124章 逆らわない者
マルコ9章38〜40節/ルカ9章49〜50節
【聖句】
■マルコ9章
38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。
■ルカ9章
49そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
【注釈】
【講話】
■同じ御名のもとに
 今回の箇所は、小さくまとまった宗教的なグループの有り様(よう)について大事なことを教えてくれます。熱心で霊に燃えた祈りの小宗団で、しかも癒やしや悪霊追放という際立つ「しるし」を伴う活動をしていたのですから、弟子たちは人々から特別に注目されていたでしょう。こういう宗団は、とかく閉鎖的になりがちで、自分たち以外の人たちの宗教活動を排除したり批判したりする傾向があります。特に悪霊追放という人目を引く「しるし」を伴っていましたから、これはイエス様だけでなく、その弟子たちの「権威」を象徴する大事なしるしだったのです。現在でも、いろいろなキリスト教宗団が、それぞれ独特の霊能を「しるし」として帯びている状況を思い浮かべるとよく分かります。
 現在、キリスト教と名がつく宗派、宗団、集会は星の数ほどもありますが、東方教会もカトリック教会も、プロテスタント諸派も、例外なく「イエス・キリストの御名」を帯びています。「同じ名前」の主を信じ、その主の父なる神を信じていながら、互いに一致できないのはなぜでしょうか? 弟子ヨハネの言葉を借りると「わたしたち」に従わないからです。「わたしたち」のグループこそほんものだ。だから、この「わたしたち」に従わないものは「イエス様の御名」を唱えてはならない。こういう偏狭なキリスト教宗団をイエス様は厳しくお叱りになるのです。たとえ「あなたがたに」(ルカ福音書のほう)に従い、「あなたがた」と一致しなくても、「わたしの名」を唱えている人たちを批判したり裁いてはならないと言われているのです。
 昨日(2013年2月28日)ローマ教皇ベネディクト16世が老体のゆえに退位されました。現職の教皇の退位は600年ぶりだということです。新聞の記事によれば、この教皇は、東方教会とイギリスの聖公会との一致を願っていたのに、それを果たすことができなかったとありました。カトリックのような伝統ある巨大組織でも、開かれた交わりが必要であることを痛感しておられたようです。わたしたちコイノニア会のように、巨大組織の対極にあるミニ集会こそ、同じ御名を唱える諸教会と交わりを持つ「開かれた霊性」を保ち続けなければなりません。
 おそらく、ヨハネが批判したその人は、イエス様の御名を使って悪霊追放を行なっていたのでしょう。弟子たちが失敗したのに(マルコ8章18節)、彼の悪霊追放は成功したようです。イエス様の御名を用いるならば、イエス様の弟子にならなくても御名の力を信じさえすれば、神のみ力が働いて霊能の業が起こるのです。こういう霊能信仰をどう言い表わせばいいのでしょう。「イエス様知らずのイエス様の御名信仰」という奇妙な事態が存在するのです。使徒言行録8章9節以下の魔術師シモンの場合がこれに近いでしょう。ところが、このことがかえって弟子ヨハネを刺激したようです。ヨハネに対してイエス様は、その人の働きを通じて<現実に>神様が働いておられるのだから、彼を裁いたり批判したりしてはいけない、こう戒められたのです。真理は広いのです。だから、儀式や教義にこだわらず、祈りを深めることで深く広い霊性の真理に目を啓(ひら)かれること、これが大事です。
■逆らわない者
 今回の箇所でイエス様は、「同じ御名」のもとにある人だけでなく、さらに広く「逆らわない者は味方だ」と言っておられます。ところがキリスト教徒の中には、仏教では救われない、神道は悪霊だなどと、日本古来の諸宗教を批判したり、場合によっては呪ったりする人たちがいます。これは外国のキリスト教徒の中に多いのですが、日本人のキリスト教徒でも同じ考えに立つ人たちがいるようです。
 幸いにして現在のところ、仏教や神道の側から「キリスト教は敵だ」と批判したり非難したりする声が聞こえないようです。「逆らわない者」に向かって、なぜキリスト教徒がわざわざ批判や非難を繰り返すのか? 今回のイエス様の御言葉に従うなら、これはむしろ逆です。相手を逆らわないように仕向けて味方に付けていくことのほうが大事です。いたるところで宗教同士の争いや対立が深まっている現在の世界で、わたしたち日本の国では、そのような宗教的な批判や非難が行なわれていないのは実に有り難い神の恵みだと言うべきでしょう。日本ではキリスト教徒が全体のわずか1%だ、などと嘆く声が聞かれますが、「逆らわない者」を批判する80%のキリスト教国よりも、わたしは現在の日本人の霊的な有り様(よう)のほうがはるかに優れていると思っています。
