137章 悔い改めか滅びか
ルカ13章1〜5節
【聖句】
■ルカ13章
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
                       【注釈】
                       【講話】
■悔い改める
 「悔い改め」を「反省する」ことだと思って、これは自分がやらなければならない。こう誤解している人たちがいます。また「悔い改め」を「心を入れ替える」ことだと考えて、自分の精神や想いを変えようとする人も多いようです。「悔い改める」とは、神様のほうへ「向きを変える」ことですから、これは心や精神のことだけでなく、わたしたちの体も心もともども神様のほうへ向かう、すなわち<歩み寄る>ことです。だとすれば、悔い改めは、何か<特殊な>心理的変化があなたに起こることではなくて、単純に「神様を信じよう」、こう思うだけでいいのです。こう思って聖書を読み出す。あるいは神様の御言葉を聞くために集会へ向かう。これで立派な「悔い改め」なのです。なぜなら、あなたは神様の方へ「向いている」からです。疑いやおそれや疑念、様々な思惑が心に湧くかもしれません。それでもあなたは神様のほうへ向いて歩いているのですから、あなたの「体は」悔い改めのほうへ歩んでいます。ルカ15章の放蕩息子のたとえ話を読んでみてください(特に17〜20節)。
 だから、なんにも特別なことをしなくていい。なんにも感じなくてもいい。<ただそれだけの>行為です。だから、特に理由がなくても、黙って聖書を読み始める。何もしないで、ただイエス様に自分の想いを打ち明ける。これで立派な「悔い改め」です。祈りと御言葉、これさえあれば、神様とその御子イエス様へ向かう「悔い改め」は立派に成り立つのです。「あなたが神様のほうへ向かえば、神様もあなたのほうへ向きを変えてくださるよ」と言われているのはこの意味です。あなたが神に対する態度を変えることではない。神があなたに対する扱いを変えること、これが大事なのです。
 だから「悔い改め」は、あなたの主観的な想い入れや思いこみではなく、はっきりと行動で現われる「出来事」です。これを忘れないでください。このことに気がつくならば、あなたが何を思おうと何を感じようと、御言葉を聞こうとして聖書を開く、あるいは集会に出かける。この事態がすでに、神様からの<働きかけ>だと言うことが分かります。なぜなら、聖書の神様は<出来事を通して>お語りになる方であり、「出来事」こそ、神が現実に語っておられることを証しするからです
 だからパウロは、「悔い改め」を、人が何一つそれらしいことをしていなくても、不信心だろうと罪人だろうと、ただあるがままそのままで神様によって招き入れられること、これをイエス様を通じて神が働いてくださる「恩寵」だと言うのです(ローマ5章6〜8節)。「だれでも、主イエスのみ名を呼び求める者は救われる」と言うのです(同10章13節)。
 「そんなことで自分の罪が赦されてたまるか」、こう思う人は二つの思い違いをしています。一つは、自分の罪は、<自分の力で>悔い改めることができるほど、「たいしたことではない」、こう思い込んでいることです。「あなたの罪」は、あなたが自分で努力すれば取り除くことができるほどあまいものではないのです。もう一つの思い違いは、そんなことで自分の罪が赦されて取り除かれるのか? と神様のお働きをあまく見て、神様を見くびっていることです。神様に向きを変えて歩み始める行為は<出来事>ですから、ほんとうに神様が居られて、働いてくださるかどうか、このことが、かかっています。神様が現実にお働きになる出来事がかかっています。実は、あなたが神様のほうへ向きを変えるというその出来事、それ自体がすでに神様のお働きから出ていること、このことを悟ってほしいのです。
■悔い改めの時
 今回の箇所では、二つの出来事が悔い改めの「時」として警告されています。ガリラヤ人の虐殺事件とシロアムの城壁の櫓の倒壊事故です。このように、「何時」悔い改めるのか? 神様から示された「時」がとても大事なことが分かります。「時」とは「時間」のことではなくて、「その時その場」と関連します。 様々な出来事があなた自身とその周辺で起こる、それらの出来事が、あなたに悔い改めを迫るのです。だからその「時」を逃すなら、大事な悔い改めの機会を逃すおそれがある。このことも今回の箇所は警告しているのです。今回の箇所では、このように「時」と「出来事」と「悔い改め」が結びついていますから、不幸に陥った人は「罪人の負け組」で、幸運な人は「善人の勝ち組」だというように、「勝った負けた」のシーソゲームのことではないことが分かります。人は「滅びる」のか、「永遠に生きる」のか、これが悔い改めにかかっているほんとうの意義ですから。
 神は人に出来事を通してお語りになります。現在この国で、政治的経済的な出来事だけでなく、一昨年(2012年)の東北関東大震災と大津波、これに伴う福島の原子炉の破壊と放射能汚染の出来事、その後の自民党の圧勝により憲法改正と靖国参拝、教育行政の見直しなど、日本の国は今大きく方向を変えようとしています。この方向転換に対して、韓国と中国から厳しい批判が浴びせられ、アメリカ政府も懸念を抱いていると報じられています。国の内外が今大きく変わりつつあります。わたしたちの国と日本人は、これからどの方向へ向かうのか? 今の時に、このことがわたしたちに問いかけられています。これらの出来事もまた、神が日本人に向けて悔い改めを「迫っている」しるしではないか。わたしはこう思っています。「時」はあなた一人の時ではなく、家族の時であり、日本人の時であり、アジアの時であり、人類全体の時でもあるからです。
 今回の箇所でイエス様は、聞いている人たちに終末での神の裁きの「時」を思い出して悔い改めを迫っているという解釈がありますが、一方では、40年後に迫っていたユダヤの滅亡とエルサレムの破壊のことをイエス様は警告されていた。こう解釈する人もいます。出来事を神様からの語りかけの「しるし」と見て、その「時を見分ける」知恵と洞察もまた悔い改める大事な要因であることを悟ってほしいのです。神様は確かに、2014年2月の今、この国の民に何か大事なメッセージをこれらの出来事を通して語りかけ、警告しておられる。わたしは今こういう思いを強くしながらこれを書いています。
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