132章 72人の派遣
イエス様語録/ルカ10章1〜12節
【聖句】
■イエス様語録
【弟子たちの派遣】
 彼(イエス)は(弟子たちに)言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。見よ、わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れの中に羊を送り込むようだ。財布も袋も履き物も杖も持つな。途中でだれにも挨拶するな。どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの平和が彼にも来る。もしいないなら、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に留まり、出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へ渡り歩くな。町に入って、(そこが)あなたがたを迎え入れたら、出される物を食べなさい。そこにいる病人を癒し、『神の国はあなたがたに近づいた』と告げなさい。しかし町に入っても、あなたがたを迎え入れなければ、その町から出る際に、あなたがたの足の埃を払い落としなさい。言っておくが、かの日には、その町よりもまだソドムのほうが耐えやすい。」
                      〔ヘルメネイアQ160〜80頁〕
【ガリラヤの町々を叱る】
 コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた力ある業がティルスやシドンで行われていれば、 これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことだろう。しかし、裁きに際しては、お前たちよりまだティルスやシドンの方が堪えやすい。また、カファルナウムよ、お前は、天にまで上げられるとでも思うのか。 陰府にまで落とされるだろう。〔ヘルメネイアQ182〜86頁〕
■ルカ10章
1その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
3行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
4財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
5どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
6平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
7その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
8どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
9その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
11『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。
12言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
 
                        【注釈】
【講話】
■72人派遣の描き方
 今回は72人の宣教への派遣です。この記事はルカ福音書だけにあります。このために、この記事は、イエス様御復活以後の教会の伝道をここに採り入れたルカの創出ではないかという説もあります。しかし、それなら、なぜわざわざこのような創出をしてまで、ここに72人の派遣を入れなければならないのか? という疑問が湧きます。「72」は世界の民の数を象徴するから、ルカはここで教会による世界宣教を予告しているという見方があります。しかし、世界宣教なら、ここに入れなくても使徒言行録で十分語ることができるはずです。
 今回の記事はイエス様語録から採録しています。ここには、ルカ福音書の十二弟子派遣の記事には含まれていない「履き物」までが、携帯を禁じられています。「途中で誰にも挨拶するな」とあるのもここだけです。「小羊を狼の中に送り込む」という言い方も今回だけです。だから、今回は、十二弟子派遣の場合よりも伝道の有り様が厳しいものになっています。そもそもイエス様は、十二弟子派遣以外にも、弟子たちを伝道に派遣することが<なかった>のでしょうか? こういう疑問が出てきます。イエス様が、「イスラエルの町々村々に神の国を伝える」ために、十二弟子以外にも人を派遣したことは十分ありえるという説のほうがわたしには説得力があります。ただしルカは、イエス様に続く使徒言行録の時代をも念頭に置いて福音書を書いていますから、生前のイエス様の御業を語る際にも、御復活以後のエクレシアによるイエス様の御霊のお働きを予想させる描き方になっています。
 わたしたちは、今回の派遣がエルサレムへ向かう途上で行なわれていることに注目しなければなりません。先に指摘したように、イエス様は、ご自分の受難を予告された後で、まっすぐエルサレムへ顔を向けて進んで行きます。このことは、イエス様が、イザヤ書で預言されている受難の僕伝承を受けて歩まれていることを示すものでしょう。
 したがって、先のガリラヤ伝道とは異なり、今回の伝道派遣には、イエス様の受難予告が陰を落としていると見ることができます。この点を考えあわせると、なぜ今回の派遣のほうが、先の十二弟子派遣よりも伝道の方法と内容が厳しいものになっているのか?その謎が解けるように思います。イエス様の受難こそ、躓きのもとであり、伝道の厳しさのほんとうの原因だからです。御子イエスの天からの降下と、地上におけるイエス様の御受難と御復活、この道筋こそ躓きのもとであり、伝道派遣の難しいところなのです。
