122章 神殿税を納める
マタイ17章24〜27節
【聖句】
■マタイ17章
24一行がカファルナウムへ来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところへ来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。
25ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言い出された。「シモン、どう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
26ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。
27しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖へ行って釣をしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。
                      【注釈】
                      【講話】
■2世紀以降の解釈
 今回の箇所は、マタイ福音書以後の教会で、特に2世紀以降では、ユダヤの神殿税というよりは世俗の国家による税とキリスト教徒とのかかわり方を教えていると受け取られるようになりました〔ルツ『マタイ福音書』(2)692〜94頁〕。このような解釈は、エルサレムの神殿がもはや存在しておらず、キリスト教がユダヤ教から分離した結果として当然の成り行きでしょう。
 神の御子であるイエス様は純粋に霊的な存在です。けれども、地上のキリスト教徒は霊性と肉体の両方を兼ね具えていますから、「霊」においては、キリストとその教会に従うけれども、肉体の存在としては、「地上の王」の権威・権力に従うというのがルターの教えであり、宗教改革時代は、概(おおむ)ねこの路線に沿って今回の箇所が解釈されました。だから今回の箇所は、マルコ12章13〜17節の「皇帝への税か?神への税か?」という問いかけや、ローマ13章1〜7節でパウロが、帝国に対してキリスト教徒は税/貢ぎの義務を果たすように勧めている箇所と結びつけられたのです。キリスト教徒は、霊的には地上の権力から「自由」であるけれども、肉体的な存在としては、地上の権力の束縛の下に置かれるわけで、このような、霊と肉体との二分割論は、16世紀から近代以降、宗教的自由と国家権力の二分割論として現在でも行なわれています。だから、マタイ17章26節に重点を置けば、神の子たちは地上の権力から自由であり、同27節に重点を置けば、地上の権力と平和を保つように心がけることにもなりますから、26〜27節には、イエス様の御霊にある不思議なバランスが保たれています。 では、そもそも国家(とその権力)とは、どういうものなのでしょうか?
■国家の主権とは?
 17世紀にイングランドでピューリタン革命が起こった際に(1642年)、イングランドでは、同じ家族の間でさえ王党派と議会派とに分裂しました。議会側の軍隊が勝利した結果、国王チャールズ1世は、ウェストミンスターの議事堂前で処刑されることになり(1649年)、世界で初めて、国民の名において国王が処刑される、という大きな出来事が起こりました。ただし、革命の中心人物であったクロムウェルが亡くなると、王政復古が行なわれ(1660年)、チャールズ2世が即位して、以後英王室は現在にいたっています。
 ピューリタン革命の発端となったのは国王チャールズが英国民に課した税金、特に外国との戦争のために多くの軍艦を建造する必要に迫られて、多額の軍艦税を議会に要求したことに始まります。この税をめぐって、国王と議会が対立したのです。
