133章 善いサマリア人
ルカ10章29〜37節
【聖句】
■ルカ10章
29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
【講話】
■イエス様の「隣人愛」
今回のイエス様の物語は、「善いサマリア人」として広く知られていますから、今さら説明するまでもないと思われます。けれども、この物語が語られた背景を注意して見ると、いわゆる「隣人愛のサマリア人」だけでは見過ごされている面があることに気がつきます。強盗に襲われたこのユダヤ人の旅人は、全く予想もしなかった災難に見舞われたその時に、これまた予想もしなかったサマリア人から、予想もしなかった恩恵を受けたのです。この思いがけない出来事の連続から、彼は、自分に降りかかった不幸の中にも、自分の予想を超えた神からの贈り物があることを発見したでしょう。ではこの物語から、わたしたちは何を「発見」できるでしょうか?
ユダヤの律法の専門家が、自分こそ永遠の命に与る者にふさわしいと自負して、「そのためにわたしは何を行なうべきでしょうか?」とイエス様に問いかけます。するとイエス様は「律法になんとあるか?」と問い返されます。彼は、神と隣人を愛する律法こそ最も大事だと答えます。イエス様は「そのとおりだ」と答えられた。すると彼は「わたしが愛するべき隣人とは誰のことですか?」と問いかけたのです。これに対して、イエス様は傷を負ったユダヤ人が、その傷のゆえに、思いがけない神からの贈り物を「隣人」を通して与えられたことを話されてから、「誰が彼の実際の隣人になってくれたか?」と問い返しておられます。
「永遠の命を受け継ぐためには何をしたらいいのですか?」と問いかけた律法の専門家に向かって、イエス様は、予想もしなかった時に、予想もしなかったところから、予想もしなかった愛が与えられた旅人の話をしてから、「あなたも同じように行ないなさい」で終えられた。この話は、専門家の「何を<する>べきか?」に始まり、イエス様の「同じように<しなさい>」で結ばれていますから、「永遠の命」への問いかけで始まり、「永遠の命」への答えで終わるのです。
人の思いをはるかに超えた神様からの愛の贈り物、旅人は、これを実体験することで知ったのです。これは、自分の知らない「愛」の発見であり、その愛をもたらしてくれる「隣人」の発見であり、そのような隣人愛をもたらしてくれた「神」の発見です。この発見こそが、今回のたとえ話の初めに問われた「永遠の命を受け継ぐ」ための答えなのです。それは、何かを<する>ことではなく、自分が知らなかった愛を<与えられる>ことであり、それを受け容れることで初めて体験できる発見です。このようにして、神を心から愛し、隣人を心から愛するように命じる律法が、予想を裏切るこのような不思議な仕方で成就するのです。
■助ける理由と助けない理由
祭司やレビ人が、同胞のユダヤ人の災難を見ながら通り過ぎたそのほんとうの理由は分かりません。当時のユダヤ社会の通念や律法の細かな解釈から見るなら、通り過ぎる理由は100ありますが、介護する理由は一つです。もしも、旅人を傷つけた「強盗」が、ローマ帝国とその親派のヘロデの王朝に反対する過激派の「神の国テロリスト宗団」だったとすれば、その旅人を見過ごしにした祭司とレビ人たちもまた、エルサレム神殿に仕える「神の民の聖職者」たちです。神の民の一人である旅人を同じ神の民に属する「神の国宗団」の者たちが、自分たちの過激思想のためにその同胞に傷を負わせた。ところが神の民の聖職者たちがこれを見て見ぬふりをする。これが、イエス様の頃の「神の民」であるはずのユダヤの状況だったのでしょう。そこにはもはや、聖書が教える「隣人愛」は失われていたのです〔レングストルフ『ルカによる福音書』296頁〕。当時のユダヤとサマリアをめぐる政治的、宗教的な対立の構造はこのように複雑ですから、いったいだれがだれの味方なのか敵なのか分からないのです。こういう状況の中では、ほんとうの答えは人からではなく<神から>来る。これが答えです。これに似た例は現在の世界に幾らでもあります。
ユダヤ人とサマリア人は、敵同士とまではいかないまでも対立し合う隣人だったのは間違いありませんから、イエス様の話を聞いている聴衆たちは、そのような愛は「隣人」と言うよりも「敵対者」に対する愛に近いと思ったでしょう。自分を十字架につけた人たちの「罪の赦し」を十字架上で祈ったのは、ルカ福音書のイエス様だけです(23章34節)。イエス様の十字架は、敵をも赦して愛することを教えていて、この贖いの愛の御霊こそ、人を悔い改めに導いて、人をして「隣人」を愛するよう仕向けてくださるのです。
だから、今回の善いサマリア人の隣人愛も、最後まで残った11人の弟子へのイエス様の戒め、「わたしがあなたがたを愛したと同じに、あなたがたもまた互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と本質的に変わりません。イエス様から発する御霊の愛こそ、「<わたしが>あなたがたを愛した」とあるように「永遠の命」にいたる愛につながるのです。
■隣人愛と人類の愛
このように言うと、「隣人愛」は、人間的な愛情とはかけ離れた超自然的な力だと思われるかもしれません。しかし、ここが不思議ですが、この物語をそのまま読むと、このサマリア人は見るに見かねた人が抱くごく自然な愛情の発露から行為しているという印象を受けるのです。イエス様からこの話を聞いた聴衆は、ユダヤ人とサマリア人の「意外な」隣人関係に驚いたかもしれませんが、現在では、この話は「見知らぬ人にも親切なサマリア人」として知られています。だから、特に「キリスト教的な愛」を意識しなくても、いわゆる人道主義(ヒューマニズム)に根ざす愛として理解されているようです。
