【注釈】
■イエス様語録
ここはマタイ18章7節とルカ17章1節からです〔ヘルメネイアQ472~73頁〕。
【禍(わざわい)】これは、終末の神の裁きを預言する黙示文学的な表現で、現在この地上にはびこる悪人ども、とりわけ圧制者や不正を行なう指導者たちに向けられた預言者たちの断罪の言葉です(マタイ23章参照)。『第一エノク書』(94章~100章)では、暴虐を行ないその罪によって己の家を建てる者たち、隣人に悪をもって報いる者たち、最上の穀物を食べ最上のぶどう酒を飲みながら貧しい者を虐げる者たち、偽りの証人、義人を迫害する者たち、富むことで義人を装う者たち、下層の者らを踏みつける者たち、暴虐と欺瞞と冒涜を行なう者たち、真理を曲げ偽りをほめる者たち、悪霊の偶像を礼拝する者たちなどが列挙されています。これらとは逆に、神の義を歩む者たち、苦しめられる者たち、知恵を選ぶ者たちには励ましと希望が与えられ「幸い」が約束されています。
【避けられない】マタイ福音書の原語は名詞で「必要/強制/不可避」です。ルカ福音書のほうは形容詞「不可能な」で、「(躓きが)来ることがないというのは不可能だ」です。
【躓き】マタイ福音書でもルカ福音書でも複数ですが、マタイ福音書の後半の「(躓き)をもたらす(その人は)」のほうは「躓き」も「その人」も単数です。これらを入れるべきかどうか疑問なので( )に入れてあります。マタイ福音書でもルカ福音書でも、これらの躓きをもたらす「不信仰」は教会の中にすでに存在していますが、「避けられない」とあるのは、それもまた神の計画に含まれていることを指します〔ツェラー『Q資料注解』62頁〕。
■マルコ9章42~50節
今回の箇所には、本文の読み方、前とのつながりなどいろいろ問題があります。先ず前とのつながりを考えてみます。
〔前とのつながり〕マルコ福音書9章では、子供のように小さな者を受け入れる勧めがあり(36節)、続いてキリストの弟子に一杯の水を与える勧めが来ます(41節)。ところが今回の42節は「小さな者をつまずかせる」で始まりますから、直前の弟子たちとのつながりが切れてしまいます。むしろ42節を37節に続けるほうが、「小さな者」を「受け入れる」ことと「つまずかせる」ことが対照されているのが見えてきます。だから、9章38~41節は、ほんらいの37節と42節の間に後から挿入されたのではないかという見方もあります。ただし、マルコ9章41節はマタイ10章42節「<この小さな者の一人に>水一杯でも飲ませる」と並行します。このマタイ福音書のほうだと今回のマルコ9章42節にうまくつながり、「小さな者」を「受け入れる」「一杯の水を与える」「つまずかせる」という「小さな者」のリンクが見えてきます。けれどもマルコ福音書のほうには、マタイ福音書の「小さな者の一人」の代わりに「キリストの弟子だという理由で」がきているので、つながりが切れるのです。
〔本文の構成〕今回の箇所では、9章44節と46節「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」の繰り返しが省かれています。この二つの節は重要な写本にはありませんから、9章28節にならって後から加えられたと考えられます〔新約原典テキスト批評102頁〕。その他にも本文の読みで問題がありますが、それぞれの節で説明します。
また今回のマルコ9章43~47節は、マタイ18章8~9節だけでなく同5章29~30節とも並行していますがルカ福音書にはありません(ただしマルコ9章42節=マタイ18章1~2節=ルカ17章2節です)。マルコ9章49節は内容的にも謎めいていますが、ほかに並行がありません。また同50節はマタイ5章13節とルカ14章34~35節と並行します。このように並行関係が複雑で、それぞれに置かれている前後の文脈が異なりますから、同じような内容の節でも違った意味を帯びています。これで分かるように、今回のマルコ福音書の箇所は、「つまずかせる」「火」「塩」などマルコ福音書だけの独特の組み合わせで構成されています。それまで複雑な伝承過程を経てマルコのもとに届いているのでしょう。
