135章 友の夜中の願い
ルカ11章5〜8節
【聖句】
■ルカ11章
5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
                       【注釈】
【講話】
■ルカ文書の祈り
 
ここで、今回に限らず使徒言行録をも含むルカ文書の祈りについて触れておきます。ルカ文書の記述は、次のような特長を帯びています。
(1)「たまたま〜という出来事が生じた」で始まる記事が多いのです。これをルカによるただの「つなぎのための編集」だと片付けてはいけません。なぜならそれは、これから起こることは人間ではなく、神の不思議な働きとご計画による出来事であることを知らせる大事な視点だからです。この点を外(はず)すとルカが伝えようとする霊的な視点を見失います。
(2)このような神のご計画にある導きのもとにイエス様と日々共に歩んでいく、この心得が大事です。ですからこれは、「その日、その時」の歩みです(ルカ12章11節を参照)。ルカ福音書のイエス様の旅はまさにこのことを弟子たちに学ばせるための旅なのです。
(3)だから、ルカ福音書で語られる出来事は、一見日常のありふれた出来事のように思える場合でも、そこには神の御計画とイエス様の御霊のお働きによる霊的な意味が潜んでいるのを見落としてはなりません。だから、歴史的あるいは日常的な出来事のように見えても、そこには比喩(譬え・隠喩)が潜んでいるのです。ルカ文書はこの点で誤解されるおそれがあります。
(4)わたしたちは、こういう霊的な視点からルカ文書を読むときに初めて、今回の「祈り」の意味が分かってきます。祈りは、わたしたちが普段に神の御計画の中を主イエス様と共に歩んでいく「呼吸」を与えてくれるのです。クリスチャンの歩みとはイエス様の御霊にある祈りの呼吸に支えられているのです。

■あきらめない祈り
 ルカ福音書は「祈りの福音書」と言われるほど、イエス様が祈られたことがでてきます(3章21節/6章12節/9章18節/同28節/11章1節/22章41節/同32節/23章34節)。今回の箇所も、11章1節でのイエス様の祈りに始まって、「天の父は<求める者>に聖霊をくださる」という約束で終わっています。どんなに厳しい状況でも、祈り続けるなら、神はその願いを聞き届けてくださるというのが、今回の「真夜中の願い事」の真意だと思います。大胆に頼み込んだこの人は、「必要なものは何でも与える」(8節)とあるように、結局、自分の願いが全部聞き入れられたようです。
 ところで今回の箇所は、主の祈りと「求めなさい」という勧めの間に挟まれてでてきます。主の祈りは「御名が崇められますように」で始まり、「求めなさい」は聖霊を与えてくださることで終わりますから、始めから終わりまで、父の御名と父からの聖霊のお働きで一貫しています。だから、今回の一見「図々しいほど大胆で」、断わられてもなお祈り続けるその忍耐強さは、人間が自力で行なう念力や信念や意志力から来るのではなく、天の父に導かれ支えられて初めてできることだと分かります。「もうダメだ」と思われるほど絶望的な状況でも、「そうは言わないでどうか・・・・・」と祈るその「厚かましいほどの忍耐」は、「御霊自ら<言いがたい呻(うめ)き>をもって(祈る)わたしたちを支えてくださる」(ローマ8章26〜27節)とあるとおり、「言葉にならないほどのお粗末なわたしたちの祈りを通してさえ働いてくださる」〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』541頁〕御霊のお働きなのです。だからこの消息は、「あなたたちが祈る前から天の父はあなたたちに何が必要かを知っておられる」(マタイ6章7〜8節)とあるのに通じるものです。
 祈りは、聞き届けられたその時に、はたしてそれが、祈りが聞き入れられて与えられたものなのか、それとも、自分の念願や意図的な計らいから自分の力で達成できたものなのか、どちらか分からない。そういう性質ものものではありません。たとえ人目にはどう見えようとも、<本人には>、それが神から出たものか、自力で達成できたものかが、はっきり分かる、そのような仕方で与えられるものです。「してやったり」とほくそ笑むのは、神から与えられた祈りの結果ではありません。己の作意(さくい)と計略がうまく当たったからです。教会で熱心に祈る信者の姿をわざと人に見せて、「あのように祈っているのだから、かなえられたと信じさせてやってほしい」、こうある金持ちに頼み込んだ牧師のことを聞いたことがあります。
■主客一如
