【注釈】
■72人の帰還について
ここで再びイエス語録集(Q)の項目の順序をルカ福音書と対応させてみます〔ヘルメネイアQ160~93頁〕〔マックQ87~89頁〕。
(QS20)弟子派遣の際のイエスの指示→ルカ10章1~11節。
(QS21)受け入れない町への裁きの予告→ルカ10章12節。
(QS22)ガリラヤの町々への裁きの警告→ルカ10章13~15節。
(QS23)イエスを代表する弟子たち→ルカ10章16節。
【72人の帰還→ルカ10章17~20節】
(QS25)幼子への啓示について父への感謝→ルカ10章21節。
これで分かるように、ルカ福音書は語録集の項目順を忠実に守りながら、ガリラヤの町々への警告及びイエスを代表する弟子たちと、父への感謝との間に、72人の帰還を挿入しています。イエスとその弟子たちを受け容れない町々への厳しい警告と、正反対に、神とその御子を啓示された無垢な人たちへの感謝という、裁きと祝福の両極端の狭間にこの帰還記事が挟み込まれているのです。しかも、この部分は、語録集にも他の三つの福音書にも対応する箇所が見あたりません(ただし内容的には共通しますが)。72人の派遣と帰還は、弟子たちを退ける者たちへの裁きの警告と、彼らを受け容れる者たちへの祝福・感謝と、これら両方と組み合わせてあるのです。
帰還の記事を内容的に見ると、17節と20節は悪霊の服従について異なる見方が対照されていて、これが全体の枠組みを構成しています。直前の「わざわいだ」(13節)は、旧約聖書ではほんらい堕天使の頭ルシフェルとその手下どもに向けられた用語です。おそらくこれを受けて「サタン」の敗北が語られているのでしょう。同様に、20節で「天の書に名前が記される」ことが、21~24節での聖霊による喜びと「幸いな目と耳」へつながると思われます。この枠作りはルカ自身によるものでしょう。18節と19節はルカ独自の資料(L)からだと見ることができますが、二つの別個の伝承をルカが結びつけたのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(1)859頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』428頁〕。ただしこれらの伝承がイエスにさかのぼるもので<ない>と断定することはできません(特に18節は史的イエスから出ていると考えられます)〔ノゥランド『ルカ福音書』10章17~20節〕。
17節と20節の枠組みについて、最初期の教会による悪霊追放などの霊能的な業が、ルカの時代には下火になったために、むしろ「天の書に名前が記される」ことのほうに喜びを見いだす傾向を反映しているという解釈があります〔マーシャル前掲書427頁〕。しかし、逆に20節は、教会での霊能が過大に評価されることへの警告だと見なす解釈もあります〔フィッツマイヤ前掲書859頁〕。奇跡と霊能を要求することは悪魔に起源するとも見なされますから(4章3節以下)、今回の20節でも警告されているのです〔コンツェルマン『時の中心』323頁(注)8〕。悪霊追放は神の国の勝利の「しるし」ですが、およそ「しるし」とは、与えられるが要求するものではなく、人々を納得させる証明として働くが、誤解を招きやすいものなのです〔コンツェルマン前掲書322頁〕。
■注釈
[17]【お名前を使う】「あなた(イエス)の名前」とあるのは、ルカ福音書の時代のキリスト教会が用いていた「主イエス」の名前のことですから、弟子たちもここで「主よ」と呼びかけていますが、実際には「イエスの名によって」を用いたのです。これは弟子たちがイエスの霊的な権威と力を帯びているだけでなく、「名を用いる」そのこと自体が、その名によって呼ばれる霊的人格の霊威と霊能がそこに働くことを意味します(9章49節参照)。遣わされた弟子たちは、ここでその「御名の権威」が実際に働いたことを驚きと喜びをもって告白しています。弟子たちの派遣に際して「悪霊を追い出す」権威が授与されていることは、72人の派遣命令にはでていませんが、十二弟子への派遣命令に出ています(9章1節)から、72人も十二弟子と全く同じ権威が与えられていたことが分かります。イエス在世中の「イエスの御名」の霊威は、イエスの復活以後も弟子たちに受け継がれます(使徒言行録2章38節/同3章6節/同16節/同4章17節)。ただしイエスの御名を「悪用する」ことに対しても警告されています(使徒言行録19章13~17節)。今回の20節の戒めはこのことにも関連するのでしょう。ルカは、9章49節と10章17節と同20節の三つの箇所で、「イエスの御名」が帯びる霊威とこれの正しい用い方を教えようとしているのです。
