128章 赦しと無慈悲
マタイ18章21〜35節/ルカ17章4節
【聖句】
 
 
■マタイ18章
21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまで牢に入れた。
31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 
■ルカ17章
4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
 
                       【注釈】 
【講話】
■赦しの心
 『三国志演義』によれば、中国の後漢の末期、3世紀の魏(ぎ)と呉(ご)と蜀(しょく)の三国時代、諸葛孔明(しょかつこうめい)は、蜀の王、劉備玄徳(りゅうびげんとく)の丞相でした。蜀のはるか南にある雲南の王であった猛獲(もうかく)が反乱を起こしたために、孔明は自ら兵を率いて雲南に遠征し、知恵を用いて猛獲を七度打ち負かして彼を捕らえ、しかも彼を七度釈放して、遂にこの王を心服させたという逸話があります。これを「七擒猛獲」(しちきんもうかく)と言います。この逸話は、赦しの心が深い知恵と結びついていなければならないことを教えてくれます。
 イソップ物語には、旅人のマントを脱がせるために競争した「北風と太陽」の有名な話があります。人は厳しくされればかえって心を固くし、暖かくされると心を開くことのたとえです。イギリスの詩人ポウプの言葉に「過ちは人がすること、赦しは神がすること」"To error is human, forgive divine."というのがあります。古代中国やギリシアの話を持ち出したのは、「赦し」が、古今東西を問わず人の心に訴えて、人の心を変える力を持っていることを例示するためです。旧約聖書では、このような「赦しと慈愛」の心を例えばホセア書6章1〜3節/同11章9節や詩編103篇に見ることができます。だから、今回の「七の七十倍の赦し」もこのような普遍的な真理に根ざすものだと言えます。
■赦しは仏教起源か?
 「赦し」は他の動物には見られない人類の特質だと思われますが、四福音書が伝えるイエス様の「赦し」は、父なる神の慈愛に源(みなもと)を有することがマタイ5章43節以下の御言葉からも分かります。実は福音書のこのような慈愛と赦しには仏教の影響があるのではないか?という説があります。かつてわたしがイギリスに留学していたときに、たまたまロンドンの本屋さんでこの説を唱える本を見つけて驚いた経験があります〔Elmar Gruber & Hoger Kersten. The Original Jesus: The Buddhist Sources of Christianity. Element (1995)〕。これの原書はドイツ語で、同年にミュンヘンで出版されていて、日本語訳があります〔エルマー・グル−バー/ホルガー・ケルステン『イエスは仏教徒だった?』岩坂彰訳/市川裕・小堀馨子監修解説。同朋舎(1999年)〕。
 前3世紀のインドで仏教が盛んな頃、アショーカ王(治世前268〜232年)が、シリアのアンティオコス2世やエジプトのプトレマイオス2世、マケドニアのアンティゴノス・ゴナタス王、ギリシアのコリントスのアレクサンドロスなどに仏教の伝道師を派遣したという記録が残っています〔グルーバー前掲書83頁〕。グルーバーたちの著作には、イエス様の水上歩行は仏教の逸話から出ていること、ヨハネ3章のイエス様の御言葉「新たに生まれる」はほんらい「繰り返し生まれ変わる」という輪廻転生の思想であること、とりわけ福音書の慈愛の教えは仏教から来ていることなどが説かれています。
 ディロン(Dillon)というインド・イラン系の学者も、ヘブライの知恵文学の一つコヘレトの言葉(前3世紀後半?)に表れる「空」の思想に通じるのは、世界の宗教では、仏教以外にありえないとして、この書の作者にアショーカ王による仏教布教の影響を見ようとしました〔George Barton. The Book of Ecclesiastes. T&T. Clark (1912).27〕。当時仏教の影響が、パレスチナにまで及んでいたのはありうることだからです。しかし、ディロンがはたして正しいかどうかは推定の域を出ません。
■赦しはイエス様起源か?
