愚かな金持ち
ルカ12章13〜21節
【聖句】
■ルカ12章
13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
 
【参照】『トマス福音書』(72)
(ある人)が彼に(言った)、「わたしの兄弟たちに、わたしの父の持物をわたしと分けるようにと言ってください」。彼がその人に言った、「人よ、誰がわたしを分配人に立てたのか」。彼は弟子たちに向かって、言った、「わたしが分配人なのか」
      〔荒井献『トマスによる福音書』234頁〕
〔注釈〕ルカ福音書の冒頭の「群衆の一人(ある人)が彼に言った」は、『トマス福音書』の「ある人」と共通するルカの編集です。ルカ福音書では『トマス福音書』の「父の持ち物」が「遺産」となっていて、そのほか「裁判人」が加えられています。『トマス福音書』の「父の持ち物」には「天が与えたもの」の意味が含まれているのでしょう。この福音書にはグノーシス的な思想が背景にありますから、宇宙の単一化を理想として、「統合」を求め「分割」を嫌う傾向があります(グノーシスは2世紀になってから顕著になる思想ですから、このため『トマス福音書』の成立について、1世紀中頃から2世紀中頃まで諸説があります)。だから、「父のもの」を「分ける/分割する」ことに対して、イエスは「わたしが<分割する者>か?」と否定的に問いかけています。ルカ福音書のほうは、今回の箇所を強欲/貪欲を戒めるために,
人間同士の「遺産相続」の問題として提示していますから、「分割する者」がルカ福音書では「(人の間で)分配する者」に変わり、兄弟同士の争いを裁定する「裁判人」が出てきます 〔荒井:前掲書234〜35頁〕。ルカ福音書の「兄弟」 に対して『トマス福音書』のほうは「兄弟たち」と兄弟が複数いることになります。『トマス福音書』のほうのイエスは「分ける」ことに反対しているとも受け取れます。ルカ福音書に含まれる伝承に比べて、資料としては『トマス福音書』のほうが古いのかもしれません〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)194頁〕。
 
                       【注釈】
【講話】
■パレスチナの遺産相続
 古代のヘブライでは、遺産はできるだけ分割せず「全体として」相続されるほうが好ましいとされていました。「枝分かれする川は砂漠の土地に飲み込まれて消え失せる」と言われていたからです。相続人の間で分割する場合の規定は、民数記と申命記にでていますが、これは争いを防ぐためで、ほんらいは分割せず、一族が共有して「共に暮らす」のが模範とされていました。詩編133篇1節に「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」とあるとおりです。ただしこれは遊牧民の間での慣わしですが、イスラエルの民がカナンに定着した後も、この慣わしはいぜん有効だとされていたようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)195頁〕。
 しかし、兄弟の間がうまくいかず、このために遺産をめぐる争いが生じる場合がありましたから、民数記や申命記の規定ができたのです。だから、今回のように、弟が兄から自分の遺産分を請求する訴訟は「好ましい」ことではありませんでした。ルカ福音書では同様のことが後で、放蕩息子の場合にも起こります。『トマス福音書』で、読みようによっては、イエス様が遺産分割を批判しているとも受け取れるのも、こういう社会的な状態を反映しているのかもしれません。だから今回の遺産相続の話はパレスチナの実際の状況を反映していると見られています。長男が家の資産全体を受け継ぐというこの制度は、日本でも昭和の終戦(1945年)以前に行なわれていたことです。それだけ一族を束ねる本家の長男の責任が重かったのです。
 このように見ると、「強欲への警戒」と題される今回の部分では、「強欲」なのはいったいどちらなのか? 遺産分割を請求する弟のほうなのか? それとも遺産全体を受け継ぐ兄のほうなのか? これが分からなくなります。イエス様はここで、兄あるいは弟を指して戒めているのではなく、「あらゆる強欲/貪欲」を警戒しなさいと戒めておられますから、兄弟の争いの基となっている根本原因を指すのでしょう。だから、イエス様はここで人間の社会制度それ自体に潜む矛盾と、そこから生じる争いを指して、人間の根源に潜む「強欲/貪り」あるいは「独占欲」を戒めておられるのです。
■文化文明と「強欲」