 実は両者の対立には、もう一つの背景がありました。それは宗教問題です。当時イングランドの教会は、ヘンリー8世以来のイングランド国教会制度によるもので、これは、国王を教会の元首とし、大主教が教会の頂点にある主教制とも呼ばれています。ところが北のスコットランドは、ジュネーヴで改革を行なったカルヴァンの流れを汲む長老制の教会制度を採っていました(この事情は現在でも変わりません)。このため、国王は、スコットランドの教会制度をイングランド国教に従わせて主教制にしようと意図し、このためにイングランドとスコットランドとの間に、いわゆる「主教戦争」が起こりました(1640年)。イングランドの議会には、国王側の議員だけでなく、長老派に与する議員、より徹底した教会改革を求めるピューリタン的な議員さえいましたから、イングランド軍がスコットランド軍によって敗退すると、国王と議会の間に対立が生じました。その結果、税金問題に端を発した対立が、宗教問題と結びついて、ついに議会に「主教制根絶」の法案が提出されることになったのです(1641年)。
 議会が最期に採った手段は、国王から徴兵権を奪い取ることでした。国王が国王のために闘う兵力を議会が議会のために闘う兵力へと転換させるために、議会による徴兵権を発動したのです(1642年)。事ここにいたって、国王と議会は完全に対立し、ピューリタン革命の内戦が始まりました(1642年)。革命側が勝利した結果、主教制は廃止されました(1660年まで)。
 わたしは、桃山学院の図書館に蔵されている当時のイングランド議会の議事録(貴族院と庶民院の)を調べることで、ピューリタン革命に至るまでの過程をたどったことがあります。そこに浮かび上がってきたのは、国家の「主権」"sovereignty"ということです。税は、だれが徴収し、だれのために使うのか? 宗教制度は、だれがこれを決める権利があるのか? 軍隊は、だれが募集して、だれのために動かすのか? 「税」と「宗教・思想」と「軍隊」、この三つこそが、国家権力それ自体を構成する三つの要素であることを知ったのです。この事情は、古今東西、現在でも変わりません。権力者は、服従する民に、「金」(労働の利益)と「思想・信条」(出版・教育)と「軍」(軍隊・徴兵を通してその身体生命)、この三つを要求し、これを通じて民を支配することをもくろむのです。現在の日本で言えば、財務省と文部科学省と防衛省の三つを支配下に置くことができれば、事実上この国は、その者の支配下に入ることになります。
■日本の現状と将来
 現在のわたしたちには、イエス様の時代の神殿税は直接関係がありませんから、わたしたちも、2世紀以降の教父たちにならって、政治権力(政権)と宗教的な権威(教権)の関わり方を考えてみたいと思います。この問題は、昨年(2012年)自民党が民主党に圧勝してから、急に現実的な問題になってきました。自民党は、現在の憲法を変えようとしています。その試案によれば、天皇は国家の「象徴」から「元首」になり、9条は軍事力を肯定する内容に変わり、個人の自由は公共の益のために制限され、国家が市民に奉仕する「主権在民」の根本思想が、国民が国家に奉仕する「国家主義」的な路線へと方向転換するおそれがあります。
 特に最近では(2013年2月)、このような自民党の動きに、中国と日本の突閣列島をめぐる争いが絡んできています。北朝鮮が本格的な核武装を始めたことが今年初め(2013年)に報じられています。憲法が変われば、これらの動きに刺激されて、日本が遠からず核武装へ踏み切る可能性さえあります。安倍内閣は、インフレ目標を2%に定めて貨幣を無制限に発行しようとしていますから、これは福祉よりもむしろ軍備の拡大につながるでしょう。教育は国家主義的な「国民教育」へ、経済は軍備拡大へ、宗教・思想面では国家主義、民族主義的な傾向が強くなることが予想されます。民族主義それ自体は必ずしも誤りではありませんが、民族主義が感情的な国粋主義に走るなら、日本は世界から孤立するおそれがありますから、これを警戒しなければなりません。
 少なくとも当分は(21世紀の半ばころまで?)、日本と中国との対立は続くでしょう。しかし、長期的な視野に立って見るならば、中国を支えている国家権力志向は必ず破綻を来たし、ティベットやタジキスタンなど、現在中国の支配下に置かれている民族が独立して、中国それ自体が、ちょうどかつてのソ連邦のように瓦解する可能性があります。そうなれば、中国にも宗教的な自由が認められるようになり、日本・韓国・中国を結ぶ東アジアキリスト教圏が誕生する可能性が出てきます。
