134章 マルタとマリア
ルカ10章38〜42節
【聖句】
 
■ルカ10章
38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
                       【注釈】
【講話】
■マルタとマリアの解釈
 前回、「善いサマリア人」のところで、<寓意的な解釈>について話しました。今回もそこから始めます。ここにでてくる姉妹は、この世の一時的なこと、それもさほど大事でないことばかりに関わって疲れてしまう「マルタ」タイプと、この世のかなたにある大事なことを知って、それを得ようとイエス様の御言葉だけを聴こうとする「マリア」タイプ、このふた種類の人たちを表わすという解釈があります〔レングストルフ『ルカによる福音書』301頁〕。
 実はこれが伝統的な解釈で、これには様々なヴァリエーション(変容型)があります。世俗の人たちと修道生活に専心する人たちとか、行動型と瞑想型という対比などは昔からある解釈です。現代では、ルカ福音書への歴史批評の立場から、律法を実践しようとするユダヤ人キリスト教徒と信仰により頼む異邦人キリスト教徒の対比、前者はペトロ型、後者はパウロ型などがあります〔プランマー『ルカ福音書』293頁で紹介〕。どれも、どちらが優っていて、どちらが劣っているか、とても分かりやすい寓意です。
 これらの寓意的な解釈は、それぞれ、それなりの時代や歴史的な状況の中で生まれたものですから、必ずしも誤りとは言えません。それなりに正しい点を含んでいます。しかし、寓意的な解釈は、注意しないと物語の本質的な意義から逸れてしまうおそれがあります。マルタとマリアという生きた人間を特定の抽象的な概念へ方向付けてしまうと、実際の人間の複雑な有り様が単純化されてしまうからです。寓意的解釈は、このようにして、実際の出来事を特定の道徳や教義や思想を導きだす方向へ読み替えることで、「権威づけ」に利用される場合があるのです。
 よく読んでみれば分かりますが、マルタは決してイエス様の御言葉をおろそかにしてはいません。できれば彼女もマリアのように御言葉を聴きたいのです。ちなみにヨハネ福音書11章では、マルタとマリアの性格がルカ福音書と共通するものの、実際にイエス様と信仰について大事な対話をするのはマルタのほうです。一方マリアは、イエス様の頭に香油を注ぐという愛の業を行ないます。そこでは優劣は必ずしも明確でありません。だからマルタは台所で食事の支度に汗だくで、マリアは瞑想的な態度でイエス様の足下に座り込んでいる、という対照の仕方は適切でありません。マルタの不平はもっともです。しかも彼女に対するイエス様の答えには、今ひとつはっきりしないところがあります〔クラドック『ルカによる福音書』253頁参照〕。だから、「もてなしよりも座ること」「行なうよりも聴くこと」「実生活よりも瞑想と祈り」という原理的な比較は、「間違い」だとは言えませんが、今回の物語の真意とは少し「違い」ます。また、体を養う食事よりも霊の食事のほうが大事だという解釈も誤りではないまでも適切とは言えません。イエス様がお語りになる物語も比喩も、ある一点を鋭く直視するフォーカス(焦点)型ですから、そこをはずすと、ずれるおそれがあります。
■マリアさんのこと
 マリアとはどのような人だったのでしょう? 今となっては想像するほかありません。活動的で弁が立ち、利口でてきぱき物事を判断できる「マルタ」タイプの人に比べて、もの静かで瞑想的で、落ち着いて物事を深く考えるマリア、こういういささか寓意的なイメージを抱く気持ちも分かります。しかし、先の善いサマリア人の場合と同様に、今回も、イエス様の周辺で実際に生じた出来事に基づいて伝えられていることを忘れてはなりません。だからわたしに判断できる唯一の確かな根拠は、マリアがイエス様の足下に座り込んでひたすらイエス様の話に聞き入っていた、そのことだけです。
