126章 失われた羊
マタイ18章10〜14節/ルカ15章3〜7節
【聖句】
■イエス様語録
 あなたがたの中の誰かが百匹の羊を持っていて、それらの一匹を失ったら、九十九匹を山に残して失った羊を探し回りに出ていこうとしないだろうか?そして何とか見つけ出すことができたなら、わたしはあなたがたに言う、彼は迷い出なかった九十九匹よりもそれを喜ぶ。
■マタイ18章
10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 
■ルカ15章
3そこで、イエスは次のたとえを話された。
4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 
■参照『トマス福音書』(107)
イエスが言った、「1御国は百匹の羊を持つ羊飼いのようなものである。それらの中の一匹、最大の羊が迷い出た。その人は九十九匹を残しても、それを見つけるまで、一匹を捜した。2彼は苦しみの果てに羊に言った。『わたしは九十九匹以上にお前を愛する』と」
          〔荒井献『トマスによる福音書』講談社学術文庫276頁〕
 
【注釈】
 
【講話】
■誰の側に立つのか?
 マタイ福音書によれば今回の譬えはイエス様が弟子たちに向けて語られています。ところがルカ福音書によればこの譬えはファリサイ派と律法学者の批判を受けたイエス様が、彼らに向けて語ったことになっています。同時にルカ福音書では、イエス様の話を聞いているのは共に食事をしている徴税人や罪人たちのほうです。語られているのは迷い出た/見失った一匹の羊と残された九十九匹のことです。
 共観福音書では羊飼いが「父なる神」として語られています。ただし「イエス様の父」であることがイエス様の口から語られています。またヨハネ福音書10章のほうはイエス様御自身のこととして「良い羊飼い」の譬えが語られます。ヨハネ福音書の場合もイエス様の父と結びついていますから、共観福音書でもヨハネ福音書でも、「良い羊飼い」には旧約聖書の神と新約の羊飼いイエス様が一つになっているのに変わりありません。
 さてわたしたちは、いったいだれの側、どの立場からこの譬えを読めばいいのでしょうか?譬えを解釈する前に先ずこのことが問題になります。一番確かのはイエス様のお立場から読み解くことでしょうが、はたしてそれでいいのでしょうか? マタイやルカの時代にもファリサイ派は存続していましたが、イエス様の時代の徴税人はもういませんでした。またルカの時代では、ファリサイ派も徴税人も「譬え話」の中のこととして登場します(ルカ19章9〜10節)。だから今回の羊飼いの話でも、「ファリサイ派と律法学者」は、実はルカの時代のキリスト教会の指導者たちを示唆しているのではないかと言われています。マタイ福音書の場合でも、イエス様の時代の弟子たちとマタイの頃の教会の指導者が重ね合わされている点では同じですから、そうなるとわたしたちは、自分をイエス様のお立場に置いてこの譬えを読むこともそう簡単にできなくなります。
 九十九匹を残して一匹を捜すのはおかしいなどと、利口ぶって批判する人はさしずめファリサイ派や律法学者の側に自分を置いているのでしょう。弟子たちの側から見れば、教会から出ていった人たちや、教会の中で「仲間はずれ」にされたり、あるいはトラブルを起こす人などをどのように扱うべきなのかが気になるところでしょう。自分は迷い出た羊ではないと自負している模範的な教会員なら、「悔い改めを必要としない」残された九十九匹の側から見ていることになります。
 最後に残るのが「迷い出た」あるいは「見失った」一匹のほうです。この一匹に自分を重ねる人はかなり勇気が要ります。あちこちの教会に通っても、どこにも受け入れられなくて行き場がなくなった人、自分はダメだと自分を責めている自虐的なクリスチャン、あるいは一人でひそかに聖書を読み祈っている「オタク」タイプの信仰者などが思い浮かびます。さて、自分をこの見失われた一匹だと自覚する人が、かく言うわたし自身を含めて何人いるでしょうか? 今回の譬えは、自分をこの一匹の羊の立場に置く時に初めて、そのほんとうの意味が見えてくるのです。
■神とイエス様の喜び
 頭がよくて飲み込みが早く、言われたことをきちんと実行し、よく勉強してお祈りもきちんとする、そういうクリスチャンの優等生と話をしていてるとなんとなく物足りない気がします。よほどのことがない限りそれ以上変わることができない人だという印象を受けるからです。これに対して、物わかりが悪く何を言っても反発し、そのくせ聖書の御言葉に異常にこだわり、愚図(ぐず)でうつむきかげんな人もいます。自己否定的なことばかり言いながら、実はそれがプライドと裏表になっている人もいます。ところがそういう扱いにくい人に接していると、妙に気になるだけでなく、なんとなく親しみさえ覚える、そういうことがあるものです。
 親にとってできの悪い子ほどかわいいと言います。イエス様の父なる神も同じように、できの悪い人ほどかわいいということがだんだん分かってきました。イエス様の神様はその人をお造りになった創り主だからでしょう。父とイエス様は人が見る目とは違ったまなざしで「できの悪い」人をご覧になっている、そういう神の視線を感じとることがあるのです。たとえできが悪くても、その人にほんらい具わる「霊的人格」が存在していることを知っておられて、そういう人格的霊性をその人に内に「見いだして」くださる、これがイエス様の父なる神がお与えくださる御霊にある愛の働きだと悟らされるのです。こういう霊的な人格は、普通の人から全く見えないだけでなく、本人さえ気づいていないものです。こういう霊的な見方は、イエス様の父なる神がその人の創り主だからこそできるのです。