 浄土真宗の祖である親鸞の『嘆異抄』(3)に「善人なをもちて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、『悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや』と。この條(でう)、一旦(いちたん)そのいはれあるにたれども、本願他力の意趣にそむけり」とあります〔日本古典文学大系『親鸞集・日蓮集』(岩波書店)194頁〕。仏典をよく唱えたり、寺院を建立したり、仏や僧侶に供養する立派な人でさえも往生成仏できる。だから、そのような修行も善行も積むことができないために、己の罪業の深さを悟って「悪人」だと自覚する人が往生することを言おうか。言うに及ばない。もちろん往生成仏できるという意味でしょう。仏(ほとけ)の本願とは「悪人」を成仏させることにあるからです。親鸞のこの言葉などは「健康な人に医者は要らない。わたしが来たのは健康な人ではなく、病人のためである」と言われたイエス様の御言葉に通じます。親鸞はこのような赦しと慈愛を「浄土の慈悲」と言い、この慈悲が仏によって凡夫衆生を救うまで徹底されることを「大慈悲心」と呼んでいます〔『嘆異抄』(3)〕。
『嘆異抄』は親鸞の弟子である唯円(ゆいえん)が、師の没後に師の教えを正しく理解しない異説が出てくることを嘆いて、親鸞の大事な言葉を書き留めたものです。彼は老年に常陸(ひたち)の国(今の茨城県)から京都へ来て(1288年)『嘆異抄』を著わしたと思われます〔『親鸞集・日蓮集』22頁〕。『嘆異抄』(3)には、釈尊から善導へ善導から法然へ、法然から親鸞へと称名念仏による本願他力が伝えられたとありますが、善導(613〜681年)は中国の唐の時代に『観無量寿経疏』を著わして称名念仏による浄土教を確立した僧です。けれども浄土教は中国起源ではなく、1世紀頃にインドで盛んになった大乗仏教にその源を有すると見られています〔岩波『仏教辞典』438頁〕。
 ちょうどその頃キリスト教では使徒トマスがインドへ渡りイエスの福音を伝えたという伝承が古くからあります。南西インドのムジリスにキリスト教が伝わっていた証拠が現在も遺っているそうです(250年頃のもの)〔グルーバー前掲書91〜92頁〕。そうだとすれば、今度は逆に、イエス様の赦しの教えがインドに伝わり、大乗仏教の成立に影響を与えたことになりましょう。だとすれば、「称名念仏」はユダヤの原始キリスト教の影響を受けることによって、「救い主(メシア)的な仏」である阿弥陀信仰から発生したことになります〔ケン・ジョセフ/久保有政著『日本・ユダヤ封印の古代史:仏教・景教篇』徳間書房(2000年)206頁〕。
■赦しの知恵
 これらの説はどれも推定あるいは想定/憶説の域を出るものではありません。重要なのは、むしろ、「憐れみ/慈愛」の心が人類に普遍する思想であることと、同時にそれが深い「知恵思想」と結びついていることです。赦しの慈悲には、人の心を変えて悔い改めに導く力、人を神に心から従わせる働きがあります。イエス様が言われる「七の七十倍」は回数の問題ではなくて、神の広大無辺の赦しの慈愛を語っておられます。だからこれは、「あなたの敵を愛しなさい」とほとんど同じ意味です。しかし「赦し」は単なる甘やかしの「憐れみ/同情」ではなく、『三国志演義』に出てくる諸葛孔明の「七擒猛獲」のように、七度刃向かう者を七度打ち負かしてついに相手を心服させる知恵に基づく慈愛です。「慈悲」は仏教用語ですが、この言葉には単なる甘やかしの「憐れみ/不憫(ふびん)」を超えて人の心を<悔い改めさせる>力がこめられているように思われます。
 ただし、ヘブライの知恵思想にはほかの知恵思想に比べると律法との関係が深いことに気がつきます。「律法」と「知恵」、この二つはとりわけ捕囚期以後のイスラエルにおいて初期ユダヤ教を形成する大事な二つの柱ですが、わたしたちは続編のシラ書においてこの二つが融合されているのを見ます(シラ書24章25〜29節)。シラ書には、人類にあまねく広がる知恵が最後にたどり着いたのはイスラエルであり、「知恵」はそこに宿りの場を見いだしたとあります(シラ書24章1〜12節)。だから、イエス様の慈愛の教えもヘブライの伝統的な「知恵」の中から生まれたこと、しかも、それが期せずして仏教の悟りと通じ合うところまで行ったと考えるべきでしょう。人間が、心を尽くして英知を求めるとき、神は、洋の東西を問わず、そのような人たちに「慈愛の光を与える」からです。コヘレトの言葉や知恵の書は、ヘブライの知恵文学が到達した「知恵」(ヘブライ語「ホクマー」/ギリシア語「ソフィア」)の大事な姿です。律法と知恵の結びつきは、パウロ書簡では、「神の義」による「厳しさ」と「憐れみ」の表裏一体の関係となって表わされています(ローマ11章22〜23節)。