【悪霊さえ】原語は「ダイモニオン」(霊)の複数形です。悪霊追放の例は4章33~36節にでていますが、そこでは「汚れた霊」(単数)とあります。9章39節以下の場合では、息子の父親は「霊」(単数)が取り憑いていると言いますが、イエスはその霊を「汚れた霊」(単数)と厳しく叱って追い出しています(42節)。プラトンなどの古典時代のギリシア語ほんらいの「ダイモニオン」(霊)では、それ自体に善悪はありませんが、1世紀のパレスチナでも新約聖書でも、「ダイモニオン」は、様々な病気や狂気をもたらす「悪い」霊なので「悪霊」と訳されています(この点で20節を参照)。天地のすべての「霊」はイエスの御名に「服従します」が、御名の権威には「悪霊さえも」含まれると伝えているのです(エフェソ1章17~23節)。
[18]【サタン】ヘブライ語「サーターン」(敵対する者)はほんらい「敵対する者」「訴え非難する者」の意味ですが、これが神に逆らう霊的な存在を表わす固有名詞として用いられるようになりました(ヨブ記1~2章/ゼカリヤ書3章1~2節)。ヨブ記でもゼカリヤ書でも、「サーターン」は、神に敵対して人間と神の間を<引き離す>というほんらいの意味を保っていますが、ほとんど固有名詞化しています〔TDNT(2)71-75〕。捕囚期以後の旧新約中間期のユダヤ教では、創世記6章2~5節の伝承から、神に逆らって天から堕落した「堕天使ども」が悪霊どもの起源とされるようになります。堕天使どもの頭は当初「シェミハザ」ですが「アサエル/アザゼル」が後を継ぎます。したがって、悪霊どもの頭が「サタン」と呼ばれるのは、ヘブライの悪霊伝承では比較的後のことです(前2世紀後半から前1世紀前半?)〔コイノニア・ホームページ→聖書講話→ヘブライの伝承とイエスの霊性→6章「堕天使たちの名前」を参照〕。
新約聖書では「悪魔」(ギリシア語「ディアボロス」)も「サタン」も同じです〔TDNT(2)79〕。マタイ福音書では「悪魔」と「サタン」の両方がでてきますが、マルコ福音書では「サタン」だけです。ルカ福音書では8章12節までは「悪魔」が用いられていますが、今回の10章18節からは「サタン」に変わります。ヨハネ福音書では「悪魔」が3回(6章70節/8章44節/13章2節)で「サタン」が1回(13章27節)です。現在のキリスト教界でも、「サタン」は神とキリストに逆らう霊的な人格として一般的に固有名詞として用いられています。
【稲妻のように】「稲妻のように墜落するのを観ていた」という言い方で、「観ていた」は原語「テオーレー」の不定過去形で、継続的な状態を指します(これはほんらいアラム語で単なる過去形の意味だとする説もあります)。「墜落する」は「落とされる」という受動的な意味を帯びていますから、かつてサタンを頭にした堕天使どもが、反逆の末に天から追放された様相を想わせます(「ルシファー=明の明星の墜落」イザヤ書14章12節を参照)。イエスが観ていたのは、「天から稲妻が放たれてサタンとその手下どもが墜落する」姿であったとすれば、稲妻は天の玉座から放たれたものですから(ヨハネ黙示録4章5節)、サタンどもが神の裁きによって地上へ落とされる様をイエスが観ていたことになります(ヨハネ黙示録12章7~12節)。「サタンが稲妻のように墜落する」は稲妻が天から地上へ墜ちる有様をサタンの墜落に譬えているのです。ヨハネ黙示録では「地上へ」落とされ、この墜落の結果、地上ではエクレシアへのサタンによる迫害が生じます。しかし、その力は天で勝利したキリスト(ミカエルに代表)によって限定され、エクレシア(女性)は保護されます。
今回のルカ福音書のサタンの墜落もこのヨハネ黙示録の墜落と関連づけられているようです〔佐竹明『ヨハネの黙示録』(下巻)45頁〕。イエスが今回観ているのは、終末においてイエス・キリストの再臨の時にサタンどもが地獄へ墜落する有様を指すとも受け取れますが(ルカ17章24節/マタイ24章27節)〔マーシャル『ルカ福音書』429頁〕、今回のサタンの墜落は、イエスとその弟子たちによる悪霊追放の業によって、サタンの敗北がすでに決定的になったことを現わす「しるし」ですから(ルカ11章20節/ヨハネ12章29~31節)、イエスが「観ていた」のは、過去・現在・未来を通じて起こるサタンの運命にほかなりません。だからと言って今回の記事が、イエス復活以後の教会による宣教活動から生じたと考える必要はありません〔マーシャル前掲書〕。ちなみに、ギリシア神話にも、ゼウスが反逆のティーターンたちを稲妻によって黄泉(ハーデース)へ追い落とした話があります。ユダヤ教のサタンと悪霊伝承には、カナンの古い神話やギリシア神話が反映しているのかもしれません。
