【注釈】
■神殿税に関する伝承
神殿税に関する物語はマタイ福音書だけです。場所がカファルナウムに設定されていますが、この設定は、第二の受難予告に続くマルコ9章33節から採られたのでしょう。この伝承はほんらい独立したもので、これがマタイによってこの場所に置かれたと見ることができます。「2ドラクマ」「税」「税を納める」「地上の王」など、ここだけの語彙が含まれており、「最初に捕れた魚」「わたしとあなたの分」などアラム語的な語法が見られますから、古い口頭伝承から採用されたのかもしれません〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)737頁(注)3〕。
この物語では、イエスと神殿税との関わりが奇跡と結びついていることが問題にされています。しかし、税と奇跡とが分かちがたく結びついて語られていますから、奇跡が後から加えられたと見ることはできせん。
もう一つの問題は、ここで問われているのがユダヤの神殿税なのか、それともローマ帝国による人頭税のことなのか、という疑問です。25節のイエスの言葉は、問われているのが「地上の王」、すなわちヘロデ家あるいはローマ帝国のようにも受け取れます。エジプトでは、ローマの人頭税が2ドラクマであったことなどがその理由です。しかし、神殿税それ自体に反対することをせずに、父なる神と地上の王とを対比させるのは、ユダヤ人キリスト教徒の教会ではなく、イエス自身により近いと考えられますから、この物語にはイエス自身にさかのぼる特徴が表われていると言えます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)742頁〕。
したがって、現在ではここを世俗の税と受け取る見方は否定されています。ただし、現在のエフェソの遺跡にも見られるように、歴代の皇帝は自分の社を建てて、そこを皇帝への納税の場所としました。エルサレム神殿が崩壊した後で、その代わりに建てられた「ジュピター神殿」が、皇帝への納税の場所でもあったとすれば、神殿税にかかわるほんらいの伝承に、マタイ福音書(80年代)の記者が皇帝への納税問題を重ね合わせて見ていると考えてもおかしくないでしょう(ブルトマンはジュピター神殿が<直接には>この物語の基であることを否定していますが〔『共観福音書伝承史』(1)『ブルトマン著作集』(1)60頁〕。
魚の奇跡は、その描写の仕方から史実だとは考えられていません(ペトロがイエスの言葉通りに行なったと記されてはいません)。魚が聖者を助けた話は、ヘレニズム世界やユダヤの民話に広く見られますから、この部分はおそらくイエスの語った言葉と結びついてできたのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』741~42頁〕。
■マタイ17章
[24]【神殿税を集める者たち】原語のギリシア語は「2ドラクマを徴収する者たち」です。ギリシアの銀貨「2ドラクマ」はユダヤの聖所維持のための神殿税「銀半シェケル」にあたります。おそらくこの「2ドラクマ」はパレスチナでは「神殿税」の意味で用いられていたのでしょう。「2ドラクマ」は、神殿税ではなく人頭税だという説もありますが、詳しくは四福音書補遺の「税と貨幣」を参照してください。場所がカファルナウムなので、イエスはペトロの家に滞在していたのでしょう。だから、家の当主であるペトロに対して神殿税を徴収に来たのです。神殿税は、過越祭の巡礼の際にエルサレム神殿で直接納めることもできましたから、イエスの一行が過越祭でエルサレムへ上がろうとしていたとすれば、神殿で納める予定だったのかもしれません。
[25]【納めます】原語は「ナイ」で、「はい」です。英語の"yes"と同じで「はい、納めます」の意味です(日本語の場合は「納めないのか?」に対する答えは「いいえ、納めます」です)。ペトロはここで自分の一存でこのように答えたのでしょうか?それともすでにイエスとこの問題について話し合っていたのでしょうか?この点がはっきりしません。
【地上の王】旧約聖書の伝統として、神と対比させて(マタイ18章1節参照)人間世界の王のことを「地上の王」と言います(詩編2篇2節/同76篇12~13節参照)。
【税や貢ぎ物】原語は「テロス」(複数形)と「ケーンソス」(単数)です。パレスチナでは、「テロス」は関税などをも含む一般的な用語であり、「ケーンソス」はローマ帝国の支配下に置かれた諸州に課せられる人頭税のことです。「関税や人頭税」〔岩波訳〕。
【自分の子供たち】イエスはここで、「地上の王たち」と「神」とを対比させて語っています。「地上の王」は単数ですが、おそらくローマの皇帝のことだけでなく、オリエントの諸王国の場合をも含んでいるのでしょう。地上の王たちは、属州や属国の民から税を取り立てますが(「ほかの人々から」はこの意味)、自分の家族に税を課すことはしません。
