【注釈】
■13~21節注釈
 今回の箇所は、13~15節の「強欲への警告」と16~21節の「愚かな金持ち」のたとえの二つの異なる資料から成り立っています〔『四福音書対観表』182頁〕。しかし、これら二つは内容的に関連しますので一つに扱います〔Dewey and Miller. The Complete Gospel Parallels. 124〕〔ボヴォン『ルカ福音書』192頁〕。
 今回の箇所の直前に置かれている「聖霊」に関する記事も、直後(22節以下)のイエスの教えも語録集にありますから、「強欲への警告」と「金持ちのたとえ」も、ほんらい語録集にあったという見方もあります。だが、おそらく今回の部分はルカ福音書独自の資料(L)からでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』522頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)193頁〕。内容的に見ると、「強欲への警告」が「愚かな金持ち」(16~21節)の話と結びつき、これが、父なる神だけに信託し依存する鳥や花を見習う教え(22~31節)に発展し、さらに「天に宝を積む」教え(32~34節)で締めくくられています。
[13]冒頭の「ある人が彼に言った」は「聖霊への冒涜」と「聖霊の導き」という主題から、突然別の主題へ移るためのルカの編集です。
【群衆】これは12章1節の「群衆」を指しますが、群衆はイエスを囲む「弟子たち」とその周りにいる人々で成り立っているのでしょう。始めは一般の「人々」に語られますが、12章22節以下からは特に「弟子たち」に向けて語られます。
【先生】実際の呼びかけは「ラビ」であったと思われます。遺産のもめ事を裁定することもラビへの相談事だと見なされていたからでしょう(民数記27章5~11節)。兄が父から受け継いだ遺産を弟に分与するのをいやがったことから、弟が訴え出たのです。なおパレスチナの相続については講話で扱います。
[14]イエスは依頼してきた人に向かって「人よ」と呼びかけています。「君」〔塚本訳〕。"Friend"〔NRSV〕。これは、通常主人やラビや裁判官などが、僕や訴え人に向かって「おい、お前」のように相手の依頼や言い分を断わる/拒否する意味をこめた呼びかけです(ルカ22章58節の「人よ、わたしは〔イエスの弟子とは〕違います」/ローマ2章1節の「ああ、人よ、すべて裁く者よ」)〔プランマー『ルカ福音書』322頁〕。
【裁判官や調停人】「裁判官」は法廷で訴訟を裁く人で、「調停人」は、双方の合意によって定められた人を指します。「裁判官」には「裁定人」という異読もあります。内容的にそれほど変わりませんが、旧約の「士師」のように物事を裁定する人のことでしょう。ここは出エジプト記2章14節(=使徒言行録7章27節)の七十人訳「誰があなたをわたしたちの統治者あるいは裁判官に立てたのか」とよく似ています。古いパピルスや有力な写本に「裁判官」とあるので、これがもとの用語でしょう。訴えに対するイエスの答えは、自分は「ラビ」として裁判/裁定する法的な責任は課せられていないという意味ですが、それ以上に、遺産争いよりもさらに大事な問題があることを教えようとしています。
[15]【注意し用心する】二つの動詞の直訳は「目を向ける/注意する」(マルコ8章15節)と「気をつける/身を守る/避ける」(第一ヨハネ5章21節)です。両方の動詞で「目をそらさず、普段の注意を怠るな」という意味です。
【どんな】原語は「すべて」ですが、「あらゆる類いの(貪欲)」を意味します。
【貪欲】原語のギリシア語「プレオネクシア」は、七十人訳ではヘブライ語の「ベッツァ」(不正な利得/過度の欲得)の訳語で、これは「人よりも多く所有したい」という欲望のことです。「貪欲/強欲/貪り」は、不正な利得に走り暴力と殺人を誘発し、飽くことのない所有欲は他の人たちの生存権を奪います。だから、「貪欲」への戒めと批判は特に権力者たちに向けられます(エレミヤ22章17節/ハバクク書2章9~11節)。過度な貪欲に走ることを防ぐのが「知恵」の働きです(知恵の書10章10~12節)。旧約の「貪欲/強欲への警戒」は新約へも受け継がれて、「貪欲」は特に「隣人を出し抜く」ことで利得を稼ぐことです。ルカ12章のこの箇所は特に有名で「安定を図る手段として物質的な所有を蓄積しようとするあらゆる活動に対する根源的な警告」を与えるものです〔TDNT(6)271〕。なお、貪欲への警戒はパウロ書簡に多くでています(ローマ1章29節/第一コリント5章10節)。
