【注釈】
■イエス様語録注釈
 イエス様語録の順序では、今回の箇所は「小さな者を躓かせる者」の次に来ています。子供は「迷子(まいご)」になりやすいことから、これらがつながっているのでしょうか。確かではありませんが、イエス様語録では、今回の箇所に続いてルカ15章8~10節の「失った銀貨」の譬えが続いていたのかもしれません。もしそうだとすれば、マタイ福音書ではこの譬えが省略されたことになります。今回の箇所はほぼ一致してイエスにさかのぼると見なされていて〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)768頁〕、99対1は多数派とごく少数の「はぐれ者たち」を指しています。
 イエス様語録では、全体としてルカ福音書よりもマタイ福音書のほうが重視されているようで〔ヘルメネイアQ478~483頁〕、マタイ福音書とルカ福音書に共通するのは「百匹」と「九十九匹」だけです。ただし、マタイ18章12節よりもルカ15章4節が本来の伝承に近く、逆にマタイ18章13節のほうはルカ福音書よりも本来の伝承に近いでしょう。ただしルカ15章4~6節のほうがイエスにさかのぼる伝承を保持しているという見方もあります〔ルツ『マタイ福音書』(3)45頁〕。イエス様語録で分かるように、マタイ福音書では10節と14節が物語の枠として加えられており、いっぽうルカ福音書では5~6節に編集の手が加わっています。以下に問題となる箇所をあげておきます。 
【失った】「失った/滅びた」はルカ15章4節からで、マタイ18章12節は「迷い出た」です。ただし同14節では「失われる/滅びる」が来ていますから「失った」がほんらいの読み方だと判断されたのでしょう。ただし、今回の箇所の先に置かれている「小さな者/子供」の話から「迷子」のイメージによって今回の羊の話が次に来ているのならば、イエス様語録ほんらいの読みも「迷い出た」ではなかったか?ということになりましょう。それとも、「小さな者/子供」を迷子と結びつけたのはマタイ福音書の作者のほうであって、このためマタイは「失った」を「迷い出た」に変えたのでしょうか。
【出て<いこうと>しない】ここはマタイ福音書からでルカ福音書では「出ていかない」です。
【山に】ここはマタイ福音書からでルカ福音書では「荒れ野に」です。
【捜し回りに】ここもマタイ福音書からでルカ福音書では「捜しに」です。
 
■マタイ福音書の「一匹の羊」
 マタイ福音書の「迷い出た羊」の話は、先の小さな者への躓きとのつながりに置かれていますから、弟子たちに向けて語られています。ところがルカ福音書では、15章の一連の譬え集の中にでてきて、イエスが語る相手はファリサイ派の人たちです。このためでしょうか、マタイ福音書では仲間から「迷い出た」羊のことですが、ルカ福音書では「すでに失われている」羊(徴税人や罪人)のことを指しています。このためマルコ福音書とルカ福音書とは異なる時に語られたのではないかという見方もあります。どちらも九十九匹と一匹とが対比されていますので、共通する伝承資料が両福音書以前に存在していて、その伝承がマタイ福音書とルカ福音書それぞれに違った仕方で採り入れられていると見るべきでしょう。
 マタイ福音書では10節と14節が物語の枠を形作っていますが、どちらもルカ福音書にはありません。なおマタイ18章11節「人の子は失われた者を救うために来た」は複数の有力写本では抜けています。この11節は10節と12節以下とを結ぶためにルカ19章10節から採り入れて挿入されたと思われますが、内容的に見て譬えの結びに置くほうが始めに置くよりも適切だと思われます〔新約原典テキスト批評44~45頁〕〔フランス『マタイ福音書』684頁(注)1〕。
■注釈
[10]【軽んじる】傲慢な態度で見下すだけでなく、相手に害を及ぼす行為をすることです。18章5節の「受け入れる/快く迎える」の反対を意味します。
【天使たち】古代オリエントからヘレニズム世界にいたるまで部族や家族の守護霊の存在が信じられていました。これはギリシア語で「ダイモーン」(霊)と呼ばれ、これには善霊(エウダイモニオン=幸福)と悪霊(カコダイモニオン=不運)がありました。ローマではラテン語の「ゲニウス」"genius" (守り神/才能/天分)があり、部族や家族の守護霊とされましたが、時代が下るとこれが個人の守護霊にもなります(逆に個人に禍をもたらす「悪霊」もありましたが)。この守護霊は16~17世紀のイングランドでは「ジーニアス」"genius"と呼ばれて、人が産まれた時からその人に付き添いその運命を定めると信じられました。