よく吟味してみると、ここで語られている愛は、人間の<自然な>愛情というよりも、敵をも愛する神の聖愛から生じているのが分かります。そこには、「敵をも赦す」イエス様の十字架の贖いの愛が潜んでいます。けれどもこの愛が、現在では人間誰にでも通用する「隣人愛」として普遍化されていること、実はこれがルカ福音書のすごいところです。ルカはヘブライ的な信仰に基づく思想をヘレニズム化したと一般に言われています。けれどもこれは西欧的な視点から見た言い方であって、わたしたちから見ればその逆です。ルカ福音書は<ヘレニズム世界をヘブライ化した>のです。これはすでにパウロがしたことで、パウロの御霊の結ぶ美徳のリストでは、ヘレニズム世界の美徳がヘブライ化しているのが分かります(ガラテヤ5章22節)。
考えてみれば当然のことです。なぜなら、新約聖書が伝えるイエス様の愛は、旧約聖書の霊性から出たものであり、その旧約聖書も、はるか以前のメソポタミアの宗教的霊性の流れを汲んでいて、その流れは、幾十万年前にさかのぼる人類の霊性に源を持つからです。だから、ここで語られている隣人愛が、古代中国の孔子の「仁」や墨家の説く「兼愛」の思想に通じていても不思議ではありません。現在で言えば(2014年)、15万円の月収で、世界の最も危険な場所へ出かけて、傷ついて死にかけている大人や子供たちを助けるために働いている人たち、例えば「国境なき医師団」の人たちが、イエス様の言われる「善いサマリア人」に最も近いでしょう。神の愛は、人間に本来与えられ具わっている「命の働き」とそこから発する憐れみと愛の心、これと決して矛盾するものではないのです。それどころか、そのような人間の愛情の源こそ神であり、そこからの創造的な生命愛こそ、人の愛を支えてくださるのです。だから、ユダヤ教の律法を知るユダヤ人も、サマリアの律法に生きるサマリア人も、東洋の賢人たちの教えにも、阿弥陀如来の慈悲にも共通するのは当然です。古今を問わず、洋の東西を問わず、宗教にも宗派にもかかわりなく、神は人類の営みを命の営みとして支え、創造の愛の御業によって、人の不義・不足を赦し支えてくださる。これこそ、人間を肯定的に導く神からの愛です。だから、イエス様の十字架を通して働く神の愛は、人の力を超えた聖霊のお働きですが、その愛は同時に、人間のあらゆる愛の営みを生かし支え護ってくださっている。人を助け支え赦し導く創造の御霊、人類の歴史を導く霊的な愛の働きです。「あらゆる真実なこと、あらゆる尊いこと、あらゆる正しいこと、あらゆる純真無垢なこと、あらゆる愛すべきこと、あらゆる賞賛すべきこと、徳のあること、賞賛に値することがあれば、それらを心に留めなさい」(フィリピ4章8節)とあるとおりです。
「隣人を愛するとはその人をイエス・キリストに導くことである。」これはキェルケゴールの言葉だと記憶しています。わたしに言わせるなら、イエス様にあって人と人が出会うこと、これが隣人愛です。
人が、
イエス様にあって、
人と出会う。
これ以上の喜びはない。
これ以上の感謝はない。
これ以上に人が為すべきことはない。
永遠の命。
■この物語の解釈について
この物語の解釈の仕方について少し補足しておきます。
(1)注釈でも触れましたが、この話は、イエス様が実際に見聞きされた出来事あるいは話から出ていると考えられます。
(2)しかし、イエス様の他のたとえ話でもそうですが、この話もイエス様によって、神からの贈り物としての「霊的な愛」の物語に変えられています。
(3)しかもそれが、今では人間に普遍する「隣人愛の教え」として受け容れられていること、これが不思議な奥行きをたたえているルカ福音書の霊性です。
(4)こういう普遍化が生じるまでに、この物語はひとつの解釈方法を経過しなければなりませんでした。それは「寓意(ぐうい)的な」解釈です。後の教会では、この「サマリア人」はイエスを指していると解釈されました。同じように「旅人」は罪人である人間を、「強盗」はサタンを、「宿屋」は教会を指していると解釈されました。この過程には、旅人/強盗/善いサマリア人/宿屋のように、具体的で分かりやすいイメージから、罪人/イエス・キリスト/サタン/教会のように、より高度に抽象化されていく傾向を読み取ることができます。このような解釈法を寓意(ぐうい)(アレゴリー)と言います。寓意は具体的な表象が表わす内容をより抽象的な方向へ変容させる働きをします。
ギリシアのイソップ物語や京都の高山寺にある「鳥獣戯画」(平安後期〜室町時代頃)なども、具体的な動物像を用いて様々な人間性を寓意化して描いています。しかし、この解釈法は、具体的で生き生きしたイメージの中に道徳的な教えを読み取る手法ですから、行き過ぎると表象ほんらいの生き生きした像をそこなう恐れがあるのです。サマリア人の「油とぶどう酒」が教会のサクラメント(聖餐)を意味するという解釈、油はイエス様がくださる「聖霊」を、「ぶどう酒」は聖霊の喜びを表わすという解釈はまだいいでしょう。けれども、「銀貨二枚」はなにか、「ロバ」は何を現わすのか?となると、解釈が行き過ぎてしまうことになります。寓意は、本来の具体的で生き生きしたイメージをそこなわないことが大事で、これを過度に道徳的あるいは教義的に解釈しすぎると、せっかくの話がその力を失うのです。このように、イエス様のお語りになる譬えや話を道徳や教義を引き出すために寓意化しすぎると、それ以外の解釈を許さないための教会の教えの権威化につながりますから注意してください。
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