【注釈】
■マルタとマリア
今回の物語は、直前の善いサマリア人とは結びつかないように見えます。しかし、「永遠の命を受け継ぐには何をすればいいでしょうか?」(25節)という問いかけに対するもう一つの答えがここに用意されているのです。直前のサマリア人の行動的な善行に対して、今回は「ひたすら主の御言葉に耳を傾ける」女性の姿が描かれます〔プランマー『ルカ福音書』290頁〕。隣人への愛はイエスを通じて語りかける神の御言葉を聴くことと対(つい)になっているのです。
ヨハネ11章1~44節には同名の姉妹の物語がでてきます。ただし、ヨハネ福音書ではエルサレムに近いベタニアでのことであり、ルカ福音書では旅の途中の不特定の場ですから、状況も話の内容も異なっています。これもルカだけの特殊資料(L)からでしょう。にもかかわらず、ルカ福音書とヨハネ福音書でのマルタとマリアの性格描写が驚くほど一致していますから、これは全くの偶然とは思えません。おそらく史実に基づく共通する伝承から出ているのでしょう〔プランマー前掲書〕〔マーシャル『ルカ福音書』451頁〕。ブルトマンは、41~42節のイエスの言葉を「情景から切り離されても意味を持ちうる一般的な言葉」と見なして、この記事を「アポフテグマ」(イエスの言葉だけが伝承されて、これを核に後の教会が創出した架空の理念的な物語)だとしていますが〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(1)93頁〕、ここでのイエスの言葉は全体の情景とみごとに一体化しており、しかもイエスの特長を生き生きと伝えています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)891頁〕。特に、<家事・接待よりも御言葉を聴くほうを優先する女性>に対するイエスの接し方は、当時のユダヤ社会では見ることができないと指摘されています。
■注釈
[38]文頭に「・・・・・という出来事が(たまたま)あった」"It happened that..."とある異読があります。
【ある村】ヨハネ11章1節から判断して、この村を「ベタニア」と特定する説もありますが〔フランシスコ会訳聖書10章(注)11〕、ルカ福音書ではベタニアが19章29節にでてきます。ルカ福音書では旅程が必ずしも地理的に正確に対応しているとは言えませんから、「ベタニア」説は不可能ではありませんが、今回の出来事とベタニアが時間的にあまり離れているので、ルカはここを不特定の村だと見ているのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)893頁〕その他。
【マルタ】アラム語「マーレ」(主/主人)の女性形「マーレター」からでていると思われます。「家に迎え入れた」とあるのは、彼女がその家の主(あるじ)だからでしょう。「迎え入れる」とは旅人を客人として受け容れることを指します(9章53節のサマリアでの出来事と比較)。彼女はマリアの姉ですが、未亡人であったかどうかは分かりません。現在のベタニアに「マルタ」と「エレアザル(ラザロ)」と「シモン」と刻まれた墓が発見されていますから、マルタの夫は「シモン/シメオン」である/あった?という説もありますが、確かではありません〔プランマー『ルカ福音書』290頁〕。
[39]【マリア】原文の「マリアム」には「マリア」という異読があります。「ミリアム/マリアム」はヘブライ(セム)的で「マリア」はヘレニズム(ギリシア)的です。「マリアム」〔岩波訳〕。彼女を8章2節のマグダラのマリアと同一視することはできません。
【主の足もとに座る】在世中のイエスを福音書が書かれた当時の教会の慣わしに準じて「主」と呼ぶのはルカ福音書の特徴です(7章13節)。「座る」は「傍らに座り込む」ことで、これは師の弟子だけに許されることです。「足もと」は日本語の「足下(そっか)」と同じく敬意を表わす言い方です。当時の慣わしとして、女性がその師とは言え男性の「足下」に席を取るのは異例です〔クラドック『ルカによる福音書』253頁〕。「聴き入っていた」も弟子がするようにじっと耳を傾けて聴くことです。彼女は、台所のことにはかまわず、<最初から>イエスの側に座り込んで話に耳を傾けていたのでしょう。マルタは食事の準備で忙しかったとありますので、イエスの一行は、まだ食卓で体を横たえる姿勢ではなかったのでしょう。
