121章 二度目の受難予告
マルコ9章30〜32節/マタイ17章22〜23節/ルカ9章43〜45節
【聖句】
■マルコ9章
30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
■マタイ17章
22一行がガリラヤに集まった時、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
23そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
■ルカ9章
43人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。
44「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」
45弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
【講話】
■賞賛と沈黙の狭間で
今回の短い断片(エピソード)では、マルコ福音書が語っていることをマタイはさらに簡潔に縮めて、一番大事な本質だけに絞っています。ルカのほうも、マルコ福音書の記事から、その大部分を省いて、これに独特の深い洞察を加えています。共観福音書を重ねるときに見えてくるもの、それはイエス様の御受難に秘められた霊的な意義です。
霊能の業を賛美し感謝する人たち、その業を熱狂的に求める人々(ルカ9章43節)、人々のこの賞賛の裏側には、イエス様の受難への弟子たちの怖れと沈黙が隠れているのです(同45節)。人の目に留まること外から見て分かること、人の目には見えず外からは分からないこと、ここに、外見的な出来事と霊的な出来事の違いがあります。イエス様の十字架は、その「悲惨な現実」から、人々の目には失敗と挫折に終わる無力で無価値な結末に映りますが、この御受難には、隠された霊的な意味が潜んでいたのです。それは実に、人類の歴史に大きな転換をもたらす霊的な出来事の「しるし」だったのです。
■御受難の霊的な意義
マルコ福音書では、弟子たちが「分かることを怖れて分かろうとすること」を避けています。マタイ福音書では、弟子たちが、イエス様の言われることを「彼らなりに理解して悲しんで」います。ルカ福音書では、弟子たちに、これから起こることへの「人間的な洞察が与えられている」ものの、そこに隠された秘義を悟ることができないでいます。イエス様の十字架の御受難は、かくも不思議で不可解です。そこに潜む霊的な真理、これが啓示されるのは、イエス様が復活されて、その御霊がわたしたちに働いて初めて可能になるのです。
今回の物語断片は、十字架の秘義、受難の出来事が証しする霊的な意義が、人々の目から、そして、多分にわたしたちの目からも隠されていることを示唆してくれます。人間が己の欲と力で作り出す歴史、人間が自ら作り出していると思い込んでいる歴史のその裏側では、人間を超えた神の霊的な出来事が、人の目からは隠されて、ひそかに進行しているのです。この「霊の歴史」こそが、人間の歴史に「意味」を与えています。人類の霊的な成長は、その安楽からではなく、その苦難から創造されている。こう考えることができましょう。イエス様の御霊を通じて啓示された「神の歴史」は、人類全体だけでなく、その歴史に与るひとりひとりの歩みにも生きる意味を与えています。人それぞれが、神の御霊にある「聖史」に参与することで、人格的な霊性を賜わるからです。
このような「霊的な」意味や価値は、人間の理念や哲学によって到達できることではありません。ひとりびとりが、その時その場における神との交わりを通して啓示され、その啓示に導かれることによって初めて可能になるからです。御復活のナザレのイエス様の御霊にある御臨在、これにあって初めて、その人が、「霊の姿」へと創り変えられていくのです。その人なりの<新たな創造>が与えられるのです。
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