【注釈】
■マタイ18章15~20節
今回の箇所は、マタイ18章全体のエクレシアについての教えの区切りから見ると四つ目にあたり、二人三人への忠告としてまとめられています。18章15~20節のほとんどがマタイ福音書独自の資料伝承からだと思われますが、ルカ福音書17章3~4節にも今回のマタイ福音書と並行する箇所があり、ルカ17章3節はマタイ福音書の今回の15節と、ルカ17章4節は次回に扱うマタイ福音書の兄弟への赦しとそれぞれ並行しています。しかし、ルカ福音書ではこの二つの節が先の「小さな者への躓き」とひとまとめになって簡潔に語られています。
文献的に見ると今回のマタイ福音書の箇所には、15~17節/18節/19~20節と三つのほんらい独立した伝承が並んでいるので、「兄弟への忠告」と「弟子(使徒)たちの霊的権威」と「二人三人での祈りと主の御臨在にある交わり」を別個に扱うこともできます〔『四福音書対観表』161~62頁〕。15~17節はルカ福音書と内容が共通します。マタイはこれを語録集(マタイ版Q?)から拡大したと見ることがでましょう。18節はマタイ16章19節の重複と見なすことができます(イエスにさかのぼるかどうかは16章9節の注釈を参照)。19節はイエスにさかのぼりますが、20節はおそらくイエス復活以後の教会から出ているのでしょう。19~20節はすでにマタイ福音書以前から結びついていたと考えられます〔ルツ『マタイ福音書』(3)60~61頁〕。結果としてマタイの独自資料は19~20節だけでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)781頁〕
これら別個の伝承は全体を「兄弟への忠告」の見出しのもとに一つにまとめる場合が多いようです〔新約原典〕〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。この場合、三つの伝承は内容的につながると見なされますから、18節と19~20節は、先立つ15~17節との関連で解釈も違った意味を帯びることになります(このように項目を「並べる」あるいは「組み合わせる」ことは聖書解釈に重要な意味を持ってきます)。例えば、兄弟への忠告はほんらい個人的な関係で理解されていますが、18節ではエクレシア全体にかかわる指導者たちからの忠告にもなります。また19~20節の祈りは、ほんらいその内容が制限されていませんが、兄弟への忠告との関連からすれば特に「罪を犯した兄弟」のための祈りを意味するようになります。
■注釈
[15]【兄弟】原文は「あなたのアデルフォス(男性単数名詞)」です。男性名詞ですが先にでている迷い出た羊の譬えから見ても、またイエスの弟子には女性たちも含まれていましたから、ここでは兄弟姉妹のことです。なお「あなたに対して」が抜けている異読があります。後の21節でペトロが「わたしに対して罪を犯す」と言っていることから、ここにもそれが後から挿入されたのでしょうか?それとも、特定の個人への罪ではなく、より広い意味での「罪」だと解釈するためにこの句が省かれたのでしょうか?どちらとも決めかねます〔新約原典テキスト批評45頁〕。
【忠告する】兄弟の「罪」が何を意味するのかいっさい触れられていませんが、内容的に見て「二人だけ」とあることから、ここでは「弟子たち/エクレシアの兄弟姉妹たち」の間の個人的な関係で生じた「罪悪」を意味するのでしょう。原語の「エレンコー」は「咎める・叱責する/罪を明るみに出して相手に非を認めさせる」ことです。したがって、単なる「注意/忠告」よりも厳しい意味を含みます。もしもこれが個人間の「罪」ではなくエクレシア全体にかかわる場合には、公開の場で「懲戒処分」にすることも視野に入ることになりましょう。しかし相手が自分の非を認めようとしない場合をも想定していますから、この伝承はほんらい公(おおやけ)の懲戒処分までにいたらない「罪」を意図していたのです。
【得た】相手が忠告を聞き入れてくれたなら「あなたの兄弟を<得た/もうけた>」とありますから、ここは前出の一匹の羊の譬えを反映していて、この言い方には忠告を受ける相手への個人的な霊性への配慮がこめられています。
[16]【二人または三人の証人】最初の個人的な忠告が相手に聞き入れられなければ、自分のほかに二人か三人によって忠告を続けるよう勧めています。これは申命記19章15節の「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とあるところから出ていて、マタイの原文の後半も申命記の七十人訳の後半部分とほぼ一致します。七十人訳では「いかなる不義、いかなる咎、いかなる罪でも」とあって「罪」の内容が広い範囲に及んでいます。申命記の規定は法的な裁判の場合を指していて、特に重罪を扱う場合の重要な規定でした(民数記35章30節参照)。マタイ福音書でも一人より二人三人のほうがそれだけ権威を帯びることになります。しかしこの場合でも必ずしも正式な法的な手段を指しているとは考えられません。したがってここは法廷での裁判とそこでの証言を指すものではないでしょう〔フランス『マタイ福音書』693頁〕。新約では、旧約の規定を受け継ぎながらもマタイ福音書のこような方法が広く行なわれていたと考えられます(ヨハネ8章17節/第二コリント13章1節/第一テモテ5章19節/ヘブライ10章28節)。なお、後のユダヤ教の「タルムード」にもこれに似た規定がありますが、その場合は「罪を犯したほうが」二人三人に申し出ることになっています。また、マタイ福音書と似た場合がクムラン文書にあると指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)784頁〕。
