(5章6節と同14節を比較)。このことは、「罪を犯させる霊」の場合にも留意しなければならないことです。
[28]~[29]【家の中に】マルコ7章17節/10章10節を参照。マルコ福音書ではこのように「弟子たちの教育」が重視されています。
【ひそかに】マルコ4章10節/同34節を参照。弟子たちは、以前は悪霊追放に成功していたのに(6章13節)、今度はなぜ失敗したのか? 「そのこと」(原語の意味)が気になったのです。
【この種】悪霊をこのように種分けするのは四福音書でここだけです。「汚れた霊」を一般的に指しているという解釈もありますが〔フランス『マルコ福音書』370頁〕。ここに描かれている悪霊の仕業は相当に激しくひどいものですから、「悪霊」「汚れた霊」と言っても一様ではなく、特に「頑固に」抵抗する場合があることを指すのでしょう。
【祈りによらなければ】これは弟子たちが祈らずに悪霊追放を行なったという意味ではありません。「祈り<と断食>によらなければ」とある複数の異読があります。「この種の」と悪霊を特化していることと、原初教会では「祈りと断食」がしばしば並行していましたから、この追加は後の教会によるのでしょう〔新約原典テキスト批評101頁〕。イエスは断食を命じてはいませんが(マルコ2章19節)、断食を禁じてもいません(マタイ6章16~18節)。また、今回の悪霊追放でイエスが特に断食したとは思われません。弟子たちは、過去の成功に「狎(な)れて」、彼らの霊能は「イエスの御名」(ルカ10章17節/使徒言行録3章6節)によって授与されていたものであことを意識しなくなっていたからだとも考えらえます。「霊能」は「イエスの御霊」にある働きであることを忘れたり軽んじたりして、霊能者の業だと見なされると危険であり失敗の原因になります。
■マタイ17章
 マタイ福音書で今回の出来事は、14~18節の癒やしへの願いとイエスの応答、19~20節の弟子たちの問いとイエスの答えのふたつに分かれています。マタイ福音書とルカ福音書は現在のマルコ福音書を縮小したのか?それともより短い<原>マルコ福音書の記事があったのでしょうか?あるいは、共観福音書に共通する原伝承から来ているのでしょうか?「曲がった世代」などマタイ福音書とルカ福音書に共通していて、マルコ福音書にない部分もありますが、マタイ=ルカ福音書が、<原>マルコ福音書からだと言えるほどの根拠にはなりません。おそらく共観福音書に共通する原伝承から出ていると見るのが最適でしょう。マタイ福音書での編集は次の通りです。
(1)弟子たち律法学者など、マルコ福音書が語る状況がない。(2)群衆が出てこない。(3)親が跪いて「主よ」と呼びかける。(4)少年が「てんかん」だとある。(5)その病状で「火や水の中に倒れる」ことだけが伝えられる、(6)「この曲がった世代/世」とある。(7)イエスの前で悪霊が出ていく時の描写が抜けている。(8)結びのイエスの言葉が、マルコ福音書の「祈りと断食」から「からし種一粒の信仰」に変更されている。
 これで見ると、マルコ福音書では、イエスの霊能が問われ、その霊能が発揮されますが、マタイ福音書では、弟子たちの不信仰とこれに対するイエスの戒めに重点がおかれているのが分かります〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)719~20頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(2)676~77頁〕。
[14]マタイ福音書では、弟子たちと律法学者たちとの議論でイエスの霊能それ自体までも問われている様子が削除されています。このことは、マタイ福音書では、主イエスを信じる信仰が悪霊追放を含む霊能の業が伴うのは当然であることを前提にしていて、しかもマタイの教会には、そのような「奇跡」信仰が薄れていて、悪霊を追放「できない」という現状が背景にあると思われます〔ルツ『マタイ福音書』(2)677頁〕。
[15]ここで「主よ、憐れんでください」がでてきます。この「キュリエ・エレエーソン」(主よ、憐れみ給え)は、以後の教会で重要な祈りとして受け継がれ、正教でもカトリック教会でも、礼典で用いられています。
【てんかん】ここで少年が「てんかん」であることが告げられますが、「てんかん」の原語は「月に打たれる」ことですから、マタイ福音書でもこれが悪霊と関連していることに変わりありません。「火と水の中へ倒す」とあるのも悪霊の仕業を強調するためです。
