【補遺】「永遠の命」と人知による躓き
 「躓き」について最も注意深く最も警戒しなければならないのが神学的な場合も含めて「人知による躓き」を与えることです。この場合ほど「イエス様の命にあずかる」ということ、すなわち「永遠の命」が根本的な意味を帯びることはありません。なぜならここでは、人間的な知性の働きが霊的な問題、特に御霊の働きと密接に関係し合うからです。イエス様は神のロゴス/み言(ことば)と呼ばれています(ヨハネ1章1節/同14節)。「ことば」には理性・知性が含まれますから、神からのみ言と人間の理性・知性(ヌース)の関わりが問われてくるのです〔さらに「人知と霊知」についてはコイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「人知と霊知」を参照〕。
 人は産まれて子孫を残して死ぬ。それ以上に「いつまでも続く命」など求める必要がないというのも分かります。けれども、そういうことを言う人たちは天寿を全うできた幸せな人たちです。こういう「自然な命」は、それだけで大事なものであるのは誰でも分かります。しかし、聖書が伝える「いつまでもなくならない命」には、自然の生物の命にはないもう一つの大事なものがあります。それは、正義とか真理とか愛と呼ばれる人間を支える価値観がこれに含まれていることです。この世では、人は戦争や飢餓やその他の<人間が引き起こす>仕業が原因で多くの人の命が奪われていきます。小さな子供たちや罪のない人たち、正しいことを行なおうとしたために殺される人たち、こういう理不尽な「死」があるのです。天寿を全うする自然死に対して不正で理不尽な「歴史的な死」があるのです。こういう理不尽な迫害や苦難の歴史の中から「死んでも死なない命」への信仰が芽生えてきたのです。
 このように言うと、それは人間が造り出した妄想にすぎないのであって、そんなものは現実に存在しない。こういう利口そうな人たちのもっともらしい解説が聞こえてきそうです。けれどもそれは小利口な人間の淺知恵です。神の知恵は人間の知恵よりもはるかに不思議で深いのです。自然科学が生み出すものは、人間の霊的な成長にもとても大事な働きをするだけでなく、大切なことを教えてくれます。自然と宇宙は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」だと言われています。その第二の聖書が教えてくれるのは、地上の生命は誕生以来、様々な生存の危機や困難に出遭う度に不思議な進化を遂げてきたことです。海の生物が陸に上がったり、絶滅寸前の恐竜から空を飛ぶ鳥が生まれたり、人知ではとうてい計り知ることのできない生命の進化の過程をわたしたちは自然の生命の歴史に見いだすのです。だから、人間が「永遠になくならない命」を考え出したとしても不思議ではないし、人間がそのような命の存在を信じ、信じることで現実にそれが存在する事態が生じても驚くにあたらない。わたしはそう思っています。
 わたしたちがこういう不思議な命の存在を知ることができるのは、霊的に目覚めた知恵の人たちか、言い知れぬ苦しみを体験した人たちのお陰です。聖書の伝える霊的な永遠性には過去の人類の血と涙の跡が滲(にじ)んでいます。だから、「今笑っている人」や「今飽き足りている人」(ルカ6章21節)には聖書の伝える「霊の命」は、悟ることも理解することもできない無縁のものです。こういう場合に人の理性や知性が己の能力を超えた分野、言い換えると自己の知らない分野に踏み込んであえて批判を犯す不遜な高ぶりに陥るものです。
 ところがここに逆の場合が生じるおそれもあります。霊的な指導者たちが、己の霊的な営みを相手が理解しない/理解できないという理由で、科学的あるいは学問的な理性・知性を否定したり、これを非難したりする場合です。霊的な知性の持ち主がほんとうに「永遠の命」を知っているのであれば、彼は決してこのような誤りを犯しません。「永遠の命」を知る者は、己の知的な営みをも含めて、この世におけるいっさいの営みが、仮の姿であり過ぎゆくものであって、自分自身を含むすべてのものが絶対的でないことを霊的に洞察するからです。
 先にわたしは、小さな者に与えられる永遠の命には、正義と不義、幸いと禍の正邪を見分ける価値観が具わっていると指摘しました。この点が、今ここでとても大事なことになってきます。なぜなら現代の学問的な理性・知性は、正義と不義、幸いと禍などの価値意識と直接的な関わりを持たないからです。現代の学問的な理性は理論(theory)によって進められます。理論それ自体に正邪は存在しません。しかも現在の学問は理論それ自体を絶対化する傾向と誘惑に陥りやすいので、ここに重大な落とし穴があります。これを防ぐためには、理論が理論それ自体を否定するという営みが絶えず行なわれていなければならないのですが、これが人間にはとても難しいのです。人がもしも己の理性・知性の営みのこの弱点を悟っていない場合は、非常に危険なことが起こります。とりわけ、「霊的な分野」の問題を学問的に否定したり批判したりする場合がこれにあたります。
 ヨーロッパでは、17世紀の頃まで「正しい理性」"the right reason"/「誤った理性」"the wrong reason" という言葉が用いられていました。しかし近代科学の発達に伴ってこの言い方が逆転して、現代ではこのような言い方をせず、もっぱら「理性は正しい」"The reason is right ." という言い方をします。ここに現在の人間の理性的な営みの危険性が潜んでいるのです。なぜなら、このような学問的な理性・知性は「憐れみ」とか「愛」が表わす人格性を具えていないからです。
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