[17]【教会に】複数の人たちの説得にも「応じない/耳を貸さない/聞き入れない」場合は「エクレシアに告げる」という意味です。これはエクレシアの全員が参加する集会で報告することですから「罪」がその教会全体にかかわることになります。ただしこれもまた本人の霊的な益のためであって、公式の「懲罰委員会」にかけることでないという解釈があります〔フランス前掲書〕。これに対して、ここでは一つの集会だけでなく、地元の諸集会全体から集まった人たちによる裁定を意味するから、戒告を受け容れない者はエクレシアとの交わりから断たれる「破門」に近い処置を受けるという解釈もあります〔フランシスコ会訳聖書マタイ18章注3〕。ここでの「罪」が信仰の教えに反する「異端」などの場合、このような事態へ発展する恐れがありましょう。「あなたにとって」とあることから判断すると、ほんらいの伝承は忠告を受ける者への霊的な配慮から出た個人的な意味だったのでしょう。しかしそれが、18節とのつながりから教会の指導者による公式の「破門」を意味するようになったと思われます。「並べる」あるいは「組み合わせる」ことが本文にこのような二重の意味を生じさせるのです。
【異邦人か徴税人】原文は「<あなたにとって>異邦人か徴税人(単数)同様の者としなさい」です。「あなたにとって」と二人称単数が来ていますから、エクレシア全体からの除名処分にはあたらないという解釈もできますが〔フランス『マタイ福音書』〕、逆にこの句はその人を「除名処分/破門」にすることを指すという解釈もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)784頁〕。「異邦人か徴税人」(単数)はマタイ5章46~47節でも今回同様に「低レベルの人」の意味で用いられていますが、そこの異邦人は複数です(「徴税人」にも複数形の異読があります)。しかしこのように「罪人や徴税人」を貶(おとし)める態度は、イエスの彼らに対するこれまでの姿勢とは似合いません(マタイ8章10~11節/9章10節など参照)。マタイ福音書が成立した教会は北シリアのアンティオキアであったと思われますから、ユダヤ人キリスト教徒が多数いたと考えられます。アンティオキアの教会も異邦人に対して開かれていましたが、ペトロとパウロが「異邦人との交わり(食事を共にする)」の問題で衝突したのがここの教会でした(ガラテヤ2章11~14節)。だからマタイ福音書の頃でもこれに似た傾向がまだ残っていたのかもしれません。ただし、例えばルカ福音書では「ファリサイ派」はほとんど偽善者の代名詞のように用いられています(ルカ11章39節/16章14節/18章10節)。マタイ福音書でも「律法学者とファリサイ派」が同様に偽善を表わす慣用句に近い意味を帯びています(マタイ23章)。同じように「異邦人と徴税人」も道義的に低いレベルの人たちを指す慣用句として用いられていたのかもしれません。日本語でも昔密漁をしたために「阿漕(あこぎ)な人」が貪欲な人を指すようになりました。これなどは現在の阿漕の人たちに対して失礼な言い方ですが、一般にはそのような意識がなく慣用的に用いられています。
[18]【はっきり言う】原文は「アーメン、わたしはあなたがたに言う」で、これから告げることが特に重要であることを示すと共に、今までとは違う内容が語られることを指示しています。18節は先に16章19節(詳しくはここの注釈を参照)でペトロに与えられた委託と同じ内容を複数の弟子たちに宛てたものですが、ほんらいはこれだけが独立して伝えられていたのでしょう。今回の箇所はこの委託がペトロ個人に限られてはいないことを証しするものです。
【つなぐこと】「つなぐ」と「解く」については16章19節の注釈を参照。ほんらいはユダヤ教のラビの用語で、律法に照らして「正しい」とは認めないことを「結ぶ/縛る」と言い、「正しい」と認める/許容することを「解く」と言います。この段階で問題が教会全体にかかわることになります。ただし原文は「あなたがたが地上でつなぐ<どんなことでも>」とあって、問題にされているのは人物ではなく事柄であることに注意してください。したがって、18節はほんらい人を「断罪する」か「無罪にする」かを裁定することではありません。また、ここで授与されている複数の指導者たちへの権限/権威は、その人(たち)の判断が「神の意志に等しい」ことを無条件で保証するものではありません。
