125章 躓(つまず)きについて
マルコ9章42〜50節/マタイ18章6〜9節/ルカ17章1〜3節前半
【聖句】
■イエス様語録
躓きが来るのは不可避である。だがしかし、(躓きを)もたらす者(その人)は禍だ。
■マルコ9章
42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
49人は皆、火で塩味を付けられる。
50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
■マタイ18章
6「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。
7世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
8もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。
9もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。
■ルカ17章
1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
3あなたがたも気をつけなさい。
                      【注釈】
                     【補遺:永遠の命と躓き】
【講話】
■小さな者の大きな価値
 今回のイエス様の戒めは、新約聖書の中でも最も厳しいと言われています。人を躓かせることがどうしてそんなに厳しく警告されなければならないのでしょうか。しかもここでは、何か恐ろしい重罪が特別に問題にされているのではありません。「小さな者」、これは子供のような者の意味だけでなく、取るに足りない者、弱くて無知な人のことをも指しますが、こういう人たちの信仰を傷つけて、せっかくイエス様に頼ろうとしているその信頼を妨げたり、信仰を失わせたりすることが問われています。だからここでは、わたしたちの目から見れば「それほどたいしたことでない」と思われるようなことでも、事と次第によってはとても大きな罪になると警告しているのです。
 こういう無知無力な人たちは、ただひたすらイエス様に寄りすがりイエス様に自分を任せることのできる人たちです。そういう謙虚で弱い人はイエス様にとりわけ深く愛されている人たちであり、それだけ熱い神の視線が向けられる人たちなのです。「健康な人に医者は要らない」(マタイ9章12節)からです。言い換えると、彼らは神とイエス様のほかになんにも誇るべきものを持たない「心の貧しい」人たちです。神は、まさにそういう人たちのところへイエス様を遣わされて、その貧しさを「利用して?」彼らにイエス様御自身をお与えになる、ということをされるのです。<イエス様を得る>とは、イエス様の命を得ることです。その命とは「たとえ全世界を手に入れても、それを失ったらなんの得になるだろう」と言われるほどにかけがえのない<永遠の命>なのです。生物学的な生命とは異なって、この永遠の命には、何が正義か何が不義か、何が幸いか何が禍か、その正邪を見分ける価値観が具わっているのが特長です。小さな子供にも与えられているこの意味での基本的人権こそ、人が人として持つことのできる最高のもの、何ものにも奪われてはならない貴重なその人の人格的な霊性です。これありて真の人あり、これなくば人にあらず「人でなし」です。
 ところが「この世」では、この最も貴重なものが最も粗末にされているのです。その人の人格的霊性よりも、家族とか、会社とか、職業とか、世間的な名誉名声とか業績とか、とりわけ民族とか国家など、人の「基本的人権」よりも「もっと大事なもの」で「この世」は溢れています。「永遠の命」などを真面目に扱っていては「この世」でとうていやっていけない。こう思い込んでいる人たちがほとんどです。
 とりわけ権力者は、国家とか会社の名を借りて、自分の権力や権威や地位を脅かす存在を認めようとしません。どこぞの国家権力が、宗教を厳しく規制し、個人が国家を上回る価値を持つことを教える信仰を厳しく弾圧するのはこの理由からです。イエス様が警告されているように、小さな者を躓かせることがいかに恐ろしい行為であるか、それは小さな者にも永遠の輝きを放つ人格的霊性が具わっていることを念頭に置く時初めて、事の重大性を認識できます。
■「ゲヘナ」の由来