【その話】原語は冠詞付きで単数(the word)です。使徒言行録ではこの場合イエス・キリストを伝える「御言葉」を指します(使徒4章29節/同31節「神の御言葉」)。しかし今回の場合は「イエスが語っている言葉あるいは教え」の意味でしょう"listened to what he was saying"〔NRSV〕。
[40]【もてなしのためせわしく】直訳すれば「いろいろな奉仕(家事のこと)に引きずり回されて(気が散って)本来の仕事ができない」です。マルタは、接待の主(あるじ)ですから、一行のために食事の支度をするなど、もてなしに忙しく、イエスの話を聞こうとしてもその暇がなかったという意味です。「ディアコニア」(食事の給仕/接待/奉仕)は、後に教会の役職である「執事」(ディアコノス)"deacon" の勤めを指すことになりますが、ここではその意味はまだ含まれていません。
【そばに近寄って】原語から察すると、イエスの側に近づいて「傍らに立ったまま」の姿勢で、「あなたは何とも思わないのですか」と咎め立てする様に言ったのです。マルタの気質がよく現われています。「わたしの妹なのに、わたし一人に何もかもまかせてしまって」という言い方にも彼女の不満がうかがわれます。
[41]~[42] この部分の読み方が混乱しています。「マルタ」への呼びかけが一度だけの異読も加わえると、全部で6通りの読み方があります〔マーシャル『ルカ福音書』452~53頁〕。最も長い読み方をあげると次のようになります。
「マルタよ、マルタよ。あなたはたくさんのことに<気遣って大忙し>である。だが必要なのは<少しか、あるいは一つ>でよい。マリアは良いほうを選んだのだ。」〔新約原典注〕
問題点を< >で示しましたが、整理して見るとこの2点に絞られます。
(1)「気遣って大忙し」には「メリムノー」(心を悩ませる/負担に思う)と「ソリュボー」(忙しく騒ぎ立てさせる)の受動態と二つの動詞が用いられています。前者は心に負担を覚えて悩むことであり、後者は具体的なことに追われて気が散ることです。この「ソリュボー」には「トゥルバゾー」(悩ませる)という異読がありますが、これは「ソリュボー」が比較的希な動詞なので筆写の際により一般的な「トゥルバゾー」に変えられたと考えられます〔新約原典テキスト批評153頁〕。
(2)問題は「少し/少ないか、あるいは一つ」のほうです。ここの読み方には、「一つ」と「少ない」と「少ないか、あるいは一つ」の3通りあります。これはイエスがここで「料理の品数」のことを指していると理解/誤解したためであろうと思われます。だとすればイエスはマルタに「あなたは、たくさんの料理を用意しようと忙しく気が散っているが、少しの品数かあるいは一品でいいのだよ」と諭していることになります。「少し/少ない」という読みは、原語の「一つ」を品数のことだと理解/誤解して、これをやわらげるために後から加えられか、あるいは「一つ」と入れ替えられたと考えられます〔新約原典テキスト批評頁〕。ほんらいは「一つ」だけだったのでしょう。
現在では、「一つ」は料理の数のことではなく霊的に大事なことを指すと解釈されています。ただしイエスが料理の数をたとえにして、「大事なのはただ一皿。マリアは良いほうを選んだ」と料理を霊の食べ物の比喩として用いたとも考えられましょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)892頁〕。
【良い方】直訳すれば「良い部分」で「部分」の原語「メリス」は「領地/分け前/役職」などを意味し、特に神がその人に与えた「嗣業/運命/使命」を指します(詩編16篇6節参照/新約では使徒8章21節/第二コリント6章15節/コロサイ1章12節)。「良い」はヘブライ語では「最善」を意味する場合も「良いほう」のように比較する場合もあります。
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