 制度的な矛盾と言いましたが、これは遊牧民に限ることではありません。実は、この制度的な矛盾は、遊牧民よりも、むしろ農耕民族が「都市」を形成するようになってから、王家や一部の特権階級による「富の独占」という形を採って、その矛盾がいっそう顕著になります。カインがアベルを殺す物語は(創世記4章1〜12節)、定着して都市を形成した農耕の民が、周辺の牧畜の民を迫害し、彼らを搾取した歴史を背景にしていると言われています。古代中国でも、現在の中国の北部にあった殷王朝の紂王(ちゅうおう)などは、王朝に服従しない周辺の牧畜民を日ごとに捕らえて、占いの儀式ために彼らを犠牲に献げたと伝えられています。
 以上で分かるように、イエス様がここで警戒せよと戒めておられる「強欲」とは、個人の単なる欲望のことだけでなく、人間社会の根源に潜む「罪」のことです。さらに言えば、わたしたちの文明とこれに支えられている文化の根底に潜む「罪業」だと言っても言い過ぎではありません。利得への飽くことのない貪欲は、近代の資本主義にもいっそう顕著に現われて、現在のアメリカでは、アメリカの富全体の90%が、5%ほどの人たちに集中していて、残りの95%の人は貧しい生活を強いられていると指摘されています。この構造は、文明と文化の進む先進国と、富の配分に恵まれない後進国との間の争いという形を採って、世界の平和を脅かしています。ダイヤモンドなどの豊かな資源を持つ後進国も、先進国から莫大な融資を受けているために、その厖大な利子払いのために、いくら生産しても一部の特権階級以外は豊になることができないままに、貧困に苦しむ人たちが絶えないのです。これは社会・金融制度的な欠陥です。今回の遺産相続についての「強欲」への戒めは「金銭獲得に意味を見いだそうとする文化の本質に対する攻撃」〔TDNT(6)271. Note (11)〕だと指摘されるのはこの理由からです。
■金持ちのたとえ
 今回の箇所では、先ず強欲に対する警戒に始まり、続いて安寧を求める者なら誰でも抱く問いかけがあり、これに対して、これもまた誰でも思いつく答えが語られます。すると、彼がその時まで全く念頭に置いていなかった「神の警告」が突然入り込むのです。
 自己の安定のみを図ろうとする金持ちの自己問答は、世間的にはもっともだと思わせますが、今回の構成は、それがいかに「はかない」(不)安定であるかを悟らせるだけでなく、「有り余る豊かさ」が過度の欲望/独占欲と結びつくことに注意を向けさせます。「豊かさ」が利得の独占欲をいっそう強める人間の性(さが)がここに描き出されています。強欲への警告と金持ちの話は、二つがセットなって、貧しい者を搾取しようと隠蔽されている制度的な邪悪を暴くのです。
 わたしたち人間は、自己の安寧だけを謀ろうとして、他の人たちの生存を脅かす結果に陥りやすい存在です。このような文明の根源に潜む罪業に向けられた警告を今回の箇所に読み取ることができます。現在問題にされている原発についても、原発を続けることによって生じるリスクと、逆に原発を廃止することから生じるリスクのどちらも論理として成り立つかもしれません。しかし、福島原発事故の後の住民への対応を見ていると、原発推進の企業や政治家や官僚は、自分たちの利権を貪欲に求める余り、国民の真の幸いを犠牲にすることも辞さない危惧を覚えます。日本だけでなく、アメリカでも中国でも、同様な利権追求の権力者たちが、国民・市民の生活を犠牲にしてはばからない現状を厳しく監視しなければなりません。「貪欲」こそ社会の災いの根です。
 愚かな金持ちの「愚か」とは無知のことです。無知がなぜそのように悪いのでしょうか?無知は、わたしたちの文化と文明の根源的な欠陥(罪)を見落とすからです。そこに目を向けなさいというのが今回の教えです。
ではどうすれば、強欲の「愚かさ」を悟ることができるでしょうか? それはイエス様の御霊にある霊的人格が個人個人に宿ること、すなわち神は、イエス様を通して、個人に「永遠の命」を宿らせてくださると「知る」ことです。この霊智にってよって初めて、地上の貪欲の恐ろしさと愚かさに気づかされ、目先の利権への強欲に惑わされることなく、物事を正しく洞察することができるからです。「人が提案し、神が決裁する」と言う言葉がありますが、「どうしようか?」と自分に問いかける前に、同じ問いを神に向けることを忘れてはならないのです。神が人間に授与された「永遠の霊的な命」は、こういう人間の利己的な独占欲に対する窮極の答えです。モーセの十戒は、第一戒「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」で始まり、第十戒の「貪るなかれ」で終わります。先ず神のことを想い、最後に貪りを戒める。今回の箇所は十戒のこの両端に対応しています。
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