[19]【心を一つにする】原語は「いかなる事柄/問題」でも二人が「調和する/一致する」で、これは「声/音色を一つにする」ことを指す「シンフォニー」(交響曲)の語源です。「あなたがた」とあるのはイエスを信じる弟子たちのことですから、「イエスの心を心とする者二人」のことで、これは先の「二人または三人の証人」とあるのと関連します。イエスを信じる者二人が一致する祈りは、イエスとその父の祈りであることの「証し」であり、それゆえに天の父はこれを成就させてくださるのです(マタイ7章7~8節/17章20節参照)。この意味で19節はマタイ福音書の「インマヌエル」キリスト論の核心です〔ルツ『マタイ福音書』(3)73~74頁〕。この節も「アーメン、私はあなたがたに言う」で始まり、またここでは祈りの内容についての制限がありませんから、19~20節もほんらいは独立した伝承から来ています。しかし、今回の箇所を直前の兄弟の罪の問題と関連させるなら、その兄弟姉妹の罪の悔い改めと赦しを祈り求めると解釈することもできましょう。
2世紀初頭のユダヤ教のラビの言葉に「二人三人が律法について語り合う時、主の御臨在(ヘブライ語「シェキナ」)がそこにある」とあります。これは今回のマタイ福音書からユダヤ教へ入り込んだと見ることもできますが、逆にマタイ福音書の頃には、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも「二人三人の主のみ名にある」集まりについて同様の考え方が存在していた可能性を示唆しています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)790頁〕。
[20]ユダヤ教では10人以上の男性がいなければ「礼拝のための集会」とは認められませんでした。イエスはそれよりもずっと小さな人数の交わりの意義を認めています。20節は「なぜなら」で19節と結ばれていますから、19~20節はひとまとめにして「小さな集い」での祈りの働きと、そこでのイエスの臨在を約束するものです。「イエスの臨在」とあるのでここはイエス復活以後でのエクレシア(教会)の状態を反映していると考えられますが、イエスはすでにその在世中に弟子たちを「二人ずつ」伝道に派遣し、その際に彼らにイエスに与えられた霊的な権能を授けています(マルコ6章7節)。また、自分を通じて働く神の業が、己の死の後もなお継続することを予告しています(マタイ16章21節/同17章9節)。パウロもまた、自分の体はコリントの信者から離れていても「霊においてはイエス共々に彼らと居合わせている」と述べています(第一コリント5章3~5節)。このような信仰はパウロ一人ではなく、当時のクリスチャンに共通すると見るべきで、この信仰は最初期のクリスチャンが在世当時のイエスから受け継いでいると見ることができます。だから19~20節がイエスの復活以後(ポスト・イースター)の言葉だと断定することはできません。「イエスの霊的な臨在」はマタイ福音書1章23節の「インマヌエル」(神は我々と共にいます)につながりますが、このような信仰は旧約時代から受け継がれたものです(エゼキエル書43章5~7節/ヨエル書2章27節/聖霊の臨在預言は同3章1~2節)。大事なのはこのような「イエスの臨在」が組織された公式のエクレシアだけでなく、二人三人の「小さな集い」にも約束されていることです。
■ルカ17章3~4節
ルカ17章の前半には、「つまずき」(1~2節)と「罪への戒めと赦し」(3~4節)と「信仰を増すこと」(5~6節)と「謙虚な僕」(7~10節)の四つの教えが並んでいて、それらを内容的に関連させようとする意図が見受けられます〔ノゥランド『ルカ福音書』〕。今回はその二つ目の「罪への戒めと赦し」にあたりますが、マタイ福音書との並行関係から見て対応するのは3節だけです。しかしルカ3~4節のほうが語録集(Q)ほんらいの順序と内容を保持していて、マタイ福音書のほうは、「忠告」と「赦し」の間にエクレシアの在り方が挿入されていると見ることができます。ただし、両者はそれぞれ異なる版の語録集に基づくというのが最近の見方です。
[3]マタイ福音書に比べてルカ福音書の特徴は「エピティモー/マオー」(たしなめる/いさめる)と「メタノー」(悔い改める)です。どちらもマタイ福音書の並行箇所にはでてきませんが、ルカ福音書ではしばしば用いられます。「エピティモー」はマタイ福音書の「エレンコー」よりも穏やかで、相手の心を深く傷つけないように「たしなめる/戒める」ことです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1140頁〕。ただし、マタイ福音書に比較してルカ福音書では個人的な関係が重視されていて、「たしなめる/戒める」もクリスチャン同士で解決することを意図しているので、必ずしも「穏やかに」説得することを求めるものではないという解釈もあります〔ノゥランド『ルカ福音書』〕。「悔い改める」(マタイ9回/マルコ3回/ルカ13回)は「心から謝る」ことで、これがルカ福音書では「赦し」と深くかかわってきます。「悔い改めと罪の赦し」はルカ福音書を一貫する主題だと言ってもいいでしょう。