 ヘブライ語では守護天使は「マルアーハ」(使者/御使い/天使)と呼ばれて、神から遣わされると信じられました。創世記48章16節のヤコブ(=イスラエル)を守る御使い/天使がこれにあたります。この場合「天使」はほとんど神自身の働きに近いと言えましょう。ヨベル書(前200年頃?)には「ヤコブを守る方はエサウを守る方よりも偉くて力がある」(ヨベル書35章17節)とあり、これが個人への守護天使を表わします。トビト記(前2世紀)5章4節以下の天使ラファエルもこれにあたり、ダニエル書(前2世紀)3章28節/同6章22節の天使も神からダニエルに遣わされたものです。イエスの頃のパレスチナでもこのような個人の守護霊(御使い)が信じられていたのかは確証できません。新約聖書では使徒言行録12章15節でペトロを牢獄から解放する御使い/天使が伝統的なヘブライの守護天使にあたるでしょうか。今回の10節がマタイ福音書の作者による編集だとすれば、「小さな者」をも個人的に守護する「御使い/天使」の存在は1世紀のキリスト教において生じたのかもしれません。個人だけでなくそれぞれのエクレシアにも御使いが存在していました(ヨハネ黙示録1章20節)〔フランス『マタイ福音書』686~87頁参照〕。
 ヘレニズム世界の守護霊は地上にあってその人を守る霊ですが、今回の箇所では「直接神のみ顔を仰ぐような高い天使」が「小さな者」の守護霊であるというのが特長です。これは神自身の視線が取るに足りない者たちに向けられていることを強く印象づけるものです。このような守護霊の存在は16~17世紀のルターやカルヴァンたちの宗教改革の時代にその存在を薄めることになりますが、カトリックでは個人的な守護天使の存在が現在でも保持されているようです〔ルツ『マタイ福音書』(3)49頁〕。
【天の父の御顔を】「み顔を仰ぐ」は古代では王の謁見を受ける際の言い方でした(サムエル記下14章24節参照)。しかし新約聖書では神を仰ぎ見る場合に用いられます(マタイ5章8節/ヨハネ黙示録22章4節を参照)。
[12]12~13節が譬えの核となる部分で、10節と14節の枠によってこの譬えがどのような意味かが明らかにされています。
【羊を百匹】この譬えは羊の<持ち主の視点から>語られていますから、羊飼いは雇いの羊飼いではないでしょう(ヨハネ10章12節を参照)。しかし百匹もの羊は、通常は持ち主ではなく雇いの羊飼いが世話をすると言われます。だから、この羊飼いも持ち主の親しい身内だったのでしょうか。旧約聖書では主なる神が羊飼いとして描かれていて(詩編23篇/エレミヤ書23章1~3節/特にエゼキエル書34章11~16節を参照)、今回の譬えでもそれが受け継がれていて、譬えが「天の父」の視点から語られています(10節と14節)。ヨハネ10章11~16節の「良い羊飼い」はイエス自身のことですからこの点で共観福音書の羊飼い像と異なるという指摘もあります。しかし、今回も譬えそれ自体がイエスの父の視点からイエスの口を通じて語られていますから、探し出す羊飼いをイエス自身と重ねることができましょう(マタイ9章36節/同15章24節参照)。ヨハネ10章でもイエスは自分と父の神を結んでいますから、マタイ福音書でもヨハネ福音書でも、旧約と新約の羊飼いが一つになっていると見ていいでしょう。
【迷い出た】原語は「プラナオー」(惑わす/だます/誤らせる)の3人称単数接続法アオリスト形受動態で「惑わされた/迷い出た」です。ルカ福音書では「失った/奪われた」でこちらがほんらいの読みだったと思われます。「迷い出る」にも、日本語の「道にはずれる/道を誤る」と同じように「罪を犯す」という意味があります(英語の"errorも古くは同様の意味でした)。しかしここでの「惑わされる」には「間違った教えに走る/異端に陥る」の含みもあるでしょう。
【山に残して】原文は「山/丘(複数)の上に」です。"on the mountains" 〔NRSV〕。しかしなだらかな丘のつらなりの場合は複数の丘の間をも指すのでしょう。"on the hillside" 〔REB〕。この箇所の注釈で問題になるのは、いったい羊飼いが、九十九匹もの羊を置き去りにして一匹だけを捜しに出かけるだろうか? という疑問です。『トマス福音書』はこの点を重視したのでしょうか、いなくなったのは「最大の羊」になっています。イエスの譬えを聞いていた聴衆は、この辺の疑問も納得して聴いていたと思われますから、九十九匹はすでに羊の囲いの中に安全に入れられていたと見ることもできます。あるいは、百匹もの羊の群れなら羊飼いは複数いましたから、羊の所有者が他の者に残りの羊を預けて出かけることも可能だったのでしょう。イエスの譬えは、その焦点だけを聞く者に鋭く提示する語り方ですから、ここでも譬えのポイントは、九十九匹を残したことではなく、見失った一匹を捜し求めるほうにおかれているのです。
[13]【その一匹を喜ぶ】ルカ福音書のほうは羊飼いの喜ぶ様子を生き生きと描いていますが、マタイ福音書ではその喜びを「何とかやっと捜し出せたら」と「アーメン」を「わたしはあなたがたに言う」に加えることで表わしています。ここでは「取るに足りない小さな者」でも天の父の目から観ればきわめて貴重なことを教えています。だから、見失ったのは群れにとって「最大の羊」だから、群れ全体のために不可欠だという『トマス福音書』の解釈は、イエスの譬えのほんらいの意味を見誤っていると言うべきです。
