【注釈】
■マタイ18章21~35節
 今回の「ペトロの質問」と「無慈悲な家来の譬え」は、「赦すこと」と「赦さないこと」ですから、ほんらい別個の伝承で『四福音書対観表』(162頁)では別の項目になっています(こことイエス様語録との関係はルカ17章4節の注釈を参照)。しかしマタイ福音書では「慈悲」と「無慈悲」が並んでいますので、これを「赦しと無慈悲」として同時に扱うことにします。
18章1節では弟子たちが「偉い人」について尋ねました。21節ではペトロが「赦し」について尋ねます。今回の21~22節はルカ17章4節に並行があります。けれども「七回赦す」ことを口にするのはマタイ福音書ではペトロですが、ルカ福音書ではイエスのほうです。しかもルカ福音書では罪を犯した者が「悔い改めて」いますから、共通する伝承から出ているとは思われません。「悔い改め」を強調するのはルカの編集によるものですが、ルカ福音書のほうがイエス様語録に近いので、マタイ福音書は原伝承を敷衍(ふえん)していると考えられます。
 なお今回の箇所は18章15~17節の忠告と内容的にどのように関係するのかが問題にされています。忠告することは、相手が非を認める認めないにかかわらず「赦し」と深くかかわってきます。だからルカ福音書は「戒め」と「悔い改め」を「赦し」とひとつに結びつけています(ルカ17章3~4節)。「無慈悲な家来」の話はマタイ福音書だけの独自資料からですが、内容的にこれと類似した譬えがルカ7章41~43節にあります。しかしルカ福音書では場の状況が全く異なりますから伝承として共通しているとは言えません。
 イエスが語った譬えは、神の慈悲と赦しを強調しているように思われますが、同時に家来の譬えと組み合わされると、神の裁きと罰の厳しさが含まれてくることも見落とすことができません(ローマ11章22節)。今回のペトロの問いと続く「負債」の譬えは、主の祈りに出てくる「わたしたちの負債」(6章12節)を思い起こさせます。わたしたち全員は、主人から「負債」(ルカ福音書では「罪」)を赦された「奴隷仲間」(28~33節に5回繰り返されています)なのです。
■注釈
[21]~[22]今回も「わたしに対して」とありますから、個人的な関係での「罪」を念頭に置いているのでしょう。
【七回まで】ユダヤ教のラビの言葉に「同胞の罪を3度までは赦せ」とありますから、ペトロの言う「7回」はペトロニしてみれば「最大限の」譲歩のつもりだったのでしょう。「7」は数秘的に完全を表わすという解釈もありますが、カイン(の罪)に対して「彼を殺す者はだれでも七倍の復讐を受ける」(創世記4章15節)とありますから、この「復讐」と「赦し」をここで対照させていると思われます〔フランス『マタイ福音書』700頁〕。
【七の七十倍】辞義通りに訳すと「7の70倍(=490回)」になります〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。けれども創世記4章24節の「カインのための復讐に七倍、レメクのため(の復讐)に七十七倍」〔新共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕では、「77」(シヴーム・ヴェシバー)が七十人訳では今回の22節のギリシア語「ヘブドメーコンタキス・ヘプタ」と全く同じ訳です。これは「7の70倍」が慣用的には「77倍」の意味に用いられていたからだと考えられます〔フランス『マタイ福音書』701頁〕。したがって、創世記の記事を念頭に置くのであれば、今回も「七十七倍」の意味にとるほうが適切なのでしょう。
【あなたに言う】直訳すれば「わたしはあなたに言う」で、これがマタイ5章22節以下で繰り返される「わたしはあなたがたに言う」と同じ意味だとすれば、今回も従来の常識を覆すイエスの大胆な発想を読み取ることができます。ペトロが最大限に譲歩したつもりで質問したのに対してイエスは、今までの通説を覆す発言をしているのです。「七の七十倍」が「77回」か「490回」かは、イエスの答えでは同じことで、当時のユダヤ教の「学者やファリサイ派」の解釈から飛び抜けて、ほとんど無限の赦しを告げているからです。だから今回の箇所にはマタイ5章43~48節に通じるところがあります。
[23]~[24]【ある王】直訳すれば「わたしは天の王国を人間の王国にたとえよう」です。「人間の王国」は「王である人間に/人間の王に(たとえる)」とも訳すことができます(マタイ22章2節参照)。だから以下では、「天の王」を「地上の王」にたとえて、「人間の王」でさえも「奴隷」(直訳)に対して慈悲と無慈悲を使い分けることを知っていることを言おうとしているのです。
