127章 忠告と小さな集い
マタイ18章15〜20節/ルカ17章3節
【聖句】
■マタイ18章
15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
20〔なぜなら〕二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
■ルカ17章
3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
【注釈】 【講話】
■二人三人の交わり
今回の箇所は、「二人三人」がキー・ワードです。二人三人の間で忠告し合い、二人三人で祈りを共にし、二人三人で主の御臨在を仰ぐのです。おそらくこのような小さな「交わり」(コイノニア)はイエス様にさかのぼるコイノニアの原型でしょう。イエス様は、三人を伴って山上の変貌に臨み、三人を伴ってゲツセマネでの祈りに向かわれたからです。
最初期のキリスト教の諸集会は「家の集会」と呼ばれていました。パウロが伝道したエフェソの一般的な市民の住居では、中庭を囲むように部屋がありますが、広い部屋でも10〜20人くらいまでの集いではなかったでしょうか。そこにユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も、奴隷も自由人も、男も女も、従来の宗教的な壁、社会的な身分の隔たり、性別の格差を超えてイエス様の御霊に導かれた人たちが集まったのです。このような交わりは「メンバーが自由意志で参加できて、しかも各人が交わり全体を見渡すことができる程度の大きさ」です〔ルツ『マタイ福音書』(3)72頁〕。互いの忠告も心を合わせた祈りもイエス様の御霊の御臨在にある礼拝も、このようなコイノニアにあって初めて可能になります。これが御霊にあるリヴァイヴァルのモデルです。
■愛による忠告
わたしたちはともすれば陰で人の悪口を言いながら面と向かって本人に意見することを避ける傾向があります。しかしイスラエルでは「兄弟姉妹への勧告」は隣人愛の一環とされていました〔ルツ『マタイ福音書』(3)64頁〕。だから、神の御前にあって罪を罪として確認することを避ける福音は真の福音とは言えません。御霊に導かれるままに罪を罪だと認定する者だけが、その罪が赦されこれを取り除くことができるからです。主にある兄弟姉妹の霊性を神とイエス・キリストに近づけることが御霊にある愛の働きですから、この導きに反して交わりのメンバーをイエス様の御霊の御臨在から引き離そうとする力に抵抗して、彼/彼女がその誘惑から守られるよう祈り求めることが大事です。人の霊性を真理と愛に導くのは、人の業ではなくイエス・キリストの御霊のお働きです。だからわたしたちが信仰の仲間に忠告するのは、本人の霊性のためであって「懲罰」のためではありません。まして「排除する」ためではありません。
仲間に忠告する前になすべきは祈りです。自分で祈り、誰かと共に祈り、忠告する相手と祈ること、これが最も大事です。忠告・勧告の内容が自他共に明らかに罪だと分かる場合もあるでしょう。そこまで行かなくても道徳的倫理的に「人として」あるまじき行為の場合もあるでしょう。やっかいなのは霊性の内容や信仰の教えに関する忠告です。聖書解釈の誤りを指摘することもこれに入ります。この場合大事なのは相手に「勝つ」ことではありません。その人を「イエス様の御臨在」に導いて、愛と喜びと平安の御霊にある霊性へと救い導くことです。こうなると、イエス様と使徒たちの教えを正しく受け継いでこれを教える指導者が必要になります。
わたしたちコイノニア会は、少人数ながら、いろんな教派や宗派からの人たちが出席されています。わたしはこれがとても良いことだと思っています。なぜなら、こういう集会に出て、イエス様の御霊の御臨在の交わりに与るなら、自分の信仰、自分の宗派、自分の考えを超える神様の広い霊性が存在することを知るようになるからです。このコイノニア会ではそれぞれの信仰も霊性も自由です。しかし、その自由は、ほかの人たちの信仰と霊性の自由と共存していること、これがとても大事なのです。自分の信仰の自由が認められているのなら、人の信仰の自由も認めるべきでしょう。そうすることで自分の霊性が、次第により広い多様な世界に開かれるのです。小さな交わりの大きな意義がここにあります。
■祈りによる忠告
イエス様は、使徒たち(とエクレシアの指導者たち)に「あなたがたが地上で結ぶことは天でも結ばれ、地上で解くことは天でも解かれる」と言われました。だから、イエス様の御霊に導かれる祈りは、地上だけのものではなく、逆に人の手を離れた天上だけのものでもありません。イエス様の御霊の御臨在にある祈りとは地上と天上を<つなぐ>からです。祈りは人の心の願いだけでなく、御霊にあって、祈られる相手に伝わり現実の力となって働きます。御霊は人の心に働き(主観的に)、同時にほかの人たちへの現実の力となって働きます(客観的に)。見える相手に通じるだけでなく、離れた見えない相手にも伝わります。今日ここで祈ることが、明日あの場で働きます。イエス様の御霊にある祈りは、主客一如・時空一如の出来事であり、信仰と行為が一つになった信行一如です。
今回の忠告から見ると、イエス様の御臨在を「正しい」方向で受け入れるように教え導くことを「解く/許す」と言い、交わりのメンバーが霊的に誤った方向に逸れていると忠告し、その危険性を彼/彼女に警告することを「結ぶ/縛る」と言います(マタイ16章19節)。何を縛るのか、何を解くのか? これは難しい問題です。古来、キリスト教会で行なわれてきた異端論争もここから生じました。