 わたしは常々、イエス様の霊性には古代イスラエルからの「知恵の御霊」が宿っていると思っていますから、マタイ福音書の今回の箇所が、「七の七十倍の赦し」と、1万タラントンを全額返済するまで無慈悲な家来を赦さない神の裁きの厳しさとが並列しているのも、イエス様の知恵にかなっていると思います。
■慈悲と悔い改め
 わたしたちにとって、100日分の日給にあたる金額と言えばさしあたり100万円でしょうか。100万円を借りていた友人の首を締め上げて借金を返せと怒鳴っても、それほど悪いことでもなければ、とりわけ非情なことでもないと思います。日常よく見かける出来事ぐらいにしか思わないでしょう。ところが今回の譬えを読むと、その家来の行為がいかにも無慈悲で不法だという憤りを覚えるのは、その家来の同僚だけではありません。なぜでしょうか? それは、その家来がそれまでに1万タラントンという途方もない金額の負債を免除してもらっていたからです。言い換えると、わたしたちがその家来の行為に憤りを覚えるのは、彼がそんなに大きな負債を赦してもらっていることを<知っている>からです。もしもそのことを<知らなかった>ら、この譬えは全体が意味を失うことが分かります。
 神は、イエス様の十字架の血の贖いを通じて、わたしたちの背負いきれないほどの途方もない大きな罪を赦してくださった。このことを悟らない者、自分自身が<そのような赦し>を体験していない者、そういう人にはこの譬えは分からないのです。イエス様の御霊にあって、自分の重荷、自分の罪性の霊的な暗さに気がついて、イエス様の御臨在にあってこれの赦しに与る。こういう体験をした者が初めて今回の譬えの真意が理解できるのです。
 だからナザレのイエス様、それも十字架にかかられてわたしたちの罪の贖いの犠牲となってくださったイエス様に出会って初めて、憐れみとは何か、慈悲とは何かを悟るのです。それも一度や二度ではない。繰り返し繰り返し、七度を七十倍するまで赦されて初めて、「七擒猛獲」(しちきんもうかく)の話のように、自分の罪を「悔い改める」ことができるのです(ルカ17章4節)。「心から人を赦す」(マタイ18章35節)ことのできる人間になれるのです。しかも、そのような神の赦し、神の慈愛がすでに今働いていること、わたしたちは神のこの大慈悲によって生かされていることを今回の譬えは教えてくれます。
 事はエクレシアの「兄弟姉妹」同士のことだけではありません。実は人類全体が悔い改めを迫る神の大慈悲に赦され生かされていること、この驚くべき不思議を霊的に洞察することが大事です。人類がこんなにも罪深く無慈悲で、恐ろしい罪性を宿しながらも何とか生き延びているのは、ひとえに神の憐れみにほかならない。このことを悟ることです。その上で、このような神の慈悲を無視するならば、恐ろしい裁きが待ち受けていることを初めて予感することができます(ローマ2章1〜8節)。エクレシアに古くから伝わる祈り「キュリエ・エレイソン」(主よ、憐れみ給え)「クリストス・エレイソン」(キリストよ、憐れみ給え)がほんとうに意味するのはこの事なのです。
■無慈悲な者
 今回の譬えの解釈で1万タラントンと100デナリとではあまりに差がありすぎるから、マタイ福音書はすこし誇張しすぎると批判する説もあるようです。しかしわたしはそうは思いません。