 神は、ご自分の栄光を人間の栄光と見間違われないように、「思いがけない」仕方で祈りを成就させてくださることがあります。自己の主観的な願いから己の計らいで実現したのではなく、外からの働きで不思議に事が成った。こういう仕方で働いてくださるのです。それなら<自分の祈り>はどうなったのか? 疑い深い魂なら、さっそくこう問い返すでしょう。自分の祈りを自分の主観だと思い、外からの働きを自己とは無関係な客観だと思い込んでいる人は、祈りの真相を知ることができません。祈りは「神の聖霊が」働かれることによって初めて、神の御栄光が顕われるような仕方で成就するからです。御霊に導かれた祈りこそ、イエス様が祈られた祈りだったのです。人目につかない隠れた祈り(マタイ6章5〜6節)、自分の意図よりも主の御心(マルコ14章36節)、己の知力や理性的判断を超えて、ただ単純に御霊のお働きに委ねる心(ルカ10章21節)、自分ではなく御心のままに生きようと願う人(ヨハネ7章17〜18節)、そういう人が、祈りとは何かを知るのです。いわゆる「主観」でもなく「客観」でもなく、御霊の働く主客一如の場があるのです。そこが神の働かれる場です。イギリスのジョージ・ミュラーが、ひたすら祈るだけで孤児院を経営できたのも、彼にならった石井十次が孤児院を経営できたのも、御霊にあるこの主客一如の祈りが働いたからです。証しされたのは経営手腕ではない。証しされたのはイエス様の父なる神が現におられて働かれることです。
■自分にしてほしいこと
 マタイ7章7節以下では「求めよ、そうすれば与えられる」が、「自分がしてほしいことを人にもせよ」という黄金律で結ばれています。人は誰でも自分がほしいことを神に願い求めますから、自分にしてほしいことばかりを神に祈り求めても、その人を責めるつもりはありません。イエス様の父なる神は、そういう願いも聞き届けてくださいます。「わたしの願いは聞き入れられましたから、もう集会に行かなくてもよくなりました。」こういう率直で正直な本音のメールを受け取ったことがあります。
 しかし、このような「困った時の神頼み」は、今回の箇所に続く「求める」祈りの最後にでてくる、「聖霊の授与を祈り求める」(12節)ことになると問題です。「聖霊の授与」を祈り求めることが大事なのは、それがイエス様の御霊であること、言い換えると聖霊授与は「イエス様その方をいただく」ことだからです。イエス様<から>何かをいただくのではない。イエス様そのものをいただくのです。こうなると、<自分が>ほしいものは何かが、ごまかしなく問われてきます。「してほしいとおりに隣人にせよ」という黄金律は、ルカ福音書の聖霊授与と結びつくと、自分はいったい神様から「何をしてほしいのか?」が問われることになるのです。「与える」前に「受ける」ことのほうが問題になるのです。イエス様をそっくりいただくのなら、「自分」はもう要らなくなる、という事になりかねませんから、こういう心配がないとは言えません。
 実はこれが、「聖霊を祈り求める」際にとても重要なことになります。人は霊の賜物(カリスマ)をほしがります。異言を語る。預言をする。病気癒やしが起こる。聖書の知識が増す。これらはすべて聖霊の「賜物」です。けれども、「聖霊そのものを祈り求める」ことは、それらもろもろの賜物をお与えくださる主御自身を、イエス・キリスト<その方を>求めることにほかなりません。だからこの祈りは、御霊の諸現象やもろもろの賜物の根源に迫る祈りです(第一コリント12章4節)。イエス様が「切に求めなさい」と願っておられることも実はこれです。
 だからこの祈りは、「わたしの代わりにイエス様が生きてください」と祈るのと同じです。これがパウロの祈りです(ガラテヤ2章20節/フィリピ1章21節)。この祈りが難しいのは、そもそもこういう祈りを「始める」ことが難しいからです。「そこまではちょっと・・・・・」と、せっかく湧いてきた祈りを「始めないで」止めたり、別のほうへそらしてしまう場合が多いのです。死に直面する場合や苦境に陥った時に、まさにこの祈りによって「救われる」のですが、そういう境地に「恵まれる」ことは滅多にありません。普段の祈りで、パウロ並みの信仰的霊境に達するためには、<忍耐強い祈り>が必要なのです。
 パウロが、イエス様に見習って、「自分ではなくあなたを」と、命がけでイエス・キリストにある生き方を祈り求めたのは、その先に御復活のイエス様に宿る「永遠の命」が見えていたからです(フィリピ3章12〜16節/同21節/ヨハネ5章24節)。<自我に死ぬ>、これは易(やさ)しいことではありません。しかし、十字架の苦難と死を超えられたイエス様が、わたしたちに「聖霊を授与して」くださるのは、これによって、人が自力では不可能なこと、すなわち「自我に死ぬ」道を備えてくださるためだったのです。イエス様は、古(いにしえ)からのこの難道を、誰でもが御霊に導かれて歩むことのできる「易道」に変えてくださった。イエス様の御霊にある命の道を求めて、やってもやっても自分はダメだ。こういう想いにとりつかれても、それでもなお止めないで祈り続ける。そういう<しつこい忍耐>こそ、この<あつかましさ>こそ、ルカ福音書がここで伝えようとしている「真夜中の願い事」ではないでしょうか。
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