 今回でてくる「地獄」(ゲヘナ)とは、エルサレムの南から西へ広がる谷の名前に由来します。そこは偶像礼拝のために息子や娘など人間を犠牲に捧げる場として主なる神の激しい怒りと裁きを受ける場とされていました。「偶像礼拝」と「人間の犠牲」と「神の呪い」と最終的な「裁きの火」、この四つがセットになっているのが「ゲヘナ」です(注釈参照)。これを二つに分けて見れば、「偶像礼拝と人の犠牲」、これに対する「神の呪いと裁きの火」です。「人を犠牲にする」とは、その人の人格的霊性を無視してこれを己の拝む神へ献げることを意味しますから、逆に見れば、「人を犠牲にするもの」は、それが何であれ「偶像」です。人を犠牲にすることを求めることを「偶像礼拝」と言うのです。
 古代中国の殷(いん)の紂王(ちゅうおう:前11世紀頃)は、酒池肉林に遊び、己の占いのために周辺の遊牧民を毎日10人単位で犠牲に供(きょう)したそうです。古代ローマのネロ皇帝は、ローマの大火(一説によれば彼が火を放ったとも言われています)の責任をキリスト教徒に押しつけて、彼らを火あぶりにしました。日本でも17世紀に大勢のキリシタンが徳川政権によって犠牲にされました。現在でも、小は小さな会社から大は世界規模の企業にいたるまで、人の命を犠牲にして己の利益を企む「人を人とも思わぬ」者たちが大勢います。
 現在、突閣列島から南沙諸島にかけて、日本と台湾と中国とベトナムとフィリピンとインドネシアが争っていますが、遠いどこかの地域で戦争が起こることで儲けを企むどこぞの死の商人どもが、武器の売り込みを図って東アジアで戦争を煽ろうとしているのではないか?わたしは今そういう懸念を抱いています。彼らには、人道も人間性も愛も宗教も全く通じません。「蛇の毒にも似た毒を持ち、耳の聞こえないコブラのように耳をふさぐ」(詩編58篇5節)このような「禍(わざわい)な」者どもに対して、神の聖なる憤怒の呪いが裁きの火となって燃え上がるのは当然です(同詩編7〜10節)。イエス様はこういう者どもに対して「首に臼をはめられて大海に投げ込まれるほうがましだ」と猛省をうながすのです。
■牧者たちへ
 今回の教えは、エクレシア(教会)の指導者たちへも宛てられています。しかしエクレシアをイエス・キリストの「からだ」と見なして、これの躓きとなる者は遠慮なく切り捨ててもかまわないという意味に誤解してはなりません。そのような誤解を防ぐために、ルカ16章では今回の箇所が「罪の赦し」と結びつけられています。
 エクレシア(教会)の指導者たちとは、神の霊に導かれて人を永遠の命へ導き入れるために、主イエス様が牧者としてエクレシアにお与えくださった人たちです。だからその人たちには主から賜わった霊的な賜物が具わっています。ところがその人たちでも、人を霊的に成長させる代わりにその成長を妨げる場合があるのはとても残念です。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。 
 わたしたちは先の項で、犠牲をもたらすものが偶像礼拝であることを確認しました。同時に小さな者を躓かせることがいかに大きな罪であるか、その理由が小さな者に具わる人格的な霊性すなわち神がお与えくださる永遠の命にあることを知りました。
 だから、もしもエクレシアを霊的に指導する人(たち)が、エクレシアの一人一人の霊的な成長ではなく「何か別のこと」を目的に指導したり命令したりする場合には、導かれる人の成長を妨げたり、場合によっては逆に躓かせたりする場合が生じるのです。「何か別のこと」とは、イエス様のお与えくださる「永遠の命」以外のこと、例えば会堂建築とか、組織の拡大とか、エクレシアにおける自己の宗教的権威の保持とか、最悪の場合には金儲けなどの意図や目論見によってエクレシアの「小さな者」たちを利用することを指します。
 イエス様は人間の霊性を「樹」にたとえて、「善い樹」と「悪い樹」を比べておられます。その人の霊性が神の御前に良いか悪いか? これを見分ける方法は「その樹が結ぶ実」にあると教えられました。良い実がなるなら善い樹であり、悪い実がなるなら悪い樹です。同じようにイエス様は、「より羊飼い」と「悪い羊飼い」を区別なさいました。良い羊飼いはイエス様同様「羊のために命を捨てる」けれども、悪い羊飼いは「羊を食い荒らす強盗であり盗人」(ヨハネ10章)だと言われたのです。