 今朝の新聞(『朝日新聞』2013年5月8日号)に、現在中国で行なわれている労働教養制度の実体が暴露されています。国のハイウエイ建設のために自分の土地を奪われた劉華さんという女性(49歳)が、その不法を訴えようと北京へ出てくると、彼女はとらえられて遼寧省潘陽市の郊外にある「女子労働<強要>監獄」に入れられました。彼女はそこで、張文娟(チョウブンエン?)という57歳の女性が、「こっそりお湯を飲んだ」というただそれだけの理由で、十数人の役人から殴る蹴るの暴行を受けて、電気ショックの仕置きを受けたことを書き記しています。わずかな落ち度で監獄に入れた上に「こっそりお湯を飲む」という些細な咎で「拷問係」の役人たちから過酷な仕打ちを受けるこのような制度を作り出したのは誰なのか? それはなんのためなのか?高級車を乗り回し、贅沢な暮らしをしながら、多額のお金を得ている上層の役人や官僚たちは、自分がどんなに大きな罪を犯しているのか、全く自覚していないのです。
 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)は、若くして権力者になり、自分は贅沢な生活を楽しみながら国民を苦しめています。富と権力と栄誉を与えられ、自分がどんなに恐ろしい罪を犯しているのかも悟らないのです。権力も権威も神がお認めにならなければ与えられないと聖書にありますから、中国の監獄制度の上に権力を振るう者たちや金正恩たちが、神の忍耐によって見逃されている罪の重さは1万タラントンどころではないはずです。その彼らが、罪のない人々をわずかな過失やちょっとした失言のために過酷な労働や拷問が加えられる監獄へ容赦なく入れています。1万タラントンと100デナリどころではない。10万タラントンと10デナリほども差があるのに、自分は10万タラントン分の罪業を神に見過ごしにされていながら、わずか10デナリほどの過失を咎めて人を拷問にかける「今笑う特権階級や富裕層」〔『朝日新聞』2013年5月9日「天声人語」〕が現在もこのアジアにいるのです。もっとも、彼らは神からの罪(負債)を認めてこれの免除を願い出た者たちではありませんから、厳密には、今回の無慈悲な家来にあてはまらないかもしれません。しかし、彼らも、いわゆるキリスト教国の傲慢不遜な独裁者たちも、今は同様に神の忍耐と寛容の下にありますが、やがて裁きを受けることに変わりありません。この辺のところはローマ人への手紙を参照してください(1章18節/同31節/2章3〜5節/同11〜12節/3章23〜26節)。
 イエス様もマタイ福音書の作者も、現実に行なわれているこの世の出来事をつぶさに体験して見ています。その上で語る譬えですから、イエス様の譬えは少しも誇張だと思いません。神はこのような無慈悲な為政者どもを必ず厳しく罰せずにはおかないでしょう。『第一エノク書』が「禍(わざわい)だ!」を繰り返しているのはこういう者たちに対してです。彼らは必ず神から「無慈悲な」扱いを受けるでしょう。
■福音書の小さな交わり
 わたしたちは、マルコ9章やマタイ18章に沿って、「だれが偉いか」「誘惑と躓き」「子供を受け入れる」「迷い出た羊」「兄弟への忠告」「小さな交わり」「赦しと無慈悲」などについて学んできました。これらはすべてキリスト教徒の間での交わりの在り方を教えるものですから、マタイ福音書18章はエクレシア(教会)内部の規律を保つための指針だと解釈されているようです。この「教会規律の指針」はマタイ10章の十二使徒の選びに始まる一連の「宣教への指針」と対(つい)にされています。これら二つの章は、エクレシアが外に向いてどのように福音を伝えるべきか、内に向いてどのように相互の一致と平和を保つべきか、エクレシアの内と外の二面性を導く大事な指針とされてきました。
 このように言うと、これら一連のエクレシアの有り様は、もはやナザレのイエス様のことではなく、「古カトリシズム」時代の組織化された教会制度の頃のエクレシアに向けて書かれたものだと受け取られるかもしれません。しかしこの見方は誤りです。なぜなら、「一匹の羊」や「二人三人の祈り」に見るように、これらの教えは明らかに「小さな交わり」の中でこそ意味を持つからです。だからこれらの教えは、イエス様在世当時の弟子たちの交わりにさかのぼる教えを受け継いでいます。イエス様による交わりへの指導は、イエス様の時代のエッセネ派の交わりから来ているのではないかと言われるのはこのためです〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)805頁〕。
