129章 エルサレムへ向かう
ルカ9章51〜56節
【聖句】
■ルカ9章
51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼ら
を焼き滅ぼしましょうか」と言った。
55イエスは振り向いて二人を戒められた。
56そして、一行は別の村に行った。
 
                       【注釈】 
【講話】
■エリヤとイエス様
 今回の箇所には、イエス様とエリヤとの関係が反映していると言われています。エリヤは終末の裁きの火をもたらす預言者として再臨すると信じられていました。終末の裁きを預言する点では、洗礼者ヨハネも同じで、彼もイエス様と比較対照されています。これに対してイエス様は、病気癒やしと悪霊追放を伴う罪の赦しをもたらす愛のメシアであるというのがキリスト教会での一般的な受け止め方です。
 けれども、エルサレムへの旅と今回のサマリアでの出来事を見ますと、必ずしもそれほど単純に割り切ることができません。イエス様は、「顔を硬くして」エルサレムへ向かわれたとあります。これは穏やかな愛を表わすのではなく、敵に向かってまっすぐ突き進む「顔つき」です。第二イザヤ書に出てくる受難の主の僕も、自分を迫害する敵にその顔を向けて、敵から受ける恥をものともせず、「わたしの顔を火打ち石/硬い石のようにした」とあります(イザヤ書50章7節)〔フランシスコ会訳聖書〕。敵に打たれても、火打ち石のように火花を散らして自分の顔を硬くしたのです。エルサレムへ向かうイエス様のお姿を見ると、イザヤ書で預言されていたこのような受難の主の僕像を読み取ることができます。ですからこれは、単に穏やかで優しいだけではありません。
 ところが、イエス様は、受け入れを拒否したサマリアの人たちに対して「火で焼き殺す」ような仕打ちをしてはならないとヤコブとヨハネを厳しく戒めておられます。イエス様のこの御言葉の後に、「イエス様が来られたのは人を滅ぼすためではなく、人を救うためである」と追加された聖書の異読がありますが、これはイエス様の御言葉を正しく洞察した解釈でしょう。
■御霊の法
 新約聖書のイエス様の御霊のお働きは、ただ穏やかで優しいだけではないようです。そこには厳しさが潜んでいるのは、パウロが「イエス・キリストにある命の御霊のノモス(律法)」(ローマ8章2節)と呼んだところからも推察することができます。健康の法則は、これを守れば幸いをもたらしますが、これを破れば必ず禍(わざわい)をもたらします。しかし、健康の法則がもたらす禍は、ちょっと破っただけでは、すぐにその結果が出てくるわけではありません。
 「御霊のノモス(法則/律法)」もこれと同じです。「命の御霊のノモス(律法)」とありますが、これは裁き断罪する法律の働きではなく、何かを「創り出す」創造のノモスのことです。創造は何らかの破壊あるいは批判を伴うものです。今回の場合でも、イエス様が顔をエルサレムへ向けておられたことが、サマリアの人たちから批判を招きました。けれども、イエス様がエルサレムへ向かわれるその理由は、彼らに全く隠されています。エルサレムでの御受難と御復活の結果、イエス様の御霊がイエス様を信じる人たちに降ることになります。だから、エルサレムでの御受難は、イエス様の肉体とその血を彼らサマリアの人たちのためにも捧げて、その罪を赦してくださるという大きな恵みをもたらすことになります(使徒言行録8章4〜8節)。だから、イエス様のエルサレムへの旅は、御霊にある罪の赦しの新たな時代を創り出すための旅だったのです。
 しかしこれが、サマリアの人たちからは理解されませんでした。こういう創造の働きは、その根源を神のお働きに起源します。創造は神から出る働きです。創造は古いものを批判したり非難したりしません。その代わり、全く新たに創り出すのです。新たなものが生まれること、これがそのまま、古いものへの批判につながります。新たなものに照らされると、古いものは自然に廃れて滅びます。昔は東京から京都まで特急で9時間かかりましたが、「新幹線」ができてから、一挙に3時間になりました。それでも旧東海道線はローカル線としてまだ遺っています。古くなったものは次第にその役目を終えていくのです。現在リニア・モーターの列車ができつつありますから、これが完成すれば、新幹線も古くなるでしょう。新しい創造は、古いものへの無言の批判になるのです。ただし、ほんとうにいいものは、古くならない。どこまでも生き延びるから不思議です。
 わたしたちは、御霊のお働きに接して、裁かれ、断罪され、批判されるのではありません。「命の御霊」は、わたしに働きかけて、わたしたちにイエス様を通じて<新たな自分>を啓示してくださいます。この啓示こそが、わたしたちをして、あえて「自我を棄てて」イエス様に向かわせてくれる力を与えてくれるものです。「自我を棄てる」ことは、御霊にあって自分の罪が赦されることであり、これによって初めて自我から抜け出す道が開けます。御霊はわたしたちの内に<新しい自分>を創造してくださいます。創造はそれ自体で、「古い自我」(ローマ6章6節)への何らかの批判を含みます。しかし、わたしたちは、御霊にあって自己否定を求められたりはしません。罪の自我の克服は、御霊の創造の導きによって初めてかなうのです。創造の御霊こそ、自己否定や自己嫌悪や自己反省によらなくても、古い自我からわたしたちを脱却させてくれものです。命の御霊は、否定する霊ではなく肯定的に働くからです。だから、たとえ風当たりが強くても、エルサレムへ向かわれたイエス様のように、わたしたちも自分が求めているものに向かってまっすぐ進むことができます。「顔を硬くして」進むのです。こうすることによって、あなたも、自分の歩みを創造の歩みとすることができ、しかもその歩みは、神の導きにあって必ず成就します(フィリピ2章13〜16節/同3章12〜14節)。
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