 わたしがこう思うのは、今回の譬えに始まるルカ福音書の三つの話が、どれもその最後に、父なる神とイエス様の「喜び」で結ばれているからです。できの悪さと強情な心の奥から、何かが創り出され生まれてくる不思議な<喜び>、これこそ父なる神の御霊のお働きではないかと思うのです。イエス様の父である神様の愛とはほんらいそういうものではないかと思うのです。マルコ福音書で七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリア(16章9節)、マタイ福音書での徴税人マタイの召命(9章9節以下)、ルカ福音書の放蕩息子の物語(15章11節以下)、ヨハネ福音書のサマリアの女の回心(4章)、これらの話の中にイエス様とその父なる神の愛のお働きが最もよく表われているという想いにいたるのです。
 教会生活に躓いたり、結婚に失敗したり、仕事を失って途方に暮れたり、家にこもって出られなくなったりする人たち、イエス様と神様の目からは、こういう人たちが一番心
にかかるのではないでしょうか。だから、こういう人たちが自分の内に人格的霊性を創り出してくださる御霊のお働きに目覚めて「生き返る」ときに、神とイエス様は「共々に」大喜びするのです(「天において」とはこの意味)。ルカ福音書(18章9節以下)は、自分はこれ以上何も必要が無いと自己満足しているファリサイ派と、うつむいて憐れみを請う罪人を対照させて、神の目からご覧になってどちらが御心にかなうのか、どちらが神の御霊にある不思議な<創造の喜び>に与るのかをみごとに描き出しています。だから、霊的な成長において最も警戒しなければならないのが「自己満足」です。
■見つけ出されるまで
 クリスチャンならだれでも知っているとおり、わたしたちは、ごく些細(ささい)なこと、ほんのちょっとしたことがきっかけで、罪の誘惑に誘われたり躓いたりすることがあります。その結果失うものがどれほど重大で深刻な事態なのか、聖書はこのことをも同時に教えてくれます。迷い出た羊をはたして見つけ出すことができるのか? マタイ福音書ではこの点さえも確かでありません。だからこそ、再び見いだされて戻ったときの喜びがそれだけ大きいのです。
 わたしが今回の譬えでこだわっている言葉があります。それは「探し回る」です。どこまでも「見つけ出すまで」探し回る羊飼いの眼差(まなざ)しです。なぜ良い羊飼いは一匹にそれほどこだわるのでしょうか? それは取るに足りない小さな一匹でも、そこには、その人にほんらい具わる<永遠の霊的な命>がかかっているからです! だからこそ御霊はわたしたちの内にこの永遠の命を創り出すまで働き続け探求し続けてくださるのです。
 迷い出た羊が、迷い出たことに気づいて鳴いてくれたらまだ捜しやすいかもしれません。しかし、迷い出ていることさえ気づかず黙ってうろうろしている。こういう羊もいるのです。ひょっとすると、自分は迷ってなどいない、こう思いこんでいるかもしれません!そんな一匹を見つけ出して、自力で歩けないままに肩に担いで連れ帰る。これが今回の羊飼い像です。羊は自分が迷い出ていたことを救い出されて初めて悟った!ということもありえるのです。そこまで一匹にこだわり、そこまで探し回ってくださるのがイエス様の御霊のお働きだということ、このことに気づいてくだされば、今回の譬えの真意に気づいたことになります。
 わたしたちが神を求めイエス様の御名を呼び求めることが<できる>こと、実はそれ自体がすでにイエス様の御霊に呼び求められていることにハタと気がつく時、わたしたちは初めて、自分がイエス様の父なる神に捜し求め<られて>いたことを知るのです。それも半端ではなく、わたしたちの内に潜む霊性それ自体が変えられるまで、どこまでも捜し求め探り求められる、こういう御霊の扱いを受ける時に初めて、自分の今までの祈りが祈りではなかったこと、自分が考える信仰が勝手な思いこみにすぎなかったことを悟らされるのです。創造の神のお働きは、大宇宙、大自然、人類を創造してこれを導いておられるだけでなく、一茎(くき)の野の花、一羽の空の鳥さえ見逃すことなく守り育ててくださっていること、イエス様の御霊のお働きを受けると<このこと>が分かるようになるのです。
■赦して導く御霊
 人間は弱くて脆(もろ)い存在です。ちょっとしたことで肉体の死を招き、些細なことから霊的な罪と死にいたる存在です。罪の誘惑に弱く、些細(ささい)なことで躓きやすい存在です。それでもイエス様の御霊は、どこまでもどこまでも、探し回り探り求めて、わたしたちの霊性を命の道へ連れ戻してくださるのです。マタイ福音書はこのことを洞察して、兄弟の罪を「七の七十倍」赦しなさいというイエス様のお言葉を今回の譬えと結びつけています(マタイ18章22節)。
 キリスト教徒の迫害の時代に棄教したクリスチャンたちを再び教会が受け入れるべきかどうかをめぐって、かつて教会で論争が生じたことがあります。その時北アフリカのカルダゴの主教キプリアヌス(200/10?〜258年)は、今回の箇所を引用して、背教者を受け入れるよう説得しました。日本では、17世紀に一度は棄教したキリシタンの末裔が現在でも長崎県に遺っていて、250年もの間先祖の信仰と霊性を守り続けています。ファリサイ派や律法学者と同じに人は彼らをあれこれ批判するでしょう。それにもかかわらず、イエス様の天の父の御霊は、彼らが過酷な弾圧のもとで堪え忍ぶことを可能にして、彼らを支え続けてこられたのです。これが「良い羊飼い」の御霊です。
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