 ただし、中国との対立が長引くならば、日本と韓国と台湾、フィリピン、オーストラリアとニュージーランドを結ぶ「西太平洋キリスト教圏」の可能性もありましょう。この場合東アジアは、宗教的に見ると、キリスト教圏、仏教圏(インドシナ3国とミャンマーとタイ)、イスラム教(インドネシアとマレーシア)、ヒンズー教(インド)、そして儒教的共産国(中国)と五つに分かれることになります。
 どちらにせ、その時が来るまで日本は国際的に孤立することがあってはなりません。国際的な視野を見失うことなく中国と対処するなら、日本は思想的・宗教的に中国に大きな影響力を発揮する時が必ず来ます。これが長期的な視野に立つ見方です。税は国民の生活を守り、軍隊は国の防衛に徹し、思想はアジアの平和を守る、これがこれからの日本の歩むべき道です。わたしは、このためにも日本のリヴァイヴァルがこれからますます重要な意味を帯びてくると信じています。
■御霊とその時代
 イエス様はペトロに人々を躓かせないように、神殿税を納めなさいと言われました。「躓かせないため」とは、人々がイエス様の説く「神の国」に入ることから、彼らを躓かせないという意味です。イエス様にとって、神の御霊のお働きとそこに生起する「神の御国」以外に大事なものは何もないのです。この点ではパウロも同様です。御国を見いだす人は命に入る人です。命とは肉体の存在を超えた永遠の命のことです。御霊がもたらす神の国とは、イエス様が「たとえ天地が過ぎ去るとも、わたしの言葉は過ぎ去ることがない」と言われたように、何時までもなくならない命ですから、人間の到達することのできる最高の霊性がここに啓示されています。この霊性の前には、国家権力も宗教的な権威も、神殿税の問題も、いっさい問題にならないのです。
 では、神の国さえ求めていれば、この世の中のことはどうでもいい。このように誤解されるかもしれません。これは、御霊の世界をほんとうに体験していない人の淺知恵です。イエス様の御霊にあって生きるとは、「今の時」を生きることです。「今の時」を生きる人には、「今の時」が見えてくる。「今の時」が見えてくると、この点が不思議ですが、将来をも見通す視野が与えられるのです。預言者イザヤがその例です。彼は、アッシリア帝国の権力に脅かされている南王国ユダの民に、偏狭で民族主義的なヤハウェ至上主義に陥るならアッシリアに滅ぼされると厳しく警告しました。イザヤが見通したとおり、アッシリアに逆らった北王国イスラエルは滅ぼされました。お陰で南王国ユダは、どうにかアッシリアの支配下で生き延びましたが、続く新バビロニア帝国の時には、預言者エレミヤの警告にもかかわらず、愚かにも帝国に逆らって、国土を失い捕囚の憂き目に遭うことになったのです。
 イザヤは、イスラエルで初めて、本格的な<唯>一神教に到達した人です。彼は、殺戮と戦乱の世の中にあって、絶対平和の世界が訪れる終末を預言した人です。「草は枯れ、花は萎(しぼ)む。しかし、わたしたちの神の言葉は永遠に立つ」(イザヤ書40章8節)。「草」とはイスラエルを含む諸国の民、「花」とはこの世に栄える栄華と権力のことです。これは、イザヤの後を継いだ第二イザヤの言葉ですが、ヤハウェの霊に満たされて「今の時」を見抜いた預言者たちは、厳しい現実を見つめつつ、しかも終末が訪れる時を知り、永遠を見失うことがなかったのです。イザヤは、永遠を想い終末を知る者こそが、今の時に対して正しく対処することができることを教えてくれます。
 イエス様がペトロに向かって神殿税について語ったのも同じ霊性に基づく視野からです。イエス様の御霊にある者は、永遠の霊性を見失うことなくその時々の事態に対処できます(26節)。しかも彼は、固定的な原理原則に束縛されることなく、この世にある人たちを躓かせることがないように配慮しつつ、臨機応変に対処する知恵が与えられるのです(27節)。後の教父たちが、マタイ福音書のこの記事から、時の権力にどのように対処すべきかを学んだのも同じ霊性からです。ただし、この記事は、魚の口から銀貨が出るという奇跡で終わっています。地上にあってそのようなイエス様の霊性を生きるためには、人の力の及ばない神のお働きが絶対に必要だということを魚の奇跡は物語っているのです。(2013年4月)
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