 良い牧者は羊を愛する牧者です。悪い牧者は羊をほかのことに利用する牧者です。ほかのことに利用しようとするのは、その牧者自身が、イエス様の愛とイエス様の御霊の御臨在を祈り求める代わりに「何か別のこと」を企んでいるからです。彼はその目的にために人を犠牲にするのです。だからそういう偽牧者は、神とイエス・キリスト以外の何かほかのもの、すなわち真(まこと)の神でない「偶像」を拝みこれを求めているのが分かります。この時その者の霊性は、神から与えられる聖霊ではなく、人を犠牲にして恥じない「この世」の権力者たちの霊力と変わりません。残念ながらこの日本には、キリスト教以外の諸宗教の中に、こういう「宗教屋」たち、人を利用して金儲けを企む人たちがいます。そこまでいかなくても、イエス様のエクレシアの中にも、人間的な打算から小さな者を躓かせてその者の霊的な成長を妨げる場合があります。だから牧会に携(たずさ)わる者はよくよく注意しなければなりません。
 イエス様の御霊にある愛は永遠になくならない愛です(第一コリント13章13節)。愛はそれ自体が目的でありほかに目的はありません。だからイエス様の愛は、相手を愛以外の「何かほかのこと」に利用することをしません。このような愛だけが人を束縛することなく、ほんとうの意味でその人を人格的に自由にしてくださいます(第二コリント3章17節)。自由は真(まこと)の愛の特性であり、自由は真理の証です(ヨハネ8章32節)。
■躓かせる人
 ここで初めに述べた「躓かせる人」にもどります。躓きを与えることの怖さは永遠の命を失わせることでした。しかし今度は躓かせるほうではなく、自ら躓く人のほうです。自ら躓くと言っても、「あなたの手足が躓かせるなら」とありますから、実は自分を躓かせるように働きかけるものが自分自身にあるのです。だから躓かせるものと躓くものとはどこかでつながっています。
 パウロが言うように、啓示を通して与えられる栄光の主のお姿は自分自身のあるべき栄光の姿と重なります。聖書がわたしたちに伝えようとしているのはこのような永遠の命です。永遠性を帯びた人格的霊性です。これを見失うことがすなわち躓きであると深く悟ることが「躓き」を知る上で大事なのです。自らが躓かないようにすること、これが人を躓かせない最大の秘訣だからです。あなたの眼が明るければ全身が明るいのです(マタイ6章22〜23節)。あなたの目が暗ければ、その暗さはどんなに恐ろしいでしょうか。もしもわたしたちが主から啓示された永遠の命からはずれた「何か別のこと」に眼と心を奪われるなら、初めに観たように偶像礼拝に陥る危険があります。その結果人を犠牲にするおそれが生じます。
 主様の御霊の御臨在に歩むとは、それ以外の偶像を拝まないこと、ほかに目を奪われないこと、それに足を向けないことを意味します。誘惑が来るのは避けられません。しかしそのような誘惑をもたらすものは禍なのです。祈りが大切です。祈りつつ歩むことが大事です。わたしたちコイノニア会は、小さな集会です。イエスに深く信頼する者同士でしかもその交わりが小さい場合には、それだけ互いに傷つけあったり競い合う弱さともろさを露呈します。だからこそ、小さな交わりこそ大きな注意をはらわなければなりません。親密な交わりこそ深い祈りを必要とするからです。わたしが常々「無心になれ」「全託する」と言うのは、安易な意味でなく、こういう厳しさをも込めているのです。
■キリシタンの末裔
 17世紀にこの日本で、踏み絵を考え出して何十万というキリシタンを「転ばせた」者たちがいました。「躓き」は「転ぶ」と呼ばれましたが、ヘブライ語の言い方をすれば「転ばされた」のです。長崎県の外海(とうみ)という島には、今でも隠れキシリタンの伝統をそのまま守っている人たちがいるそうです。この人たちは「転んだ」人たちの子孫ですが、彼らは250年間の弾圧を仏教徒に変装してその信仰を守り通してきました。だからわたしは「転んだ」人がその理由で地獄へ落ちるとは考えません。今回の箇所で厳しく呪われているのは、転んだ人たちではなく「転ばせた」者たちのほうです。この者たちが行なった仕業が、どんなに恐ろしく残酷で、人間として決して行なってはならない行為であることか、これを今回のイエス様の激しい御言葉から聴き取ることができます。だから躓いた人を責めたり非難したりするのは誤りです。このことを理解させるために、ルカ福音書では躓きが「罪の赦し」と結びつき、日に七度罪を犯して七度悔い改めるなら赦しなさいとあるのです(ルカ17章1〜5節)。
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