 ただし、ルカ福音書がイエス様語録に基づく古い伝承を受け継いでいるのに対して、マタイ福音書のほうは明らかにマタイの時代のエクレシアの有り様を反映しています(この点ではマルコ福音書も同じ)。したがって、より正確に言えば、今までの一連の教えは、これから本格的な組織化へ向かおうとする1世紀末(70〜90年代)のイエス・キリストのエクレシアが、その正しい有り様と問うために、改めて伝えられてきたイエス様の頃の交わりの在り方を思い返して、これを指針として自分たちのこれからの生き方を求めていると見ていいでしょう。だからここには、小さな交わりを起点としながら、より大きな交わりへと発展しようとする当時のエクレシアの在り方を導く指針が語られているのです。
■セクトの特徴
 マタイ18章のエクレシアは「他のすべての新約聖書の教会や、例えばエッセネ派と共に、まずさしあたりは<セクト>と呼ぶべき」〔ルツ『マタイ福音書』(3)110〜11頁〕小さな交わりです。ドイツやスカンディナビアの国教会制度、イギリスの聖公会などは言うまでなく、アメリカの伝統的なプロテスタントの諸教会制度も、それぞれの聖書解釈に基づく「聖礼典」と、それぞれの聖書解釈に基づく「神の言葉」の教義化によって制度内での一致を保持してきました。しかし、これらの諸教団でも近年様々な形でセクトを分派させる傾向、すなわち「セクト化する」傾向が生じて来ました。日本のようにキリスト教自体が少数派の場合、教団のセクト化の傾向はいっそう顕著で、日本のキリスト教会は総セクト化していると言えるほどです。「セクト」という言葉には悪いイメージがつきまといます。「セクト」の特徴をあげると以下のようになりましょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)110頁〕。
(1)小さくて全体を見渡せる規模の交わりである。
(2)自分たちの信仰を排他的に主張する。
(3)所属は自由意志に基づくが、自発的に辞めたり、逆に辞めさせる傾向が強い。
(4)倫理的に厳しく、この意味でエリート主義である。
(5)メンバーには全面的な参加が要請される。
(6)社会の上層部や教会制度と対立する傾向が強い。
(7)セクトがある程度拡大すると「教派」になる。
 これらの特徴からは、「セクト」が真理を追究する上で正しい側面を具えていると同時に、その欠点や限界も見えてきます。このために「セクト」はキリスト教界から「排他主義」とか「分裂主義の異端」とか「熱狂主義」などというレッテルを貼られることになります。
■小さな交わりと霊的エクレシア
では、どのようにすれば、セクトの欠陥を克服することができるのでしょうか? ここで初めて、今回扱ってきた「憐れみ/慈悲」が改めて重要な意味を持つことになります。欧米の教会でも、近年、小さな共同体の「兄弟愛的な交わり」が重視されるようになってきました。特にドイツでは、ナチスの政権下で殉教したボンヘッファーの影響もあって、制度化した「教会」を霊的なエクレシア共同体としてとらえ直そうとする試みが行なわれています〔ルツ前掲書107頁〕。
 この試みにおいて、マタイ18章が新たに注目されるようになりました。なぜならそこには、セクトが陥りがちな欠陥を克服しながら、新たな組織へと発展しようとする1世紀後半の「小さな交わり」の姿が描かれているからです。「赦し」には自分を繰り返し他者へと向かわせる力があるからです。イエス様の教えは<外に開かれている>小さな交わりの有り様を教えてくれます。小さいからこそ祈り祈り合うことができるのです。いくつもの小さい交わりが互いに祈り合うときに、そこに大きな霊的な交わりが形成されます。目に見える範囲だけでなく、見えない霊的な交わりが、お互いの祈りにあって成立し現実に働く力となることを悟るようになります。これこそエフェソ1章が描き出す「キリストを頭とする霊の交わり」としてのエクレシアの姿です〔ルツ前掲書111頁〕。「小さな交わり」と「祈り合い」と「赦し合う心」この三つです。このような無数の小さな霊灯が国中に点在し広まること、これがわたしの想い描く日本のリヴァイヴァルの姿です。
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