【有り余るほどの】この部分は、ほんらい「命は、人の有り余る豊かさには存在せず、(命は)人の所有物から生じることもない」という二つの文ではなかったかと思われます。15節の構文がやや不自然なのは、これら二つが重なったためでしょう。だから、不自然さは資料から来るもので、作者ルカによる編集ではないことを示しています〔マーシャル『ルカ福音書』523頁〕。ただしその意味は明瞭で、「<有り余る>ほど所有していることが、その人の命の保証にはならない」ことです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)198頁(注)56〕。この点が続く「愚かな金持ち」のたとえにつながります。
[16]【たとえ】原語「パラボレー」はヘブライ語の「マーシャール」から来ていて、暗喩、たとえ、例話、謎かけ、諺、教訓的な格言など広い意味に用いられます。
【話された】冒頭は「ある人が言った」で始まり(13節)、続いて「(イエスは)言われた」が14節/15節/16節に来て、「金持ちが言った」(18節)、「神が言われた」(20節)と「言う」が繰り返されます。短い挿話ながら、劇的な台詞の構成になっています。
【畑が豊作】「畑」の原語は広範な地域を意味する「土地」ですから、パレスチナの「大土地所有者」を描いています。「その年が豊作だった」〔塚本訳〕とあるように、「たまたまその年の」実りが良かったのでしょう。ただし、これから判断すると、その富裕な人の所得は必ずしも「不正な利得」を図った結果ではないことになります。しかし、ローマ帝国支配下のパレスチナの大土地所有層は、ヘロデ大王とその息子たちが行なったように、莫大な貢ぎ物をローマの支配層に贈っていました。だから彼らの中には、陰で買い占めを行なって物価をつり上げ、生活苦のために土地を手放さざるをえなくなった農民から土地を安く買い上げて、農民たちを小作人にすることで、所有地を拡大し利益を上げる者たちもいました。
[17]【思い巡らした】原語の意味は「自問自答する」ことです。このような「独り言」は演劇では「独白」(monologue)と呼ばれて、劇の主人公が自分の胸の内に潜む悩みや心の葛藤などを観衆に明かす手法です。それは同時にその人の内面に潜む性格を露わにする効果を伴います。ルカ福音書ではこの手法がしばしば用いられていてルカ文学の特徴の一つとされています(16章3~4節/18章4~5節/同11~13節)。
【しまっておく場所】原文の意味は「1箇所に集積して蓄えておく」ことですから、この土地所有者は収穫した多量の穀物を集めて農場経営にあてようとしたのでしょう。
[18]【倉を壊して】彼がもくろんだのは、現在の倉庫を取り壊して「もっと大きい」ものを建造することです。すでに従来の倉庫で十分間に合っているのに、彼はわざわざこれを取り壊してさらに大きな蓄えをもくろんでいるのです。穀物を収穫して蓄えることも、さらに大きな倉庫を建造して収穫を集積することも、人間的に見ればなんら非難に値する行為ではありません。しかし彼は「わたしの倉庫」「わたしの穀物」と「わたしの」を繰り返していますから、彼の本心が、成功した利益をさらに大きな成功と利益へ結びつけようとする独占欲であることが示唆されています。ルカ福音書ではこの話が12章33~34節の「貧しい人たちへの施し」へつながりますから、この点にこの金持ちの不正と罪を洞察しているのです。
【すべての穀物や財産】「わたしの産物/収穫全部を」あるいは「わたしのすべての産物と善い物(財産)を」などの異読があります。「収穫」とは主としてぶどうの収穫を指す場合が多いのですが、ここでは穀物も含めています。また「善い物」は「財産」の意味にもなり、「穀物の収穫/産物」を指す場合もあります。「すべての穀物と産物/財産」はやや異例な言い方ですから、後にこれが「すべての産物と善い物)」のように書き換えられたのでしょう〔プランマー『ルカ福音書』324頁〕。
[19]【自分に言った】辞義通りには「わたしのプシュケー(魂/命)に言おう」です。「魂」は特にその人の喜びや満足が宿るところですが〔プランマー前掲書〕、これを20節の「彼自身に」と同じ意味にとる説もあります。「自分の心に言って聞かせる」ことで「自己満足の快楽的な安逸」〔ボヴォン前掲書201頁〕を図ったのです。
【一休みする】原語は「仕事を中断する/休息する」ですが、ここでは「気楽にする」「もう大丈夫と安心する」ことです。"take life easy" 〔REB〕.