[14]【あなたがたの天の父】「あなたがた」には「わたしたち」という異読があります。マタイ福音書では「わたしの父」も「あなた(がた)の父」も両方用いられていますのでどちらとも決めがたいようです。おそらく「ヘーモーン」(わたしたちの)と「ヒューモーン」(あなたがたの)の違いは「ヘー」を「イー」と発音するところから出たのでしょう〔新約原典テキスト批評45頁〕。この譬えはイエスの天の父の御心から出たもので、イエスが父から遣わされたのは何よりも先ず「イスラエルの家の失われた羊たち」(マタイ10章6節)を捜し求めることでした。同時に、この譬えがイエスの弟子たちにも向けられていることに注意しなければなりません。
■ルカ福音書の見失った羊
 ルカ福音書では、イエス一行のエルサレムへの旅が9章51節に始まり19章27節で終わります。これは物語の枠を構成するためであって歴史的事実を反映したものではありません(共観福音書ではイエスのエルサレム訪問は1度だけですが、ヨハネ福音書では3度でこちらのほうが史実に近いと考えられます)。興味深いのは、この旅の途中の15~16章で一連の譬えが語られていることです。しかもそれらの譬えと物語の多くはルカ福音書だけにでています。15章で三つの譬えが組み合わされているのはルカ福音書以前の伝承から来ているのでしょう。「見失った羊」の譬えだけはマタイ福音書と共通するところがありますが、違うところもあり、全体を「ルカの特殊資料」からだと見ることもできます。なおこれら三つの背後にはエレミヤ書31章10~20節があると指摘されています〔ノゥランド『ルカ福音書』15章1~7節〕。
 ルカ15章では、「見失った羊」(3~7節)、「無くした銀貨」(8~10節)、そして「放蕩息子」(11~32節)の三つの譬え/たとえ話が続いています。初めの二つはそれぞれ男と女が譬えにでてきて、どちらも同じ構成をとり同じような結びで終わっています。この短い二つの譬えに続いて放蕩息子の物語が語られます。三つに共通するのは「失われたものが見いだされる喜び」ですから、ここにはルカ福音書の中心的な主題である「悔い改めと罪の赦し」が最も鮮明に描き出されていて、このため15章は「第三福音書の心臓部」"the heart of the Third Gospel"だと言われています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1071頁〕。
 15章1~3節は三つの譬えの導入部です。ルカ福音書では、導入部が、続く譬えをどのように読むのかを読者に教える働きをしますので、この導入部にも注意しなければなりません。ここでは「徴税人と罪人」がイエスの話を聞こうと集まってきます。すると「ファリサイ派と律法学者たち」はイエスが罪人を歓迎して共に食事までしているとイエスを批判します。今回の導入部には、マルコ2章15~17節が反映していて(ルカ5章27~32節も参照)、そこは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」で結ばれています。だからこの記事は、ファリサイ派と律法学者たちを批判するためというよりも、むしろ批判されている側の<罪人たちの救い>のほうに焦点が当てられているのが分かります。したがって今回の15章の譬えを読む場合でも、わたしたちは批判するファリサイ派とされるイエスのほうに目を向けるよりも、むしろ自分自身を「救われる罪人」と同列に置いて読むことが求められているのに気づかなければならないでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1072頁〕〔クラドック『ルカ福音書』305~306頁〕。ルカの頃にはファリサイ派も律法学者も存在していませんが、ルカはこの導入部において、自分たちのキリスト教会(の指導層)がかつてのファリサイ派と律法学者の側に立っているのではないか、という危惧を抱いていたのかもしれません。
 さらに今回の「見失った羊」の譬えについては、文献的に見て続く二つとは異なる点があります。放蕩息子の物語はルカ福音書だけにでてくるルカの特殊資料からです。しかし、今回の羊の譬えはマタイ福音書と共通する部分がありますから、ここにはイエス様語録(Q)が入り込んでいるのではないかと見られています(銀貨の譬えもイエス様語録からか?)。そうだとすればルカは、イエス様語録とルカの特殊資料から伝承を採り入れることによって、15章をルカなりの独自の手法で構成し編集していることになります。
■注釈