[42]【信じる者】原語は「わたしに信頼/神託しているこのような人たち」です。マルコ福音書には「信者」という名詞はなく、「信頼/神託している」という動詞の分詞形が用いられています。人それ自体よりもその人たちが抱くイエスに対する信頼のほうに重きを置いているのです。なお「わたしに」が抜けている有力な異読があります。マタイ18章6節を反映して挿入されたのでしょうか。「躓かせてならない」のは、イエスに従っている直弟子たちのことだけでなく、「小さな者」をも含めてイエスを信じている人たちすべてを指しているのでしょう。
【小さな】前の記事から見れば、「小さな」は弟子たちの中で最も低い者だけを指すとも受け取れますが、そうではなく、36~37節にあるように、イエスを信じる「子供たち」をも含んでいます。
【躓かせる】原語「スカンダリゾー」には「罠にかける」と「障害物を置いて躓かせる」の二つの意味があります。このギリシア語は七十人訳では、ヘブライ語の「ヤーコーシュ」(罠にはめる:ヨシュア記23章13節)と「カーサル」(「躓いてよろめき倒れる」の使役態「躓かせる/転倒させる」の二つの訳語として用いられています。ギリシア語の名詞「スカンダロン」にあたるヘブライ語は「ミフショル」(躓き/転倒)です(詩編119篇165節)。4章17節には、根を持たないために困難や迫害に遭うと「躓かされる/躓くよう仕向けられる」(受動形)人のことがでており、14章27節にも「躓かされるであろう」がイエスとペトロの口から語られています。「躓かせる」〔岩波訳〕「罪へ誘惑する」〔新共同訳の見出し〕「躓きの石を置く」"put a stumbling block before"〔NRSV〕などの訳がありますが、「イエスへの信頼/信託を失わせる」〔フランス『マルコ福音書』380頁〕という広い意味にとるほうがいいでしょう。「躓かせる」方法についてはいっさい語られていませんから、どのようにして躓くのか、その仕方は無数にあって、ただその結果だけが注目されているのです。
【石臼】大きな円形の石臼の内側に円形のくぼみがあり、そこに穀物を入れて、その石の半分ほどの大きさの円形で、真ん中に穴のある石を通常ロバなどに曳(ひ)かせて臼の中の穀物を碾(ひ)くのです。原文は「首の回りに臼がはめられる」ですが、これは臼の本体をロープか何かで首に懸けることではなくて、ロバに曳かせる石のほうを首にはめ込むことではないかと思われます(この石も臼の一部ですが)。「ろばの碾き臼をはめられ」〔フランシスコ会訳〕。どちらにせよ、「そうでもしなければ」(ギリシア語「エイ」)という現実にはない仮定を表わす言い方がなされていますから、絶対に助からないように海に沈めるためのたとえです。
[43]43節から47節までは、同じようなパターンの言い方が続きますが、よく見ると少しずつ違っています。44節と46節が抜けていることは先に説明しました。手と足と目が罪を犯させることは箴言6章17~18節に「おごり高ぶる目、嘘をつく舌、罪もない人の血を流す手、悪事へと急いで走る足」と先例があって、これらは「主に憎まれること」の代表です(ローマ3章14~18節をも参照)。ただし、マタイ5章27~30節の場合には、「姦淫」で始まりますから、「目」は好色な目つきのこと、同様に「手」には自慰行為などの意味があり、「足」にも男性器の意味が隠されているという指摘があります〔コリンズ『マルコ福音書』450/453頁〕。ほんらいは、目と手と足にこのような性的な意味がこめられていたのかもしれませんが、今回の場合は、むしろ箴言やローマ人への手紙にあるより広い意味に理解するほうが適切です。
【地獄】後半を直訳すれば「両手があるままでゲヘナへと、消すことのできない火へと向かう」です。「ゲヘナ」はマルコ福音書ではここだけですが、マタイ福音書には5回でてきて(5章22節/10章28節/18章9節/23章15節/同33節)、どれも不義不敬虔な者たちが最終的に陥れられる神による裁きと罰の場所です。