 わたしは、マリアには、そうしたい、と言うよりもそう<しなければならない>よほどの事情があったのだろう。こう思うほかないのです。冷静でもの静かで、考え深い女性なら、台所のことは姉のマルタにいっさい任せて、自分だけ座り込んで話を聞くことをするだろうか? 逆にわたしはこう思うのです。あえて想像をたくましくすれば、むしろ物事に敏感で不安を覚えやすいタイプの女性。したがって頭もそれほど鋭くなく、ぐずで姉の後ろに隠れているような消極的な女性、どこにでもいるごく普通のそんな女性ではなかったか? こういう疑問が湧くのです。
 だからこそ、イエス様の側にいるという滅多にない機会に出逢って、ほかのことは全部忘れて、とにかくイエス様の側にいたい。この一途な想いにかられるタイプの女性を想い描くのです。不安を覚える人、自分に自信が持てない人、とりわけ、何か困った状況に置かれている人、こういう人やそういう時に、人はイエス様のところへ助けを求めに来るというのが、わたしの長年の経験だからです。言うまでもなく、そういう人ばかりがイエス様のところへ来るというのではありません。そういう人だからイエス様のところへ<来ない>人たちもたくさんいます。しかし、イエス様が行かれるところでは、不思議にそういう人たちがイエス様のもとに<引き寄せられる>のです。
 こういう人は、<なんとなく>イエス様のところへ来ます。そして、イエス様の御言葉を聴き、聴いているうちにイエス様に引き入れられるのです。なんにもしない。なんにも言わない。だた黙ってイエス様を見上げる。ただそれだけをする人です。とにかく彼女は、<ほかのことは全部忘れて>イエス様の側にいた。これだけは確かです。だからわたしは、彼女がそうせざるを得ないよほどの事情があったのだろうと思うのです。賢くもなければ、思慮深くもない。なんにも思わないで、全部忘れて、じっとイエス様の側にいる人、そういう人ではなかったかと思うのです。だからこそイエス様は、姉の抗議に対して彼女を弁護したのでしょう。こんなふうにイエス様に<引き入れられる>ことをイエス様に<入信する>と言います。マリアがしていたのは、イエス様に入信することだったのです。
 だからこれは、ごく普通の人でもできることです。言うまでもなく、賢い人、真剣に道を求める人もイエス様に入信します。しかし、賢くてもそうでなくても、修道する人でもしない人でも、人それぞれに道は違いますが、行く着く先は同じで、何も想わず何もせず、ただひたすらイエス様にお任せするという<入信>の境地にたどり着くのです。
 先のサマリア人は慈愛の心に動かされて、苦境にある旅人を助けました。神の御手が働いたからです。今回のマリアも、どういう事情か分かりませんが、ひたすらイエス様の側にいて、イエス様に全部お任せしました。これもまた神の御手です。きっかけさえあれば、誰にでもいつでも起こりえる状況です。努力してそこへたどり着く人もあれば、そうせざるを得ない状況へ導き入れられる人もいます。事情は様々でも行き着く先は同じです。神の御手とはそういうものです。
■永遠の命の御言葉
 サマリア人の隣人愛が永遠の命につながるのであれば、マリアの入信もまた永遠の命につながるものです。どちらも人間なら誰でも起こりえる状態の中で、永遠の命へ導かれるのです。どちらにも共通するのは、損得を含めて、人の思惑(おもわく)も、計らいも、特別の計画もなく、なんら見通しも立たない状況の中で生じていることです。ただ与えられた<その時に>生じた出来事です。しかもそれが、人を永遠の命へ導く神の御手が働く場となること、このことをルカ福音書はわたしたちに伝えてくれます。これがルカ福音書のすごいところです。マリアが聴き入っていたイエス様の御言葉とはそういうものです。マルタよりもマリアのほうが<偉かった>からではありません。ただし、マルタの不満をイエス様がたしなめたのは、たとえどんなに立派な「奉仕」でも、それが<イエス様の御臨在という御言葉>の傍らを通り過ぎるなら永続性を失う〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)892頁〕からでしょう。これに対して、マリアさんのようにイエス様の御言葉に聞き入ることは、彼女から奪ってはならないものなのです。