[3]原文は「彼らに向かってこの譬え(単数)を語って言われた」です。1~3節から判断して、聴いているのはイエスと一緒に食事をしている「徴税人と罪人」です。これを批判しているのがファリサイ派と律法学者です。「彼ら」とは批判するファリサイ派と律法学者のほうですが、話の内容のほうは「羊を見いだした喜び」を味わっているイエスと聴いている徴税人や罪人たちのほうでしょう。だとすれば「悔い改め」を迫られているのは、徴税人や罪人たちだけでなく、彼らを批判するファリサイ派と律法学者のほうにも向けられています。このような「罪人たちとの会食」はイエス在世中にしばしば行なわれたことをルカは示唆していますが、、いったい自分を誰の側において読めばいいのか? これが読者に問われてきます。
【譬え】原語が単数なのに三つの譬えが語られています。ルカは全体を「一連の譬え集」として語っているのでしょうか。このように三つの譬えを一まとめにしている例がルカ5章33~39節「断食についての問答」にもあります。
[4]【あなたがた】これはファリサイ派と律法学者たちを指していますが、彼らが羊の群れの所有者であるというのは当時のパレスチナの慣習から見ると(不可能ではないまでも?)不自然です。
【見失った】原語「アポルーミ」には「滅ぼす/殺す」と「失う」の意味があり、ここの「見失った(一匹)」は完了形分詞なので「滅びた/滅びつつある」の意味にもなります。マタイ福音書では「迷い出た」。
【野原】原語は「荒れ野」〔フランシスコ会訳聖書〕に近いです。マタイ福音書では「山/丘(複数)の上」です。現在でもベドウインの人たちはベエルシェバあたりから死海の間にあるネゲブの荒れ野地帯に沿った草地で羊を飼っていますから、山間部でも荒れ野でも可能です。
[5]~[6]ここの羊飼いの描写はマタイ福音書にありません。ルカによる編集でしょうか、マタイの省略でしょうか、どちらとも決めかねるようです。「呼び集める」はルカ福音書によくでてきます。「羊を担ぐよい羊飼い」像は古代のアッシリア時代(前10世紀)からヘレニズム時代にいたるまで広く見られます。ただし現在ローマの地下墓地に遺る「よい羊飼い」像はルカ福音書のここから出ているものです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1077頁〕。マタイ福音書でも同じですが、ここでは羊のほんらいの<所有者>の気持ちが重視されていますから、旧約以来のイスラエル民の所有者であり「イエスの父」でもある神の視点が示唆されているのです。
【一緒に喜ぶ】原語「シュンカイロー」(喜びを分かち合う/お祝いする)は一語で、これが三つの譬えを結ぶ鍵語です。これで読者の視点は批判するファリサイ派たちではなく羊を連れ戻した羊飼いとその仲間たち、それに彼に救われた羊に向けられるのです。
[7]【悔い改める】ギリシア語「メタノー」(心を入れ替える)にあたるヘブライ語「シューヴ」は「立ち返る/神のもとへ戻る」ことです。罪人の「悔い改め」は、彼を排除し批判する者たち(ファリサイ派と律法学者)の側からではなく、彼を探し出して受け入れる側の慈愛によって初めて可能になります。なおルカが「九十九匹」に「悔い改める必要がない」をわざわざ加えているのは「九十九匹」がファリサイ派と律法学者たちを示唆する皮肉だという解釈もあります。「喜びがある<であろう>」と未来形なので、これを終末的な出来事として解釈しようとする説もありますが、そうではなく、未来形の「喜ぶ」は事のごく自然な成り行きを表わすものです。
【罪人】「一人の罪人」と「喜び」は、ほんらいはアラム語「ハッタ」(罪)から出た「ハッダー/ハッテヤー」(一人の罪人)とアラム語「ヘッドワー」(喜び)との掛け詞(かけことば)になっていたと考えられます。この言葉がイエスにさかのぼることを示すものでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1078頁〕。
■『トマス福音書』注釈
 『トマス福音書』では今回の譬えが「御国の譬え」としてあげられています。古代では99までは左手で数え、100以上は右手で数えました。左(手)は右(手)に比べて不完全/不吉であり右手は完全/吉だと見なされていましたから、100から1が抜けると完全(グノーシス思想で言う「充満:プレーロマ」)から不完全へと「堕落する」ことになります。このような考え方からすれば、失われた1が残された99にとってきわめて大事なことが分かりますから、その一匹が「最大の羊」だと呼ばれているのでしょう。『トマス福音書』では譬えがグノーシス化されていて、1は99の<ために>必要な存在であることが強調されています。グノーシス思想ではこの意味での100が人間の最も本来的な(堕落以前の原初的な)有り様を象徴します〔荒井献前掲書278~80頁〕。
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