「ゲヘナ」はエルサレムの南斜面の下から西へ向かう谷の名前でアラム語「ゲー・ヒンノム」(ヒンノムの谷)/ヘブライ語「ゲー・ベン・ヒンノム」に由来します。ヒンノムの谷では、王国時代に「トフェト」と呼ばれる犠牲を捧げる祭壇が設けられて、息子や娘を火の中を通したり、そこで息子や娘を焼いて犠牲として捧げたので「殺戮の谷」と呼ばれました(エレミヤ書7章30~32節)。「ベン・ヒノム」(ヒノムの息子)という名前はこの犠牲から出たのでしょうか(列王記下23章10節)。トフェトはソロモン時代のエルサレムの城壁の東南の角の外側あたり、キドロンの谷とヒンノムの谷の境あたりにあったようです〔フランシスコ会訳聖書列王記下23章10節(注)〕。ただし城壁の真南にあったという見方もあります〔The Illustrated Atlas of Jerusalem. 71〕。
トフェトで祀られていた偶像神は「モレク」と呼ばれていますが、この名前はカナン系のフェニキア=カルタゴで「犠牲」を指す用語「モーレク」から来ているとも考えられます〔『旧約・新約聖書大事典』1196頁〕。通常の祭壇は丘の高い所にありますが、谷の底にあるのはモレクが地下に住む陰府の神だったからでしょうか〔フランシスコ会前掲書〕。この恐ろしい慣習がいつ頃からユダで行なわれたのかはっきりしませんが、南王国ユダのアハズ王の治世に行なわれたことが記録されています(列王記下16章3~4節/歴代誌下28章1~4節)。この悪習はヨシヤ王の時に廃止されました(列王記下23章4~6節/同10節)。このような犠牲を献げた神とは「ユダの民の知らない」バアルなのか(エレミヤ書19章4~6節)モレクだけなのか確かでありません。イエスの頃そこはエルサレムで排出される汚物類の捨て場となり、汚物や汚染されたもの(伝染病の死体なども含まれる)を焼く火が絶えることがなかったと言われています〔フランス『マルコ福音書』382頁〕。
【消えない火】マタイ18章8節を反映してこの句が後から追加されたと見ることもできますが、様々な異読から判断して、マタイ18章8節に類する言い方がほんらいマルコ9章43節にもあったと考えられます。
【命にあずかる】原文「命へ入る」は「地獄へ向かう」に対していますから、「来たるべき世/時代」に主から受ける永遠の命のことを指すと考えられています(マルコ10章29~30節参照)。ただし10章30節には「(捨てたその同じものを)今のこの世でその100倍を受ける」とあります。だから今回の「命」も、「今の世」から区別された「来たるべき世」に限定されているのか、必ずしも明確ではありません。マルコ福音書の言う「命」は、「この世」で救いに入れられてから、神から来る新たな価値観で結ばれて現在すでに始まり終末へと続くのでしょう。
[45]43節では「地獄に落ちる」ですが、ここはより強い「地獄に投げ込まれる」です。「消えない火の中へ」とある異読もありますが、これは43節にならった後からの追加でしょう。
[47]【神の国に入る】43節と45節の「命に入る」の代わりに「神の国に入る」が来ています。マルコ福音書で「神の国に入る」とは、イエスの教えを受け入れてイエスを信じることを指しますから、「来たるべき世の命」よりもむしろこの世において行なわれるべき状態を指しています。10章15節に「神の国を<受け入れる>」とあり、同25節に「神の国に入る」とあって、それらが「救われる」ことと結びついています(26節)。さらに同10章29~30節では、この世で一度捨てたものを「新しく神から受ける」ことと、来たるべき世で受ける命は(性質は異なるけれども)同じ価値観でつながっています。だから、「命に入る」も「神の国に入る」もこの時代から始まり、それが来たるべき時代にもいたると理解していいでしょう。