【食べたり飲んだり】この金持ちは明るい未来を予想する自己欺瞞に浸っていたのでしょう。19節に対応する言い方として、イザヤ書22章13節では、敵に襲われて滅亡するのを間近に控えたエルサレムの住民たちが、神を忘れて「明日は死ぬのだから」とつかの間の快楽にふける様子がでてきます。コヘレトの言葉8章15節には、「善人が悪人にされ、悪人が善人の報いを受けるむなしさ」を想って「飲み食いして楽しめ」とあります。また、第一コリント15章32節でパウロは、人間的な動機だけでいくら努力しても、神による復活が存在しなければ、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という生き方になると指摘してから、復活を信じない人の「思い違い/自己欺瞞」を戒めています。今回の箇所でも、「神の御前に豊になる」(20節)とあり「天に宝を積む」(33節)とあるように、イエス・キリストにある「永遠の命」とこの金持ちの想いを比較対照させています。
[20]【神は】全く突然「神の声」が入り込んできます。これは彼にとって予想もしなかったことです。「今夜」は強められていて、直前の「これから先何年も」と対照されています。なお「今夜」を終末的に理解して、「終わりの時」とする解釈もありますが、そうではなく、その人の人生の終わりのことです。だからこれは、その人だけの私的な「死の出来事」を指します。
【取り上げられる】原文は「(彼らは)お前の命を取り上げる」で、「取り上げる」が3人称複数現在形です。このために主語は「死の天使たち」ではないかという説もありますが、通常ここは「神の業」として受動態に訳されています。「取り上げる」という動詞には、神から一時「貸し与えられた」命を神が再び「取り上げる」という含みを持たせる訳もあります。"This very night your life is being demanded of you." 〔NRSV〕。「お前の命(プシュケー)」とある「命」は先の「自分の魂に言う」の「魂」と同じで、ひたすらため込んだ「自己目的」が一夜にして消え失せることです。
【愚かな者】「自分の遺産相続の遺言に、自分の名前を相続人として書いた」というユダヤの愚か者の例があります。旧約では自己中心の独占欲のために他者との分かち合いを忘れることを「愚か」と呼んでいます(シラ書11章18~19節)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)202頁〕。ただし、今回の箇所でも、神は人に恵みを与え「実りを豊かにもたらす善い神」であることを忘れてはならないでしょう〔前掲書203頁〕。だから、その恵みを「つかの間の」自己の利得への欲望のために歪めて誤用する「愚か」に陥ったと見るべきです(詩編39篇6~7節)。
 ルカ福音書には「愚かな(者)」(アプローン)という形容詞(名詞)が2度でてきます。「外側の器をきれいにして、内側を貪欲と邪悪で満たす愚か者たち」(11章39~40節)と、今回の「自分のために善い物を蓄え、神に向いて無価値になった愚か者」です。また用語こそ異なりますが、「聖書を読んでも心の悟りの鈍い者」(24章25節)も「無知/愚か」と呼ばれています。この金持ちが考える経済と快楽の二つの論理は、世間的に見れば正常でしょう。だから、ルカ福音書で言う「愚か」は、自分に与えられた「善い神」からの善い物を、神の真意を悟らず、強欲のためにせっかくの恵みを歪める者のことです。これはイザヤ書32章6節の「愚かな者は愚かなことを語り、その心は災いをたくらむ。神を無視し、主について迷わすことを語り、飢えている者を空しく去らせ、渇いている者の水を奪う」とあるのに通じます。
[21]21節が抜けている5世紀頃の写本がありますが、おそらく見落としでしょう。逆に「「(イエスは)こう言われてから叫ばれた。『耳のあるものは聞くがよい』」が付加されている異読もありますが、これは後世の加筆です〔新約原典テキスト批評160~61頁〕。
【自分のために】他の人々を無視したことを指します。
【神の前に豊かになる】「神の御前に豊かで<ある>」ではなく、「豊かに<なる>」と言われているのに注意してください。神から与えられる人の命とは霊的な性質の「永遠の命」のことです。これは「持っている」ものではなく、この世で、神の御前に日々歩むその中で徐々に形成されていくものです。こういう歩みは、今回の金持ちの生き方と対照的です。彼には、神も神が備えてくださる永遠の命も全く見えません。だから「はかない己の安逸のために、神からの永遠の命を失う愚か者」だと言えます。もう少し厳しく言うと「神の豊かな恵みを悪用して、一時のはかない利得を独占しようとする貪りのあまり、他の人たちの生きる術を犠牲にしてはばからない愚か者」ということになります。
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