 先の十二弟子の場合もそうでしたが、イエス様の伝道方式は、徹頭徹尾ただ神の導きだけにお委ねするというものです。十二弟子のガリラヤ伝道のようなやり方は、伝道を支援する当時のエッセネ派のようなネットワークが存在して初めて可能だという指摘があります。そうかもしれません。しかし、ルカ福音書は、こういうイエス様の伝道方法こそ、以後のエクレシアが見習わなければならない理想の姿であること、このことを今回も伝えたいのです。ルカ福音書の作者は、イエス様が行なわれた実際の業をヘレニズム世界に適合させるために編集し直しているという見方もありますが、この見方はルカ福音書の大事な側面を見落としています。ルカ福音書は、マタイ福音書やマルコ福音書以上にイエス様語録などの資料に忠実だからです。これはルカが、イエス様の在世当時の実際の業こそ、以後のエクレシアが見習うべき大事な見本であることを意識していたからでしょう。したがって、今回の72人の伝道には以下の二つの特徴があります。
■72人派遣の特徴
(1)受難への道
 一つはこの派遣記事には、イエス様の受難予告が反映していることです。サマリアでの一件もそうですが、今回は、人々が、伝えられた御国の福音に躓くことが一つの前提になっているという印象を受けます。それにもかかわらず、宣教の業は、神の導きと御加護によって、悪霊に打ち勝つ力を発揮します。しかし、悪霊に克つそのような力は、イエス様の御言葉とその霊威が、遣わされた人たちにも分与されていているからこそ可能なのでしょう。
 ルカはこのように、今回の伝道活動に、イエス様の御国に対する人々の躓きと、それにもかかわらず、神の導きにあるイエス様の霊威によって伝道が成功するという、「躓き」と「勝利」の不思議な二重性を見ています。「躓き」は彼らが伝える神の国の体現者である「人間イエス」の存在そのものにあります。このイエス様こそ、メシア(救い主)であるというメッセージは、多くの人に不可解であり、知者には愚か、信心深い者には躓きになります。だから躓きは、受難のメシアそれ自体のうちにすでに宿っているのです。これが、ルカ福音書の描く72人の派遣記事の大事な一面です。肉体を具えたひとりの人間が、神の国を伝える預言者であるだけでなく、その御国の王であり、そのような御国を地上にもたらすメシア(キリスト/救い主)であること、このようなことを人々に伝え、証しし、教える仕事には、当然批判や反発や妨害が予想されます。その厳しさは、旅の終わりの十字架の受難を予告しているのでしょう。
(2)神に委ねる
 当たり前のことですが、神の国を伝える人は神の国を知っていなければなりません。それだけでなく、自分たちが伝える神の国の中に自分も生き、そこで生活していなければなりません。真理を伝える一番確かな方法は、伝える者がその真理に<なる>ことだと言ったのは、確かキェルケゴールというデンマークの哲学者だったと思います。
 今回の派遣記事でも、道行きの途上で人と長話をしないことに始まって、道中、泥棒や強盗から身を守る術も(杖の携帯)、泊まる場所も、食べる物も、伝道の成果も、いっさいがイエス様の父なる神と、イエス様から授与された霊的な権能に任(まか)されています。現代のわたしたちが、とうてい真似できることではありませんが、少なくともその精神だけは見習いたいと思います。ここで霊能の業とその意義が問題になるのですが、これは次回の「帰還」の記事でお話しします。
 わたしたちは現在、人知を駆使した巧妙な宣伝活動の渦の中で暮らしています。こういう世界にいると、人知と人力に頼らないで、いっさいを<神様任せ>にする伝道方式は、時代遅れで不可解だと思われるのは避けられないでしょう。人為による効率を第一と考えるのなら、こういうやり方は、イエス様に香油を注いだ女を咎めたユダが言うように、「なんのためにせっかくの貴重な賜物(香油こと)を無益で無駄なことに使うのか」と非難されるでしょう。
 しかし、こういう神任せの信頼こそ、神からの霊能のほんらいの起源であり、霊能が正しく働く唯一の場であるとすれば、わたしたちはいったいどうしたらいいのでしょう。宣教の規模拡大と、伝道の効率と成果の向上を重視するなら、伝道のビジネス化は避けられないでしょう。ルカ福音書の描くような<神任せ>の方法は、組織化された教会制度に背を向けて、一人砂漠で修道に入った修行者たちや、知識も富も棄てて、ひたすら祈りに沈潜したギリシアのオシオス・ルカスや、イタリアのアッシジのフランチェスコのような人がするのにふさわしいと言えるのかもしれません。
 コイノニア会の交わりは、まるで大学の実験室の試験管の中で起こっているような小さな小さな出来事です。でもね、真理ほど強いものはないのだから、たとえ数は少なくとも、ほんものの「働き手」をイエス様は求めておられます。イエス様のみ手に自分を委ねきったほんもののイエス様の人たち、これさえいれば、五千人のパンの奇跡のように、この人たちがイエス様のみ手の中で七つのパンとなり二匹の魚となって、7人が70人になり、70人が700人に、700人が7000人に、さらに7万人、70万、700万、七千万になるでしょう。真の伝道は人の業ではない。神が行なわれる御業です。大事なのは、ほんものの出会いであり、交わりです。だから、こう祈りましょう。「主よ、どうか、日・中・韓のエクレシアの民の心を一つにしてください。そしてアジアの平和をお守りください。」

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