 この東アジアでは、カトリックキリスト教、プロテスタントキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教、無宗教共産主義などが併存しています。こんな状況の中で、もしも「わたしたちに従わない」宗教や信仰を敵視したらどんなことになるかだれでも分かります。欧米の企業は、現在インドを含む東アジアの諸国に武器を売り込もうともくろんでいます。紛争と争いを商売にして、できれば局地的な戦争を起こさせたいと企(たくら)む「死の商人」たちにつけ込む隙(す)を与えないことのほうが、宗教的な対立を煽(あお)るキリスト教よりもはるかに平和の神の真理とイエス様の御名にふさわしいです。ナザレのイエス様を要(かなめ)として、各人がそれぞれに独自の霊性を発揮していくこと、こういう「まとまり」と「ひろがり」の両方を具えた扇(おうぎ)状の展開を見せる福音の有り様がこれからのアジアでは大切です。このような視点から見ても、日本のリヴァイヴァルが、このアジアにおいて重要な意味を担っているとわたしは考えるのです。
■味方しない者
 ところで、今回の「逆らわない者は味方」に対して、「味方しない者は敵」だというイエス様のお言葉が記されています(マタイ12章30節/ルカ11章23節)。これは悪霊の頭(かしら)ベルゼブルをめぐるイエス様と敵対者の対決の中で語られる厳しい御言葉です。しかもここでは「聖霊を冒涜する」赦されない罪が関係していますから事は重大です。
 いったいここで何が起こっているのか? これを見定めるのは難しいのですが、「悪霊」をめぐって対立が生じていることは確かです。どうも、イエス様に敵意を抱きながら、イエス様が悪霊追放を行なっているのを見たある宗教的な指導者たちが「彼は悪霊の頭を使って悪霊を追い出している。そうでなければ、あんなすごい悪霊追放ができるわけがない」とでも言ったようです。彼らはイエス様に面と向かって言ったのではなく、イエス様を信じる人たちに対してそんな意味のことを言いふらしたのでしょう。これを聞いたイエス様は、「わたしが悪霊の頭を使って悪霊追放を行なっているのなら、あなたがたの仲間はいったいだれを使って悪霊追放を行なうのか?」と彼らを厳しく批判されました。
 この状況は、「逆らわない者」の場合とは全く異なる状況の中での御言葉です。だから、両方が同じレベルであるかのように見なすのは誤りでしょう。この場合は悪霊追放がよほど強く霊的な迫りをもって働いていたと考えられます。このような場合に、隠されていた人の心の奥に潜む邪念が、御霊の強い迫りとその働きかけに堪(た)えきれずに正体を現わすのです。聖霊が働く時には、残念ながらこういう場合があります。コイノニア会の集会に参加するために来る車中で祈っていると、全く見知らぬ人が突然怒り出してその人ににらみつけられるという体験をした方がいます。だからこれは「避けられない対立」です。
 しかし、「悪霊」の存在を信じることは、特定の人間それ自体が「悪霊」では<ない>ことをも意味しますから、「悪霊を憎んで人を憎まず」で、人と悪霊そのものとを区別することが大切です。そうでないと、例えば「精神病は悪霊から来ている」と言うことが、とんでもない誤解と危険を生じかねません。
 人が御霊の働きを受ける時に、その人のうちに隠されていた様々な悪しき思いが露(あらわ)わにされます。親鸞の言葉を借りるなら「蛇蝎奸策」(だかつかむさ)の邪念です。これはわたしたちを悔い改めに導く御霊のお働きですが、この導きに従おうとはせずに、逆に激しく抵抗し、せっかくの御霊のお働きに対して激しい憎悪を抱くような場合に、御霊の迫りが強ければかえってそれだけごまかしなく正体を現わします。この段階では、イエス様に<味方しない>ことそれ自体が激しい敵意となって噴出するのです。イエス様を「悪霊の頭」呼ばわりした者たちは、このように追い詰められた結果、「悪霊に利用された」のです(ヨハネ15章21〜25節)。
 特にここでイエス様に敵対している者たちが、宗教的指導者たちか、あるいは彼らから派遣された者たちだということにも注意しなければなりません。政治権力あるいは宗教的権力/権威を独占する者たちが、己の支配下にある民を弾圧して民を犠牲にして己の権威権力を保とうとする場合に、「この世の支配者」である悪霊それ自体の働きが最も顕著に表われるからです(ヨハネ16章7〜11節)。
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