イエス様の御霊の御臨在は福音の真理を伝える<受肉のキリスト論>に基づかなければなりません(ヨハネ1章14節/同17節/ガラテヤ2章14節/同16節)。父と御子と御霊の御臨在はヨハネ15章26節で語られています。ここから、ほんとうの「主共に居ます」という「インマヌエル」(マタイ1章23節)のキリスト論が顕われるのです。これらからは、自然と三位一体の信仰へ導かれます〔ルツ『マタイ福音書』(3)75頁〕。だから、使徒信条、三位一体のニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)、そして第6回目のトレド信条にある「御父と御子から発出するお方としての聖霊」(638年)、これらを大切にしなければなりません。
■交わりから破門へ
しかし、小さな交わりの中で普段に祈り合っていなければ、霊的な問題をはたして正しく結び、正しく解くことができるでしょうか?大きな組織を統括し運営する意図で行なわれる判断や裁定が、信者相互の複雑な霊性への疑問をその深みにおいて正しく認識することができるでしょうか? だれの目にも明らかな犯罪行為ならいざ知らず、事が信仰の内容や聖書解釈のことになると、このような懸念がいっそう深まります。
言うまでもなく「エクレシア」は聖職者階級を指すのではなく、信仰する人たちの集まりのことです〔ルツ『マタイ福音書』(3)70頁〕。すでにパウロの頃に、コリントの集会において、淫らな者を交わりから除名することが行なわれています(第一コリント5章2節)。この傾向はパウロ以後になると集会からの「破門」という形をとるようになります(第一テモテ1章20節/テトス3章10節)。2世紀に入るとキリスト教が東地中海一帯に広がり、教会の規模が拡大し、会堂が建てられ、それぞれの会堂に主教・長老・執事などの役職ができて教会が制度化します。キリスト教が拡大するにつれて、様々な教えが現われ、地域ごとの教会の在り方も多様化しました。このようにして「古カトリック教会」と呼ばれる教会制度ができます。ヨーロッパ中世になると、「破門」は財産の没収と教会からの追放を含むことになります。ただし宗教改革時代には、「破門」は世俗の権利や財産の没収には関係せず、エクレシアでの聖餐からの排除に留めるようになりました〔ルツ『マタイ福音書』(3)69頁〕。
■エクレシアの形成原理
キリスト教会の制度化と並行して、3世紀頃から、教会制度を離れて砂漠や荒れ野や洞窟で祈りと修行に励む一人あるいは二人三人の少数の人たちが出てくるようになります。これが修道会の始まりです。だから今回の小さな交わりは後のキリスト教の修道会になります〔ルツ『マタイ福音書』(3)70頁〕。
わたしが最も重視するのは、二人三人の祈りが同時に主の御臨在と結びいていることです(マタイ18章19〜20節)。そこでは、祈りがただの祈願ではなく、「御霊の祈り」と一つになっています。御霊にある祈りは、単なる人間的な願いに留まらず、エクレシアを形成し実現する「神のお働き」となるからです。わたしたちエクレシアの主であるイエス・キリストの御霊のお働きがそこに顕現するのです。だから、御霊にある祈りは人の内面だけの主観的な願いではありません。それは客観的に現実の力として働きます。祈り合う者たちを霊的に結びつけて広がるエクレシア形成の原理がここにあるのです。どうか、このことを洞察してほしいのです。これが使徒言行録の伝えるイエス様の御霊のお働きです。これが教会の歴史を形成してきたキリスト教の本当の力です。
わたしは思うのですが、聖公会や長老派やバプティストなどプロテスタントの伝統的な諸教派も、カトリック教会も東方正教会も、イエス様の御霊にある少人数の交わりと祈りが、実は教団の有り様にとても大事なことを認識し始めているのではないでしょうか。信者同士の御霊にある自由な交わりを規制したり束縛するよりも、むしろ多数の小さな祈り合いと集いの力こそが、ほんらいのエクレシア形成の源泉であることを洞察し始めているのではないでしょうか。これが御復活のイエス様の御霊のお働きだからです。これがコイノニアを創り出す神からの力だからです。エクレシア形成の根源がここにあります。
■小灯無数
もしも戦前のように、国家が宗教の統制に手を伸ばすとすれば、わたしたちコイノニア会のような自由で小さな集会は真っ先に国家統制の対象にされるでしょう。国家権力はこういう自由なミニ集会を最も嫌うからです。このような未組織の諸集会は統制が困難ですから。だから先ずこれらミニ集会を大きな組織の中へ吸収合併させてから、その組織全体を国家の統制下に置こうとするのです。江戸幕府のキリシタン禁令もこのような権力による統制の結果です。こうして戦前戦中の日本のキリスト教団は、国家の統制の下に置かれて監視されました。現在のアメリカ直輸入型のキリスト教も同様にアメリカのアジア支配の一環としてアメリカ的キリスト教の支配と管理下に置かれて利用されるおそれがあります。もしもアメリカを離れて中国の支配下に入るとすれば、今度は現在の中国の公認キリスト教会に見るように、中国政府の厳しい監督の下に置かれるでしょう。日本であれ、アメリカであれ、中国であれ、エクレシアが国家権力の統制下に置かれるなら、御霊にある自由も権利も国家権力によって利用される結果を免れることができません。
だから、これからの日本では、イエス様の御霊に導かれた小さな集いが無数に存在する「小灯無数」のリヴァイヴァルがとても重要です。その源は今なお変わらぬナザレのイエス様です。ここに源を発する聖霊のリヴァイヴァルこそ、プロテスタント、カトリック、東方正教会の区別を超えて働く御霊にあるエクレシアを支えるのです。わたしたち日本人は、長い民族的な霊性を宿しています。これに基づきながら、四千年の歴史に支えられた広い福音的な霊性に根ざすリヴァイヴァルを求めています。この民を救い、この国を正しく導くのは、人類の歴史を導いておられる神とイエス・キリストの御霊にあって歩むエクレシアの民だからです。
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