[19]
見よ、あなたがたに授けた。
足下に踏みにじる権能を
蛇やサソリどもを
さらに仇のあらゆる力を。
だからあなたがたに危害は断じて及ばない。
【蛇やサソリ】19節はほんらい18節とは別個の伝承から出ていまが、ここでルカによって結びつけられたと見るのが適切でしょう。19節は、おそらくマルコ16章18節「蛇(オピス)を手にしても、死の毒を飲んでも決して彼ら(信じる者)を害しない」と共通する伝承から来ているのでしょう〔ノゥランド『ルカ福音書』ルカ10章19節〕。
(1)「蛇とサソリ」の組み合わせは、旧約聖書に「炎の蛇とサソリのいる荒れ野」(申命記8章15節)とあり、旧新約中間期のシラ書21章2節にも「蛇を避けるように罪を避けよ。近づくと罪はお前にかみつく。その歯は獅子の歯のようで、人の命を奪う」〔フランシスコ会訳聖書〕とあります。なお、七十人訳詩編90篇13節では、主ヤハウェがその僕(ダビデ?)に告げて、「あなたは蛇(オピス)とバシリスクを踏みつける」とあります。「バシリスク」はギリシア神話に出てくる怪物で、アフリカの砂漠にいて,その息や眼光で人を殺したといわれる伝説の怪物で、蛇やトカゲや竜などの姿を持つと言われています。ただし七十人訳のこの箇所が、今回の直接の出所かどうかは疑問視されています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)63頁〕。
(2)イエスの時代では、ラビの文献に、メシアと期待される祭司が現われて、「彼(祭司)によってベリアルは縛られ、彼の子たち(祭司を信じる者たち)は悪霊どもを踏みにじる」とあります。クムランの文書などでは、「ベリアル」はサタンに相当する悪霊どもの頭のことですから、「悪霊ども」とあるのも今回の「蛇やサソリ」に相当すると思われます〔マーシャル『ルカ福音書』429頁〕。イエスも神がくださる「善いもの」に対して「悪い物」の譬えに「蛇とサソリ」を用いていますから(ルカ11章11~12節)、今回の「蛇やサソリ」も、悪霊が人間にもたらす様々な害悪を指していると考えられます。
(3)今回の箇所で弟子たちに与えられる約束の背景として注目されるのに、堕罪の後でエヴァに与えられた約束「女の末(メシア)は蛇の頭を砕く」(創世記3章15節)があります。新約聖書では、この預言がメシア(キリスト)によって成就されたと解釈されましたから、イエスの到来と共に終末が訪れ、この預言が成就したと考えられたのでしょう。
(4)終末の日に関連して「蛇とサソリ」には、「幼子が毒蛇の穴で戯れる」(イザヤ書11章8節)という預言もあります。さらにヨハネ黙示録には「すると煙の中から地上にイナゴが出てきて、それらに地のサソリの力が与えられた」(同9章3節)とあり「イナゴには神のしるしを額に持たない者たちにサソリが指すような苦痛を与えるが、殺すことはしない」とあります(同5節)。
以上を総合すると、今回の「蛇とサソリ」には、悪霊がもたらす害悪一般をあらわすだけでなく、特にイエスの来臨とイエスによる神の国の宣教によって、旧約のメシア預言が成就したことがあり、マルコ16章18節も(マルコ福音書の原初の版以後に加えられたと思われますが)この預言成就から出ているのでしょう。しかし、今回のイエスの派遣指示と、とりわけ72人の帰還報告では、当面の悪霊追放の業だけでなく、それが終末の到来と強く関連づけられていることも見逃すことができません。以後のキリスト教会はまさにこの意味で、今回の箇所を受け継いだのです。