[16]マルコ福音書では弟子たちの「力が及ばなかった」ですが、マタイ福音書では「できなかった」です。これが19節の弟子たちの問い「できなかった」につながり、イエスの言葉「なんでもできないことがない」に結びつきます。ここにはマタイの教会の霊的な状態への批判がこめられているのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』(2)677頁〕。
[17]【よこしまな時代】原語「歪んだ/曲がった/邪悪な」〔動詞「歪める」の完了形受動分詞から〕です。これは、おそらく申命記32章5節「ねじれて曲がった世代」(七十人訳)から出ているのでしょう(フィリピ2章15節)。今回のマタイ福音書では、「群衆」が一箇所だけです(14節)。おそらく「よこしまな時代」を群衆一般と結びつけるためでしょう〔ルツ『マタイ福音書』(2)675頁〕。
【いつまで】マタイ福音書では、イエスのこの言葉は、群衆よりも、むしろ弟子たちのほうに向けられているのでしょうか? 「いつまで」は、神が逆らう民に向けて語る時(民数記14章27節)、あるいは預言者が神に訴える時の言葉です(イザヤ書6章11節)。なおマタイ23章37節参照。
[18]マタイ福音書ではマルコ福音書の「もしできれば、と言うのか?」とこれに対する親の応答が省かれています。だからイエスの答えには、親の願いへの答えが直接含まれていません。
[19]【ひそかに】マルコ福音書では「家で」ですが、マタイ福音書では具体的な場所よりも、弟子たち(とマタイ教会の人たちに!)イエスが<ひそかに>啓示することを指しているのでしょう。
[20]マタイ福音書では、マルコ福音書の結びと全く異なる言葉が語られています。ここでのイエスの言葉は、共観福音書その他の次の箇所と関連しています。
(1)語録集:もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に向かって『根から抜けて、海の中に植われ』と言ってもよい。そうすれば(その木は)あなたがたに従う〔ヘルメネイアQ492頁〕。
(2)マルコ11章22~23節:に向かって「立ち上がって海に飛び込め」と言う。(3)マタイ17章20節:からし種一粒の信仰によって、に向かって「ここからあそこへ移れ」と言う。
(4)マタイ21章21節:に向かって「立ち上がって海へ飛びこめ」と言う。
(5)ルカ17章6節:からし種一粒の信仰によって、桑に向かって『抜け出して海に根を下ろせ』と言う。
(6)『トマス福音書』48:二人の者が同じ家で互いに平和を保つ(和合する)ならば、に向かって「移れ」と言えば、移るであろう。
 これらの箇所から判断すれば、これら一連のイエスの言葉は、語録集とマルコ福音書の二つの伝承から出ていることが分かります。まず(5)は(1)から出ていますから、共観福音書では(5)が最も古い伝承でしょう。次に(4)は(2)から出ていることが分かります。また、(3)は(1)と(2)の混淆だと考えられます。ただし、(3)は(6)とも共通しますから、『トマス福音書』がマルコ福音書よりも古いとすれば、(3)のほうが(2)よりも以前の伝承になりますが、(3)の「移れ」が(2)の「海へ飛び込め」へと変わるのは不自然ですから、これは逆の順序でしょう。
 語録集とマルコ福音書のふたとおりの伝承で、ルカ福音書は語録集から出ていますから、ルカ福音書独特の資料からです。マタイ福音書は語録集とマルコ福音書の両方を採り入れて、これを二箇所に分けて用いています。なお『トマス福音書』の言葉は、マタイ18章19節とも似ていますが、「和合」とは男女の一致を意味するグノーシス的な思想からでています。
【信仰が薄い】「あなたがたにできないことは何もない」はマタイ福音書だけですから、これはマタイによる編集です。だから、マタイ福音書では、弟子たちはイエスの言葉を「理解し、同意して」はいるものの、神の全能の働きに「信頼しきる」ところまで行っていない状態を指すのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)725頁〕。この言葉は、特にイエスの全能の力(奇跡)への信頼に関して出てきます(マタイ6章30節/8章26節/14章31節/16章8節)。
■ルカ9章37~43節