[48]この節はマルコ福音書だけにでて来ます。蛆と火との組み合わせはイザヤ書66章24節からで、そこの七十人訳はマルコ福音書のこの箇所と全く同じです。イザヤ書では、新天新地の新たな時代において「神に背いた者たちの死体」が蛆に食われて朽ち果てる様とそれらを焼く絶えない火が組み合わされていますから、マルコ福音書でもこれがそのままゲヘナと結びけられています。
[49]この節の読み方に三通りの異読があります。(1)「すべてには塩をかけられるだろう。」(2)「なぜならすべての犠牲は塩で塩漬けされるだろう。」(3)「なぜならすべては火で塩味をつけられ、そしてすべての犠牲は塩で塩漬けされるだろう。」
(1)は謎めいた言い方ですから、これはレビ記2章13節に「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな」とあることから解釈されたのでしょう。この解釈が、ほんらいのマルコ福音書のテキストの欄外に注として書き込まれたのが、本文に少し違った形で採り入れられて(2)となった、あるいは書き込みがそのまま本文に加えられて(3)ができたと考えられます〔新約原典テキスト批評103頁〕。なお「火で焼き尽くされる」という異読もあります。
「塩味」の原語は動詞で「塩をかける/塩味をつける/塩漬けにする」の未来受動形です。おそらく今回の箇所全体は、「躓かせる」「火」「塩味を付ける」の3語で結ばれて記憶されてきたのがマルコ福音書に採り入れられたと思われます。このことから解釈がふたとおりに分かれます。
(1)一つは終末にかかわるという解釈です。躓かせる者へのイエスによる厳しい叱責から終末での「火の裁き」が連想されますから、「火で焼き尽くされる者」と「火で試されて救われる者」とに分ける裁きを表わすと解釈されたのでしょう(第一コリント3章13~15節)。「塩で味つける」には「長持ちさせる/保存する/生き延びさせる」の意味がありますから、裁きの「火」をくぐって「生き延びる」ことが「塩」と結びついたと思われます〔コリンズ『マルコ福音書』454頁〕。
(2)本文批評にもありますが、「火」と「塩」は、レビ記で犠牲として火で焼き尽くす献げ物において結びつきます。特にエゼキエル書では、新たに復興する神殿では、すべての献げ物に塩をふりかけて焼き尽くす献げ物とすることが命じられています(エゼキエル書43章23節)。第二神殿が復興された時にこれが実際に行なわれました(エズラ記6章9節/同7章22節を参照)。そのように、イエスによって新たに復興される「人の手によらない神殿」(マルコ14章58節)では、信仰者はすべて、塩で味つけられて御霊の火で焼き尽くされる「献げもの」として神を礼拝するようになるのが、ここでのイエスの教えでしょう。そこには「終末での礼拝」の意味も含まれますが、今回の箇所の一連の厳しさは、現在この世にあってなお、このような礼拝がすべての信仰者に求められていることを証ししています。
[50]この節は「塩」によって49節と結ばれています。しかし、ここでは犠牲に振りかける塩から、「味付け」の塩へとその意味が変化しています。塩は神との「契約」をも象徴しますから(レビ記2章13節)、神に仕えるイスラエルの祭司とレビ人は、犠牲の分け前にあずかるよう定められていて、これは「永遠の塩の契約」と呼ばれています(民数記18章19節)。さらにダビデ王国が北王国イスラエルと南王国ユダに分裂した時には、この「塩の契約」が両国統一の根拠と見なされました(歴代誌下13章5節)。今回の箇所はこの伝統を受け継いでいて、神に献げ物をする者も神に仕える者も共に「平和に過ごす」こと(コロサイ4章6節)、特に指導者の間に争いや競い合いがあってはならないと戒めているのです。イエスの新たな神の国では、かつてのダビデ王朝のような分裂があってはならないからです。
■マタイ18章6~9節について