【敵のあらゆる力に】「敵」とは神が遣わした御子イエスに敵対する「仇」(あだ)(単数)のことですからサタンを指します。十二弟子と72人に授与された「サタンのあらゆる悪巧みに打ち勝つ権能(エクスーシア)」は、イエスの在世中にすでに弟子たちに与えられていたことになります。ただし、「(権能を)与えた」(完了形)を「与える」(現在形)に読む異読があり、これだと、イエス復活以後の教会に対する約束だと解釈することもできますから、今回の記事にはイエス復活以後の教会の伝道活動が逆に投影されているという見方もあります。しかし、ここで言われていることは、イエス在世当時すでにその権能が弟子たちに授与されていたと解釈するべきで〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)863頁〕、この点で、ここは先の山上の変貌記事の場合と同様です。イエスが在世当時に行なった事の真の意義を、復活以後になって教会が<初めて啓示されて>、実際のイエスの出来事を想起しつつ、今回の箇所にそれ以後の事態をも反映させているのです〔レングストルフ『ルカによる福音書』261頁/288頁〕。このことと、イエス復活以後の教会が、イエスが実際には<行なわなかった>ことを在世当時の出来事として<創出した>と解釈することとは、聖書解釈の意味が全く違いますから注意してください。そうであればこそ、イエスの行なった業が、以後の弟子たちにも受け継がれることになります。パウロが難破してマルタ島に上陸した際に、蝮が彼の手にかみついたけれども害を受けなかった(使徒言行録28章1~6節)とあります。
[20]「しかし~むしろ~」の構文で、「喜ぶな」と「喜びなさい」が明瞭に対比されています。「霊が服従する」は、複数の悪霊どもがイエスの弟子たちに服従することですが、ここでの「悪霊ども」には、病気や人を苦しめる精神的な病だけでなく、イエス・キリストを知らない世界に住む人たちを今も支配して不道徳を行なわせている「この世の霊」をも含むのでしょうか(エフェソ2章2節)。「悪霊」の意味する範囲がどこまでにせよ、弟子たちに授与されている「イエスの御名によるこの偉大な霊威」を喜ぶのはよいが、そのような霊能/霊威を帯びていることを誇ってはならないと戒めています。「霊的傲慢」こそサタンが天から墜落した根本原因だからです。
【名が天に書き記される】イスラエルの民が捕囚から帰還した後に、エルサレムの神殿と城壁が完成した時、エルサレムに住む民を確認するために部族と家族ごとに登録が行なわれました(エゼキエル書13章9節/イザヤ書4章3節/ネヘミヤ記7章5節以下)。これは帰還後に「神の都」(エルサレム)に住む「神の民」を改めて確認するためです。この行政措置は、「もろもろの霊の主」である至高の神の前で、天にある「命の書」に義人たちがその名を記されることに対応するものでした(『第一エノク書』47章3節/ダニエル書12章1節/詩編87篇3~6節)。イザヤ書4章3節も含めて、これらの文書は捕囚期とそれ以後に書かれたと考えられますから、「天の命の書」にその名が記された「神の民」は、おそらく捕囚期から帰還した後にユダヤ教で生じた信仰だと思われます。
新約でもこの「命の書」信仰が受け継がれます(フィリピ4章3節/ヘブライ12章22~24節)。この「命の書」は、裁きと救いを分ける重要な表象として、とりわけヨハネ黙示録にしばしばでてきます(3章5節/13章8節/17章8節/20章12節/同15節/21章27節)。命の書にその名前が「記される」と受動態で語られているように、イエスの父なる神によって「登録される」ものですが、これは、救いの共同性と同時に救いの個人化をもうながすことになりました〔TDNT(1)620〕〔マーシャル『ルカ福音書』430頁〕。この場合、登録された自分の名前が「命の書」から消される(削除される)ことが、最大の罰として恐れられました(詩編69篇29節)。モーセがイスラエルの民への執り成しであえて自分の名を消すことさえ求めたのもこの伝承に基づくものです(その願いは聞き入れられませんでしたが)(出エジプト記32章32~34節)。
なお、「命の書」と並んで人の地上での行状を記録した「裁きの書」があります(エレミヤ書22章30節/イザヤ書65章6節/ダニエル書7章10節/詩編56篇9節/同139篇16節/ヨハネ黙示録20章12節)。南王国ユダのヨシヤ王の頃から宮廷での本格的な文書の保存、編纂が行なわれましたから、確かではありませんが、この頃から「天の裁きの書」という信仰が始まったのでしょうか。詩編ではこの書は単数ですが、ダニエル書では複数ですから、ヨハネ黙示録20章の裁きの書(複数)は、おそらくダニエル書から出ているのでしょう〔TDNT(1)620〕。