【家来】原語は「奴隷」とも「僕/家来」とも解釈できます。次の項目で分かるように任された金額が厖大なために、ここでは「奴隷」ではなく王の「家来」のことであり、それもある特定地域の税収全体を管理できるほどの身分の者ではないかと推定されます。王家の「奴隷」でも有能な者にはそれ相当の地位と責任が任されていましたから「奴隷」と理解しても不都合ではないという説もありますが〔フランス『マタイ福音書』705頁(注)21〕、マタイ福音書では天国の譬えが「王」と結びつくことが多いので、今回の箇所も「王の家臣」のことだと理解するほうが適切でしょう。
【1万タラントン】「タラントン」はほんらいギリシアの重さの単位でほぼ30キロの金属を指します。したがって「タラントン」は貨幣の単位ではありません。しかし、タラントンが金額を表わす場合はおそらく銀貨(銀の重さ)で、1タラントンはローマの銀貨で6千デナリ分ほどに相当します。1デナリが通常の労働者の一日分の賃金だとすれば、6千デナリは一人の労働者のほとんど15年分以上の賃金[NRSV註]にあたります。したがって、1万タラントンは1万人の労働者の15年分以上の賃金に相当することになります。パレスチナの「ユダヤ地区」はローマの直属とされる以前はアルケラオスの領土でしたが、その領土全体の年の税収が「600タラントンに達した」〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』17巻11章320節〕とありますから、1万タラントンがどんなに厖大かが分かります。このように金額があまりに大きいのでこの譬えは非現実的だという批判もありますが(マタイは25章14節以下でもタラントンの譬えを用いていますが、ルカ福音書19章11節以下ではこれが「ムナ」です)、神の赦しがどんなに大きいかを譬えるための比喩ですから現実性にこだわる必要はないでしょう。
[24]【借金している家来】原文は「1万タラントンの一人の負債者」。「罪」を神への「負債」として、「罪人」を「負債者」と見なすのはユダヤ的な慣用です。マタイ福音書6章12節で主の祈りが「わたしたちの<負債>を赦してください」とあるのも今回と同じです。ルカ福音書11章4節では「わたしたちの<罪>を赦してください」です。
[25]【売る】原文は「その者が売り払われるように言った」です。「返済する/返す」は今回の譬えにしばしばでてくる鍵語です。負債が返済できない場合に、本人も妻子も奴隷として売り払われるのはヘレニズム時代では珍しいことではありませんでした。後述するようにユダヤではこの制度に制限が加えられていましたが、それでもパレスチナでもこの制度が古くから行なわれていて、わずか「靴一足分の負債」が払えないために身を売らなければならない例がホセア書(2章6節)にでています(イザヤ書50章1節/列王記下4章1節も参照)。ただし、たとえ自分と家族を奴隷に売っても、それほどの金額を返済できません。主君のこの命令は「正当な怒り」を表わすものだと解釈されます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)799頁〕。
[26]【ひれ伏し】「ひれ伏して~懇願する」〔現在形〕は「ひれ伏して礼拝する」の意味をも含みますから、ここで相手は神であることが示唆されているのでしょう。「待ってください」は主人の忍耐を求めるものです。知恵の書15章1節に「わたしたちの神は慈しみ深く、真実で、忍耐強く、憐れみをもってすべてを計られる」〔フランシスコ会訳聖書〕とあります(ローマ2章4節参照)。「お返しします」とありますが、そんなことが実際できるかどうか疑問です。
[27]【憐れに思う】原語は「内蔵が揺り動かされる」ことです。日本語で「腸が煮えくりかえる」は激しい怒りを意味しますが、ヘブライ語では慈悲/憐れみに深く揺り動かされることです(マタイ9章36節/14章14節など)。
【借金】ギリシア語で「借金(ローン)」のことです。だから「返済を猶予する」とは返済を先延ばししてやることを意味します。しかし、アラム語のほんらいの意味は「負債」のことで、ここでは「負債を帳消しに」してやることだと理解されています。ただしあまりに金額が大きいので、原話ではもっと少額(例えば1千デナリ)の負債を支払い免除にしたやることではなかったかという推定さえあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)800頁〕。
[28]【仲間】原語は「奴隷仲間」とも訳すことができますが、ここでは家来の家臣仲間のことです。
【百デナリ】「デナリウス」はローマの銀貨1デナリで、これはギリシア銀貨1ドラクマに相当し、労働者1日分の賃金にあたります。先の多額な借金に対してこちらは現実的な額です。先の1万タラントンは百デナリの60万倍です。神による「罪の赦し」がどれほど大きいかを示すと同時に、赦された者が自分に見合う「現実(の借金)」の仲間を赦さないその矛盾をついています。「借金を返せ」は<全額を>すぐ返すことです。
