123章 最も偉い者
   マルコ9章33〜37節/マタイ18章1〜5節/ルカ9章46〜48節
                  【聖句】
 
■マルコ9章
33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
■マタイ18章
1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
■ルカ9章
46弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
47イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
48言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
                  【注釈】
                  【講話】
■福音書の記者の意図
 マルコ福音書の記者は、御霊の導きのもとに、伝承に従って書き著わそうとしています。その際彼が求めているのは、自分の名前を出すことでもなく、自分独自の思想を伝えることでもありません。伝えられた資料と伝承をあるがままに構成して後世に伝えることが自分の使命であることを知っているからです。だから、イエス様を通して啓示された神の御言葉を御霊にあって受け継ぎつつ語ることだけが彼の祈りであり願いです。復活のイエス様の御霊に導かれるとは、そういうことを意味するからです。
 ただし、マルコが伝えようとするのは、単に過去からの伝承だけではありません。主イエス様の御霊が、現在自分が所属しているエクレシア(キリスト教会)にも語ろうとしていることを知っているからです。ところが現在の教会では、それがローマであろうともエジプトであろうとも、教会の拡大に伴って、信者同士の「身分の格差」が問題になっています。それは、信者の社会的身分にも関係しますが、それよりも、教会の内部での霊的な優劣とも深くかかわっています。
 伝承を受け継ぐ者として、マルコは、そのような教会の現状に憂いを抱いて見ています。時には見るに忍びない思いをすることがあるからです。このためでしょうか。彼は、第二の受難予告に続けて、一連の「イエス様の教え」をイエス様の在世当時の姿を想い描きつつ今回の箇所に置くのです。
■子供について
 今回は子供のことがでてきますが、ここで言う「子供」は、現在わたしたちが考えるような「かわいい無邪気な子供」という意味とは少し違うようです。良い意味で言えば素直で単純な性質を意味するのでしょうが、今回の場合は、取るに<足りない小さな存在>という謙虚さをイメージしているからです。しかし、子供は、何時の時代でもそうですが、世の中が不幸や災害や戦争に襲われた時には、だれよりも最初に犠牲にされる存在です。だから、子供が幸せな国は幸せな国であり、不幸な国では例外なく子供が不幸な目に遭います。
 19世紀のイギリスで産業革命が進行していた頃、ロンドンは煙突の煙で「霧のロンドン」と呼ばれました。その煙突の掃除人たちは10代前半の子供たちでした。彼らは高い屋根に上って、場合によっては狭い煙突に潜り込んで過酷な労働を強いられましたから、仕事を探して「掃除、掃除」"Sweep,sweep"と言いながら町を歩く呼び声が、「泣く、泣く」"Weep, weep"と聞こえたそうです。
 これを書いている前日は、ヴァレンタインの日でした(2013年2月14日)。日本の店を飾る色とりどりのチョコレートの陰には、アフリカのガーナのカカオ農園で、収穫したカカオ豆の重さ4〜5キロほどの篭を頭に乗せて運ぶ過酷な労働が子供たちに強いられています。日本のNGO(ACEという名称)の若い女性たちが、その子供たちの救済活動を行なっている姿がテレビで報道されていましたが、ガーナではそんな子供たちが現在100万人いるそうです。恵まれた消費文化の裏には、こういう子供の犠牲が潜んでいたのです。
 現在、世界のあちらこちらに内戦や弾圧を逃れて集まる難民たち、飢餓状態に陥った子供たち、弾圧と貧困の中で孤児になったストリート・チルドレンなど、現在も犠牲にされた子供たちが大勢います。イエス様が、「これらの小さな子供を受け入れる者」と言われたのは、こういう立場に置かれた人たちを指しているのです。「彼らはわたしなのだよ」と言われているのです。
 だから、今回の箇所は、かわいい純真な子供を「模範にしなさい」という意味以上に、子供のような弱い者や小さな者たちを犠牲にする社会の過酷な陰に目を向ける神の視線をイエス様を通して教えられるのです。霊的な視線はこの世の裏に潜む暗部に向けて注がれるものだからです。
■イエス様の御霊の命とは?
 イエス様の御復活の命、ヨハネ福音書で言う「永遠の命」とは、人間の霊性が到達する最高の段階を指していますが、こういう霊的な永遠性は、飽き足りた幸せな人たちの間から生まれるのではなく、不幸な悲しい状態に追い込まれた人たちの間から創り出されてくる霊性ではないかと思います。知識人や利口な人や幸せ組の人たちは、不幸で惨めな環境の中にあっても、なお生き抜く人間に働く神からの生命力も、そこに隠されている輝く霊的な生命も観ることができないでしょう。だから彼らにすれば、そのような「霊性」や「永遠の命」は、単なる幻想か心理的な妄想くらいにしか思わないでしょう。
 けれども、何十億年間におよぶ生命の進化と、そこから生じた人類の歩みを見ると、人類が現在のように「進化」したのは、幸福な状態にあったからではなく、逆に不幸な状況、厳しい環境、生命絶滅の危機に直面した体験の中から不思議な神のお働きによって創り出されてきたというのが、真相なのです。お金持ちよりも貧しいラザロのほうが、アブラハムに近いのです(ルカ16章19節以下)。
 今回の箇所では、子供に見習うことと子供を受け容れることが重なっています。この二つが重なるのは、イエス様を心から愛してイエス様に従う者はイエス様に見習うからです。イエス様に見習うとイエス様がご自分を同列に置かれた貧しい取るに足りない者を受け容れるようになります。彼らがイエス様だからです。こうしてイエス様に近づくと、イエス様の言われる「永遠の命」の意味がだんだん分かってきます。このような命が有ることが分かる人が小さな者を受け容れるようになるのかもしれません。あるいは逆に、小さな者を受け容れる人にはイエス様の言われる永遠の命が分かるようになるのかもしれません。
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