【注釈】
■マルコ9章の二度目の受難予告
 マルコ8章31節に続いて、今回が二度目の受難予告になります。この部分はおそらくマルコ福音書以前からのまとまった断片であって、マルコはこれを、二度目の受難予告としてここに配置したと思われます。先の予告の際には、弟子たちの反応がはっきりと表われていませんでしたが、今回で初めて、弟子たちの衝撃の深さが語られます。
[30]【そこを】北のフィリポ・カイサリアでの山上の変貌の場からガリラヤのほうへ南下してきたと思われます。9章33節から判断すると、一行はまだガリラヤ湖の北のほうからカファルナウムに向かっていることになります。9章14節では、イエスが山を降りた所で大勢の群衆に出会っていますが、「そこ」とはどこなのかがはっきりしません。
【通って】ここは、人目に立たないように「通り抜けた」という意味でしょう。イエスは先にも人目を避けていますが(6章31節/7章24節)、それぞれ、休息のため、難を逃れるためなどの理由があったのでしょう。しかしここで人目を避けたのは、すでに3人の弟子たちに啓示されたイエス自身の「真の姿」を人に知られないためであり、同時に、「それは、弟子たちに教えるため」(31節)とあるので、この目的だったことが分かります。
[31]【引き渡される】原語は「引き渡す/裏切る」の受動態現在形です。続く「殺される」と「復活する」は未来形ですから、その事態が、定められたこととして、旅において「すでに始まっている」ことを言おうとしています。「引き渡す」は、「裏切る」の意味をこめて、10章33節では祭司長と律法学者(最高法院)に、14章10節ではユダに、15章15節ではピラトについて用いられています。そこでは「イエスを引き渡す」主語はユダであり、ピラトです。しかし、今回の予告でも後の10章33節でも、「イエスを引き渡す」その主語が隠されています。「神の御心がその人に成就する」ことを表わす「神的な受動態」の用法をここにも読み取ることができます。だからここでは、「裏切る」ことではなく、神がその御心によって敵対する者たちにイエスを「引き渡す」ことを意味しています(ローマ8章32節参照)。この「引き渡す」には七十人訳イザヤ書53章12節「彼は死に引き渡された」が反映していると見ることができます。
【人々の手】「神」がその御子を「人々」に引き渡すことを言うのでしょう。「人の子」は、「自分」を指すだけでなく、ある特定の「人たち」を代表する「人/自分」のことをも指します。だからここでは、「人の子」と「人々」との間にこの関係を読み取ることができます。
[32]【この言葉】原語「レーマ」は、「まとまって語られた話」を意味しますが、マルコ福音書では希です。「レーマ」とあるのは、「この言葉」がとても重要であることを言うためです。なお「分からない」の原語は「無知である/知らない」ですが、ここでは「理解できない」ことです。
【怖くて】フィリポ・カイサリアでのペトロの告白と続く彼への叱責以後、弟子たちが内心で思っていたことがここで初めて明かされます。これまで弟子たちはしばしばイエスに尋ねていますが(4章10節/7章17節)、今回は、「もっとよく分かろうとして尋ねるのが怖いことが分かった」〔フランス『マルコ福音書』372頁〕のでしょう。尋ねるのが「畏れ多い」という意味ではありません。
【言って】原語の動詞「教える」は不定過去形で、「教えを繰り返した/教えておられた」ですから、「二度目」と言うのは必ずしも適切でありません。
■マタイ17章
 マタイ17章12節をもイエスの受難予告と解するのなら、16章21節以下を第一として、今回の箇所は三度目の予告になります。
[22]~[23]【一行】具体的に誰かは明らかでありません。「集まった時」を「一緒に移動していた」と解釈する説がありますが〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)733頁〕、そうだとすればイエスと十二弟子のことです。
【引き渡す】マタイ福音書の記事は、マルコ福音書のそれを受け継いでいますが、「引き渡され<ようとしている>」"is going to be handed over "とはっきりこれから生じる出来事であることを言い表わしています(「引き渡す」と「殺される」は現在形受動態の不定詞)。マタイ福音書では、「引き渡される」「殺される」「復活する(未来形)」の三つだけが取り出されて明確に預言されています。
【三日目に】マルコ福音書では、「殺されてから三日の後に復活するであろう」ですが、マタイ福音書では「<三日目に>復活するであろう」です。なお、マルコ福音書と異なって、マタイ福音書では弟子たちがイエスの言葉を「理解しなかった」とは言っていません。彼らはイエスの予告をそれなりに理解して「悲しんだ」のです。ただし、「復活」について、弟子たちはなんの反応も示していません。これは彼らの理解を超える出来事だったからです。
 
■ルカ9章
 ルカ福音書もマルコ福音書の記事を踏まえていて、これにルカなりの編集を加えています。ルカ福音書は、イエスが人目を避けてガリラヤを通り抜けようとしたことも、殺されようとしていることも省いていますが、その代わり「引き渡される=裏切られる」ことと、弟子たちの無理解がはっきりと語られています。
 ルカ福音書では、この予告が、先立つ少年の癒やしと密接に関係づけられています(43節)。人々がイエスの業を見て、神の偉大さに「驚いている」その直後に第二の受難予告が来ます。しかも、そのことは弟子たちからも「隠されている」のです。人々の「驚き」と弟子たちの「無知」との間に第二の予告が挟まるのです。人々の賞賛と熱狂ぶり(43節)で始まり、弟子たちからも隠されている人の手による人の子への裏切り予告、そこに生じる弟子たちの怖れと沈黙(45節)。ルカ福音書のこの小さなエピソードでは、人間の「無知な驚嘆」と「無知ゆえの沈黙」、この二つが、人の裏切りから生じる神のご計画(受難)を挟んで対比されています。
[44]【よく耳に】「あなたがたの耳で聞いたことをこの際しっかりと蓄えておきなさい」という意味で、マルコ福音書の「教えた」よりもはるかに深い意味を帯びています。ルカは、マタイ福音書同様に「引き渡されようとしている」を未来のこととしていて、しかもマルコ福音書の「神による受動態」と、「人の子」と「人」(複数)の対比/対照をも意識しています。
[45]【隠されていた】原語の動詞は完了形受動分詞で、「今までずっと人の目から隠されてきている」ことを指します。これはユダヤの黙示文学で、神の秘義がこの世の人から「隠されて」いて、これが終末に初めて開示/啓示されることを意味します。イエスの受難の秘義は、復活によって初めてその意義が啓示されたからでしょう。
                       戻る