[29]~[30]26節では「ひれ伏して懇願した」ですが、29節では「ひれ伏して頼んだ」です。主君と家臣の間ではなく家臣仲間だからでしょう。この仲間の借金は返済可能ですから、「帳消し」ではなく返済の猶予を頼んだのです。「承知せず」とは頼みを拒絶することです。
【借金を返すまで】ユダヤの律法では、ユダヤ人を異邦人に売ること、妻を売ること、息子を売ることなどは制限されるか禁じられていました。それよりも、債務者の親族が債務を肩代わりするよう仕向けるために「債務拘留/監禁」が行なわれることが多く、また親族に債務返還を要請するため手段として当人に「拷問」が加えられることもありました〔ルツ『マタイ福音書』(3)93頁〕。負債を返済できない者が監獄に入れられる拘留制度は19世紀のイギリスでも行なわれていて、著名な小説家チャールズ・ディケンズ(1812~70年)は、まだ12歳の頃、父が借財を返済できないために負債者専用の監獄へ家族ごと入れられて、彼はそこから靴墨工場へ通わなければなりませんでした。
[31]~[33]【事の次第】一連の出来事を明るみに出すために主君に告げたのです。
【非常に心を痛め】「はなはだしい心痛」のことですから、憤りに近いでしょう。
【不届きな家来】原文は「悪い/邪悪な家来」です。
【わたしが憐れんだように】ここでの神は憐れみを乞い求めるお方であると同時に見習うべき方でもあることが示されます(マタイ5章45~48節)。「あなたがしてほしいように人にもせよ」(マタイ7章12節)という黄金律を想い出させます。福音は賜物でもあり、命令にもなるのです。
[34]【牢役人】原語は「拷問係」〔フランシスコ会訳聖書〕で、牢役人でも特に拷問を行なう者のことです(この用語はここだけ)。おそらくこの係はユダヤ人ではない異邦人の役目でしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)802頁〕。律法によればイスラエルの民が同胞に借財のために身売りする場合は過酷な扱いをしてはならないからです(レビ記25章39~41節/同46節後半)。ただしイドマヤ出身のヘロデ大王はユダヤ人にも拷問を加えたようですが。だからこの無慈悲な家来は前よりもいっそう悪い状態に置かれたことになります。
【返済するまで】イスラエルの民が借財のために身売りした場合には、その人の親族が彼を「買い戻す」ことができると定められていますから(レビ記25章47節以下)、たとえ身売りされた相手がユダヤに住む異邦人であったとしても、親族はその異邦人の主人からその人を買い戻すことができます。言い換えると、イスラエルの一人が借金のために身売りさせられても自分が「買い戻される権利」を保留していることになります。ところがこの悪い家来の場合は、借財があまりに厖大なために、そのような買い戻しは事実上不可能です。彼は生涯、過酷な罰を受けなければなりません。主君の「怒り」、借財を「完全に返済するまで」など、ここには終末での神の怒りと裁きと罰が示唆されています。
[35]この節は譬えの意図を明確にするための編集です。「同じように<するであろう>」と未来形なのは終末での裁きを指しています(マタイ5章25節/ルカ12章57~59節/特にヤコブ2章13節を参照)。
【心から赦す】これは律法で禁じられている「(同胞を)心から憎む」(レビ記19章17節)ことと対比されているのでしょう。
■ルカ17章4節
[4]ルカ福音書のこの節はそのままイエス様語録からです。問題はマタイ18章21節前半の「ペトロがイエスのところへ来て言った」がイエス様語録に入るかどうかですが、これは省かれています〔ヘルメネイアQ490頁〕。なお、マタイ福音書のペトロの質問を直訳すれば「わたしの兄弟が<何回(まで)>わたしに対して罪を犯すなら、彼を赦すべきでしょうか?」ですから、これはルカ福音書の「七回あなたに対して罪を犯す」に対応します。しかしここは「何回まで」ではなく「七回まで」のほうが、続く「七回悔い改める」ことと対応しますからルカ福音書のほうがほんらいの形でしょう。マタイ福音書のほうは、マタイ版の?イエス様語録に基づいて、これを編集したものです。
 今回の4節は3節と密接に結びついています。ルカ福音書では、放蕩息子の譬え話にあるように、人間が罪を悔い改めることで父なる神の赦しが与えられるという「悔い改めと赦し」の構図が主ですが、今回は珍しく?同じ主イエスにある者同士の罪と悔い改めと赦しが扱われています。とは言え、これもまた父なく神の赦しがあって初めて可能なのは言うまでもありません。だから今回も「七度悔い改める」ことが「七度赦す」こととリンクされることになります。
 異本に「<一日に>七回『悔い改めます』と言えば」とありますが、これは「一日に七回罪を犯す」に合わせた後からの挿入でしょう。「7」は回数ではなく完全を表わす数秘的な意味を帯びています。
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