[26]26節後半の原文は「そうであればこそ、その子供たちは自由である」です。「自由である」は、懲役や貢ぎ物が免除されることを意味するイスラエルの古い言い方です(サムエル記上17章25節の「特典を与える」がこの意味)。「地上の王たち」がその支配下の民に課税するように、神殿税はイスラエルの民に課せられます。では神殿税を課す支配者はだれでしょうか? 神殿の主(ぬし)であるイスラエルの「主なる神」です。ではその神の「家族」とはだれのことでしょうか? マタイ福音書の意図からするなら、それは神の御子であるイエス自身のことを指すと思われます。そうだとすれば、「子供たち」と複数なのは、イエス独りのことではなく、イエスと共に居るイエスの「家族」としての共同体を意味するのでしょう。だから、イエスだけでなくペトロも同様にその特典に与ることができるのです。このように、ここでは、イエスとその共同体が、神の家族として神殿税から「自由である」という発想が語られています。イエスが「神殿より偉大な方」であるのならば、その弟子たちもイエスの特典に与ることはマタイ12章6節にもでています〔フランス『マタイ福音書』669頁〕。
ただし、この解釈に対して、イエスがここで言う「子供たち」とは、イスラエルの民全体を指していると理解して、そもそもイスラエルの民は、神殿だけでなくローマ帝国からの税そのものからも自由であるべきことをイエスはここで主張しているという見方もあります(この点については四福音書補遺の「税と貨幣」を参照)。この26節は、エルサレム神殿の祭儀から独立して「自由」になったイエス以後のキリスト教会の見解を反映しているという見方もあり、特に神殿崩壊(70年)以降の状況を表わすという見解も可能でしょう。しかし、27節から判断すれば、25~26節はイエスの言葉にさかのぼらせることが可能です〔ルツ『マタイ福音書』(2)687~88頁〕。
[27]【彼らをつまづかせないように】イエスのこの指示は、ファリサイ派の人たちに対する「浄め」についての厳しい批判とはずいぶん違います(マタイ15章10~14節)。「浄め」の場合は、ほんらい人間的な方策から出た教えを「神からの律法」として人々に強制することで、逆に神の律法の真意を歪めてしまうものでした。それゆえにイエスは、これを厳しく批判したのです。今回の神殿税の場合も、ほんらい自発的な捧げ物であるべきはずのものが、一般的な慣習として徴税されていました。ただし、この神殿税については、当時もこれに反対して、年に一度ではなく生涯に一度で済ませるエッセネ派があり、この税は「律法」としてではなく、慣習的に行なわれていたと考えられます。イエスは、このような一般民衆の慣習を厳しく批判することで彼らを<不必要に>躓かせることを避けようとしたのです。だからこれは、徴税人への譲歩ではなく、民衆の慣習に基づく信仰を重んじるところから出た言葉でしょう(マタイ18章6~9節)。
【釣れた魚】魚の口からでた銀貨のこの奇跡については、イエスの一行が貧しかったので支払いができなかったからだという想定もありますが文面からはそこまで読み取れません。イエスは、一行が所持している貴重な銀貨をわざわざ神殿税のために費やす必要がないと考えて、ペトロにこのように指示したとも受け取れます。イエスとペトロの二人分の神殿税は4ドラクマ銀貨にあたりますから、「銀貨」とあるのはギリシアのスタテール銀貨のことで、これは4ドラクマ銀貨(「2ドラクマ」神殿税の二人分)に相当します。イエス当時の北シリアのアンティオキアでは、1スタテール銀貨が4ドラクマ銀貨に相当したことが報告されています〔フランス『マタイ福音書』670頁(注)24〕。魚が貧しい聖者を助けた話は、パレスチナやヘレニズム世界だけでなく世界中の民間伝承に見られますから、イエスの神殿税への言葉が、このような民間伝承と結びついたとも考えられます。現在、イスラエルの聖地巡礼の旅行で、ガリラヤ湖の東岸に「ペトロのかれい」と呼ばれる魚を食べさせてくれる所があります。この魚は、いろいろなものを口にくわえる慣習があるので、そこから今回の話が出たのではないかと言われています。結論を言えば、この物語はイエスにさかのぼるものでしょう。イエスは、イスラエルの民が、ほんらい父である神の子供として、神殿のための捧げ物は自由であるべきで、税として徴収されるべきものではないと語ったのです。イエスがエルサレム神殿で両替人たちを追い出したこともこの見方を支持します。
ただし、この問題は、ファリサイ派との間で争われた律法問題のように、神の意志とこれを妨げる人間的な方便にかかわることではなく、民による自発的な捧げ物に関することですから、イエスは徴税人への配慮と言うよりは、一般の民の慣習を慮(おもんぱか)って「躓き」を与えないよう配慮したのです。マタイ福音書には、パレスチナの北シリア、とくに初期教会において大きな役割を話したアンティオキア教会の信仰が反映していると見られていますから、キリスト教の福音がユダヤ教と平和な関係を保つことを配慮したことも27節に反映していると思われます〔ルツ『マタイ福音書』(2)690~92頁〕。ただし、エルサレム神殿崩壊以後に書かれたマタイ福音書の意図には、当時ローマによって「不当に」課せられていた旧エルサレムのジュピター神殿への「地上の王」による課税に対する反発があると見ていいでしょう。少なくとも、これ以後のキリスト教会において、マタイ福音書のこの物語は、「地上の王」による課税にどのように対処すべきか、に解釈の関心が集まることになります。
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