マタイ福音書18章は、全体が、弟子たちの間でいちばん偉い者はだれか?に始まって、躓かせること、迷い出た羊を助けること、罪を犯した兄弟を戒めること、仲間を赦すこととなど、イエスを信じる者たちの「交わり」の有り様をまとめて教えています。しかもここで扱われているのは小さい者、迷いやすく誘惑に弱い者、互いに競い合い蹴落とし合うような者たちの「交わり」ですから、比較的少人数でしかも固い結束を必要としている共同体内での交わりを想定することができましょう。それだけに、今回の箇所は、共観福音書の教えの中でも最も厳しい内容になっています。
マタイ福音書では、今回の箇所が内容的に見ると5章29~30節と並行しています。しかし5章では、「姦淫」と「離縁」との間にこれらの節があって、性的な意味を含めて倫理的に己に厳しくあるよう教えていますが、今回の箇所は、信者同士の交わりの有り様にかかわりますから、イエスに信頼する小さな者を躓かせることが問題になっています。
マルコ福音書と異なり、マタイ福音書では、「小さな」子供に見習いこれを受け入れることに続いて6~7節に「小さな者」を躓かせる罪が来ていますから、その前との関係が緊密につながっています。また8節からは自分の躓きが来ていますから、人を躓かせることと自分が躓くことが組み合わされています。マルコ福音書と異なりマタイ福音書では、7節がイエス様語録から採り入れられています。また、マルコ9章43節と45節が一つにまとめられています。
なお、マタイ福音書とルカ福音書には、マルコ9章49~50節に対応する部分が今回の箇所にはありません。これの並行箇所はマタイ5章13節/ルカ14章34~35節にあり、そこでは「塩」は「腐敗を防止する」ためであり、「塩味」がなくなれば地面に撒(ま)かれて、地面を固くするよう「人に踏みつけられる」だけの存在になります。マルコ福音書のほうの「塩」は「契約の塩」(民数記18章19節)として、同じ契約の下にある者同士の交わりのための「塩」です。だからマルコ福音書では「躓かせること」と「火」と「塩」が「平和を保つ」ために一つながりの連鎖を形成しています。したがってマタイ福音書とルカ福音書では、この箇所での「塩」が省かれています。
■注釈
[6]【深い海】原文は「大海原」ですから、これは狭い浅瀬に対立します。そこへ投げ込まれたら「深い」だけでなく絶対に助からないでしょう。なおここで言う「小さな者」とは、18章1節から判断して、イエスをひたすら信じて歩む弱く傷つきやすい信仰者仲間のことでしょう。
[7]【この世は不幸だ】原文は「この世は禍だ」という呪いを含む言い方ですが、マタイ福音書では、躓き(複数)をもたらす者と躓きが来るこの世と二重にこの「禍だ」が繰り返されています。前節からの続きで、ここではイエスを深く信頼していて、しかも「取るに足りない小さな存在」でしかない信仰者に向けて語られています。それにしても7節前半はどういう意味でしょうか?「この世」が躓きをもたらすというより、むしろ人間世界には躓きが避けがたく存在するから、小さな者にとって「この世」は禍だと言おうとしているのでしょうか(13章38節)〔フランス『マルコ福音書』682頁(注)12〕。それとも、「小さな者」に躓きをもたらすから「世の中」は禍だと「世を呪って」いるのでしょうか。どちらにせよ、初めの「禍だ」は世にある小さな信仰者への同情と慰めを表わすことになりますから〔ルツ『マタイ福音書』(3)39頁〕、次に続く「躓かせる者」に向けられた「禍だ」とは意味が少し違うようです。なお「この世」には、そこに存在する教会それ自体をも含まれていますから、ここでは教会の内部での躓きが問題にされているという解釈があります〔ルツ前掲書〕。「この世」がたとえ神の支配の下にあっても、「今のこの時代」では躓きと誘惑が来るのは避けられないのです(4章8節)。なお「躓きをもたらす者、<その人は>禍だ」という異読があります。筆写の際に見落としたのでしょうか? それともこれが入るほうが構文として自然なので後から「禍だ」の前/後に加えられたのでしょうか〔新約原典テキスト批評44頁〕。
