132章 72人の帰還
ルカ10章17〜20節
【聖句】
■ルカ10章
17七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。
20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
                                               【注釈】                                       
【講話】
■「喜ぶな」と「喜びなさい」
 この記事はルカ福音書だけにありますが、ここには霊能の業について大事なことが語られています。弟子たちは、イエス様のお名前によって命じると、身体的な病気や精神的な病をもたらす「悪霊ども」が追放されて出ていくので、驚きと喜びをもってイエス様にこのことを報告します。<自分たちにも>悪霊追放の霊能が与えられたことがよほど嬉しかったのでしょう。でも、このように理解するのは、全くの誤りだとは言わないまでも、ここで語られている弟子たちの「喜び」をまだ皮相的にしか理解していないと言えましょう。自分の霊能を喜ぶのは、むしろ20節で「喜んではいけないよ」と戒められている「喜び」のほうに入るからです。
  今回の箇所は、悪霊追放などの霊能現象が下火になった頃にルカによって書かれたので、霊能よりも「天に名前が記される」ことを喜びなさいとあるのだ。こういう解釈もあります。全く正反対に、霊能現象が盛んに起こっていたからこそ、ここのような忠告を記したという見方もあります。どちらの意見も、作者であるルカの時代を念頭に置いて解釈しているのに注意してください。聖書本文は、明らかに、悪霊が弟子たちに従うことを喜ぶなとあるのですから、悪霊追放が盛んに行われていることを前提にしているのでしょう。作者が書く歴史的背景だけにとらわれると、こういう時に誤った解釈を導き出しがちです。
 イエス様の御名がもたらす御霊のお働きは、病気癒やしや悪霊追放の現象面だけを見ていては、本質を見誤ります。霊能のしるしは、多くの人たちがイエス様の御名に注目し、御名を信じる手がかりになるのはその通りです。けれどもそこには落とし穴があります。なぜなら、霊能を信じる人も行なう人も、その業だけでは、信じる人、行なう人が、神にほんとうに<喜ばれる>人なのかどうか、このことの証明にはならないからです(マタイ7章21〜23節)。逆に霊能の業を何一つ行なわなくても、神に喜ばれて、その名が天に記されている人がいるのです。神にほんとうに喜ばれる霊能こそ貴重なのですが、これを見分けるのはとても難しい。これができる人がいかに少ないことか。霊能<を>喜ぶのではなく、霊能もまた、それ自体で喜びで「ある」ことを知るのが大事です。なぜなら、御霊のお働きとは、ただそれだけで「喜び」だからです。だからパウロは、「愛と喜びと平安」の三つを御霊の働きの「実」と呼ぶのです。聖霊にある喜びは、外部の条件や、物事の結果に左右されない、それ自体で生じる純粋な喜びであり、それゆえに「理由なしの」喜びだからです。「主にあっていつも喜びなさい。わたしは繰り返して言います。喜びなさい」(フィリピ4章4節)。
 こういう「御霊の喜び」をもたらす働きこそ、病気癒やしや悪霊追放をもたらすほんらいの力の源泉なのです。霊能の御業ではない。霊能をもたらす喜びのほうこそ、ほんとうに「喜ぶべき喜び」です。これが20節で、「喜ぶな」と言われた後に来る「喜びなさい」の意味です。これが続く21節でイエス様が「聖霊によって喜んだ」とある意味です。霊能の人が、己の手を通して働く霊能よりも、主イエスの御名にある喜びに満たされている限り、彼の霊能はほんとうの主の御業であり、その霊能は良い実をもたらします。しかし、もしも彼が、何かそれ以外の業とその結果に喜びを見いだし始めるや、彼の行なう業には、「このことを喜ぶな」とイエス様が言われた「このこと」があてはまるのです。
■異言について
 ここで異言について触れておきます。異言を求める人は、異言さえ与えられるとそれですべてが解決するかのように思うところがあります。ところが、いざ異言体験が与えられると、今度は逆に「異言を軽んじて」、せっかく与えられた異言を忘れてしまう人がいます。あるいは逆に、まるで朝の珈琲を飲むように軽い気持ちで異言を語り、それで自分はもうできあがったと思い込んで、得意になる人もいます。異言はこれを正しく用いて、欠かすことなく祈り続けることで、その人の霊的な成長を助ける大きな力になるのですが、軽んじたり得意になったりするようでは、せっかくの異言体験が泣きます。異言を大事にして軽んじることなく、御霊のお働きに委ねてください。異言を絶対化して、これがない人は信仰が足りないかのように思わないでください。「たかが異言、されど異言」です。異言も霊能の一つですから、異言<を>喜ぶのではなく、軽んじるのでもなく、異言<で>御霊にある喜びを体験してください。そこからさらに奥深い霊知が与えられるのです(第一コリント14章12〜15節)。
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