■取り上げてはならないもの
 ごく普通の女性が、イエス様とめぐり会って、イエス様の御言葉に入信するのは、それが彼女に「生きるよすが」を与えてくれるからです。人にはどう見えても、本人にはとても大事なことなのです。イエス様の御言葉は、その人にかけがえのない人格的な霊性を与えてくれるからです。ありふれた普通の人は、だれでも罪深い性質を宿していますから、何らかのきっかけがあれば、恐ろしい犯罪や罪深い行為に走る危険があります。そういうきっかけは、偶発的に生じる場合もあれば、他人からの意図的な操作や計らいによる場合もあれば、もっと大きくて恐ろしい<闇の権力>に動かされたり、強制されたりする場合もあります。交通事故から大量殺人まで、気がついたらとんでもないことをしていた。こういう事がありふれた普通の人にも起こるのです。
 ハンナ・アーレントというドイツ系ユダヤ人の女性の哲学者は、ベルリン大学でハイデガーから哲学を学びましたが、フランスでナチスの収容所に入れられ、そこから脱出してアメリカへ渡り哲学教授になりました。たまたまかつてのナチ親衛隊のアイヒマンが、南米でイスラエルによって逮捕されてエルサレムで裁判にかけられることを知ったので、その裁判を傍聴する決意をしました。そこで彼女が見たのは、「極悪非道な」ナチ親衛隊員ではありませんでした。ごくありふれた<普通の人>だったのです。彼にとっては、ヒットラーの命令は国家の法律であり、その命令に忠実に従うことだけしか頭になかったのです。彼が何十万という人たちを殺す役割を担う結果になったのは、命令を実行するという<ただそれだけ>のことをしたからです。アーレントはそこに、普通の人間ならだれでも陥る国家の命令に対する<思考停止>の状態を見たのです。闇の権力に支配されれば、普通の人ならそういう状態に陥るのが<普通>なのです〔「ハンナ・アーレント」Hannah Arendt2012年ドイツ映画:マルガレーテ・フォン・トロッタ監督〕。
 2013年12月6日、自民党の強行採決によって、秘密保護法案が参議院で可決成立しました。教育研究者の大田尭(たかし)さん(95歳)は、戦前の治安維持法の時代を生きてきました。社会が戦争に徐々に引きずり込まれていき、情報がなくなり、<ものを考えることを無意識に停止>させられていった。いま、そんな時代に近づいているのではと彼は恐れています〔『朝日新聞』2013年12月6日号〕。これで日本が直ちにナチのような闇の権力に支配されるとは思いませんが、注意しなければ、わたしたちもかつてのナチ政権下の人のように、「思考停止」に追い込まれて「自分を見失う」危険があります。
 普通の人が普通の感覚で抱く「悪いこと」をしたくないという想い、そういう悪いことを<誰からも強制されない権利>、これを現在の日本国憲法では「基本的人権」と呼んでいます。「この憲法が国民に保障する基本的人権は、<侵すことのできない永久の権利>として、現在及び将来の国民に与えられる」とあるとおりです〔写楽編『日本国憲法』「第11条より」小学館(1982年)26〜27頁〕。「基本的人権」は「信仰の自由」とセットになっています。普通の人はだれでも、きっかけさえあれば「自分を見失う」ことがありえます。だからマリアさんは、自分の弱さを知って、イエス様の御言葉に聞き入って、イエス様に入信したのです。だからイエス様は、マリアさんからその権利を「決して取り上げてはならない」と言われたのです。「これはマリアに与えられる<侵すことのできない権利>として、イエス様によって保障されているもの」なのです〔マーシャル『ルカ福音書』454頁〕。わたしたちも、自分の弱さを知って、御復活のイエス様との出会いを通じて、いざという時にも「自分を取り戻す」ことができるようにしたいものです。それは神がイエス様を通してわたしたちに与えてくださった「侵すことのできない永久の権利」だからです。
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