[8]~[9]これら二つの節は同じ構文で揃えてありますが、微妙に違っているところもあります。ここは5章29節の「目」と同30節の「右手」の躓きと内容的に同じですが、5章のほうは「姦淫」に続きますから「目」と「手」にも性的な含みを読み取ることができます。今回の箇所は、そのような特殊なニュアンスではなく、罪一般にあてはまります。また「手足と目」に限らず、欲望がもたらす肉体のどの部分でも、同様の躓き、同様の覚悟が必要であることを思わせます(言うまでもなく、これらの比喩的な言葉を「辞義通りに」実行することではありませんが)。
もう一つ注意してほしいのは、命令全体が「<あなたを>躓かせる」と2人称単数になっていますから、これは個人に向けられた警告です。今回の箇所は「体」をエクレシア(教会)にたとえて、教会全体のためには、一部の躓きとなる人を「切り捨ててしまう」ことを指しているという解釈があります。しかし、このような解釈は、単数用法からも、5章29~30節との内容的な並行性からも支持することができません。
文献的に見れば、5章29~30節よりも今回のほうがマルコ福音書に近く、ここでは5章の「体の一部」がより詳しく語られていますから、こちらのほうが本来の形で、マタイはこの形を変形させて、やや異なる文脈の中で5章に組み込んだと考えられます〔フランス『マタイ福音書』683頁〕。
【永遠の火】8節では「永遠の火の中へ」とあり9節には「火の地獄へ」です(マルコ福音書ではどちらも「地獄へ」)。9節の「火の地獄」〔新共同訳〕には「火のゲヘナ」〔岩波訳〕もあります。「永遠の火」も「火の地獄」も終末における最終的な「裁きの火」とこれによる罰を指しています(マタイ3章10節/同25章41節/ヨハネ黙示録20章14節参照)。
【命にあずかる】「命にあずかる」は「永遠の火」に対応していますから、「来たるべきアイオーン(世/時代)」において受け継ぐ「命」のことです。同様のことが19章16節の「永遠の命」にもあてはまりますが、同29節には、神とイエスのために「捨てた」ものが「この世/時代」において再び「新しい意味と価値を帯びて」与えられるとありますから、ここでも「この時代での霊的な命」と「来たるべき時代の命」とがつながると見ることができましょう。
■ルカ17章1~3節前半について
ルカ17章の前半では、旅の途中でのイエスの弟子たちへの教えが語られています。「躓き」(1~2節)、「罪の赦し」(3~4節)、「からし種ほどの信仰」(5~6節)、「謙虚な僕」(7~10節)などが並んでいますが、これら一連の教えはその前後と直接関係がありません。また、これら四つの教えも内容的に必ずしも結びついているとは言えません。ただし、「躓き」と「罪の赦し」を結びつけている訳があります〔新約原典〕〔新共同訳〕〔NRSV〕〔ノゥランド『ルカ福音書』〕。今回はマルコ福音書とマタイ福音書に対応させて「躓き」だけを採りあげます。
今回の箇所でマタイ福音書はマルコ福音書の記事を踏まえていますが、ルカ福音書は、マルコ福音書に準拠しているとは言えません。マルコ福音書との共通点は「首のまわり」と「海の中へ」の二箇所だけで、マタイ福音書との共通点は「禍だ」と「小さな者の一人」です。ルカ福音書のここはマタイ福音書と共通するところが多いので、ルカはこの記事を続く「赦し」と併せてイエス様語録から採ったという見方もありますが、最近ではマタイもルカも共通する伝承をからそれぞれ別個に受け継いでいるという見方のほうが強いようです〔ノゥランド『ルカ福音書』〕。「躓き」と「赦し」を結びつけるかどうかは、このあたりの見方の違いから来るのでしょう。しかしルカは末尾に「あなたがたは警戒しなさい」を加えるなど(ただしこれを次の「赦し」へ続ける解釈もあります)、全体に編集の手を加えています。
■注釈
[1]~[2]ルカは「<しかしながら>、躓きもたらす者は」と強めており、「海に沈められるほうが<ましだ/より有益だ/役立つ>」と皮肉をこめています(マタイ福音書の「役に立つ」と動詞は異なりますが意味が近い)。また「(海の中へ)放り込まれてしまう」(3人称単数受動態完了形)と独自の動詞を用いています。