 ルカ福音書では、マルコ福音書で語られ、マタイ福音書で強調されていたエリヤの到来問題が省かれていまが、それ以外は、マルコ福音書の通りに山上での変貌から息子の癒やしへつないでいます。ルカは、マタイ福音書に基づきながらも、これを大幅に縮小しています。マルコ福音書との主な相違点は、(1)導入部に弟子たちも律法学者たちも出てきません。(2)少年の症状がやや抑えた言い方になっています。(3)結びは、ルカ福音書にしばしば見られる独自の終わり方です。全体として、ルカ福音書の描写は、イエスの霊能の力を印象づけるよりも、彼の父親への同情と慈愛から出た「癒やしの出来事」であることを感じさせます。
[37]【翌日】マルコ福音書では、変貌の出来事と同じ日のことですが、ルカ福音書では「次の日」です。変貌の時に弟子たちは「眠かった」とありますから(9章32節)、変貌は夜間に起こったことになり、「その翌日」夜が明けてから今回の出来事になります。だとすれば、ルカは当時のローマの暦、「明け方から次の明け方までを1日とする」暦によっていることになります。ここを「昼の間に」と読む異読があります。これは、パレスチナの暦(日没から次の日没までを1日とする)によった言い方です。
[38]【どうか】この節は「すると見よ」で始まります。父親の言葉を直訳すれば、「あなたにお願いいたします。わたしの息子をご覧になってください。わたしのひとり息子なのです」となります。「願う」とあるのはルカ福音書だけで、ルカ福音書にしばしば出てきます。「ご覧になる/顧みる/憐れむ」もルカ福音書だけで、「ひとり息子」とあるのも、イエスの恵みと憐れみを切に求めていることを表わしています。
[39]「霊」(プネウマ)とあるのはマルコ福音書と同じですが、42節では「悪霊」(ダイモニオン)に変わります。「突然」「なかなか離れない」「押し潰す/苦しめる」もルカ福音書だけですが、この部分はマルコ福音書の記事をルカ風に改めています。
[40]「できなかった」は、マルコ福音書にはなく、マタイ福音書と一致します。
[41]「連れてくる」はルカ福音書だけですが、「よこしまな世代」はマタイ福音書と一致します。これと「できない」とがマタイ福音書と一致しますが、おそらくこれは共観福音書に共通する原伝承から出ているのでしょう。
[42]「彼を連れてくる途中」はルカ福音書だけです。「汚れた霊」はマルコ福音書と一致します。「癒やして父親に返す」もルカ福音書だけで、「癒やした」は、ルカがこの出来事を「病の癒やし」に近づけて見ているからでしょう。「父親に返す」とあるのもイエスの慈愛を表わすルカ福音書の言い方です(7章15節)。
[43(a)]【神の偉大さ】「偉大な」(形容詞)から出た名詞で「壮大/壮麗/崇高/尊厳」などを表わします。ほんらいこの言葉は、王や皇帝の壮大な威厳と威光を表わし、またその行列の「壮麗」をも意味しました。しかし、「神の偉大さ」は、その威厳と威光だけでなく、人を区別しない心の広さ(度量)とその慈悲深さを表わしています(6章35~36節参照)。人々が「驚きに打たれた」のは、霊能の力だけでなく、イエス通して顕わされた神の大きく広い慈愛の威力によるものです。ここの結びは、マルコ福音書ともマタイ福音書とも全く異なっていて、弟子たちとイエスの「ひそかな対話」がありません(マタイ17章20節注釈を参照)。
■ルカ17章
[5]~[6]「からし種ほどの信仰」は、ルカ17章6節で、イエスの一行が旅の途上にある時に語られています。しかしそこ(6節)は、内容的に見れば、その前後から独立しています。5節は6節を導入するためのルカによる編集です。5節で弟子たちは信仰の量的な増大を願い求めているように見えますが、6節でのイエスの答えは、むしろ、たとえ小さくても質的にほんものの信仰の働きがいかに大切かを言おうとしているのです。しかし弟子たちが納得するよりも、むしろイエスの言葉は、彼らを「一瞬その場に足止めさせる」〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1142頁〕ほどの驚きを伴ったでしょう。
【使徒たち】「使徒」(原語「アポストロス」)はマタイ福音書にはなく、マルコ3章14節に出てきますが、ここはルカ福音書からの挿入だという説もあります〔新約原典テキスト批評80頁〕。だとすれば四福音書ではルカ福音書だけにでてきます(6章13節以下10回)。5節と6節冒頭の「<主は>言われた」はルカの編集です。
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