【注釈】
■イエス様語録とルカの独自資料
 前章は「愚かな金持ち」(ルカ12章13~21節)で、これはルカ福音書の独自資料(L)からでした。今回の「悔い改めか滅びか」と次回の「我慢強い園丁」も同じ独自資料からです。今回はルカ13章1~5節ですから、ルカ福音書では、前回の「愚かな金持ち」と今回の間に、「思い悩むな」(12章22~34節)/「目を覚ましている僕」(35~40節)/「忠実な僕と不忠実な僕」(41~48節)/「分裂をもたらす」(49~53節)/「時を見分ける」(54~56節)/「訴える人と仲直りする」(57~59節)など長い部分が入ることになります。これらの部分はどれもマタイ福音書と並行していて、しかもイエス様語録(Q)が、ほぼこの通りの順序になっています。
 ルカ福音書はマタイ福音書に比べると語録集に忠実ですから、ルカは、「愚かな金持ち」と今回の「悔い改めか滅びか」と「我慢強い園丁」などの独自資料を語録集からの部分を囲むように(逆に言えば語録集の間に)挿入しているのが分かります。マタイ福音書では、ルカ福音書の語録のこの部分が、マタイ6章19~34節/24章45~51節/10章34~36節/16章2~3節/5章25~26節のように、山上のイエスの教えとガリラヤ伝道での教えと終末に関する教えに分けて配置されていますから、マタイは独自の編集で語録を用いています。
■ルカ13章1~9節について
 ルカは「悔い改めか滅びか」を直前の「訴える人と仲直りする」と直後の「我慢強い園丁」の間に置いて、この三つを「悔い改め」の主題で結んでいると言われています。このために、多くの注解では、13章1~9節を一まとめにして扱う場合が多いようです〔マーシャル『ルカ福音書』552頁以下〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1003頁以下〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)263頁以下〕。
 しかし、ほとんどの訳は、これら三つを区切って小見出しを付けています〔新約原典〕〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕〔NRSV〕〔REB〕。これは、「悔い改めか滅びか」と「我慢強い園丁」の二つがほんらい別個の伝承だったからでもありますが〔ボヴォン前掲書265頁〕、「仲直りする」はイエスの教えであり、「悔い改めか滅びか」はイエスの言葉を核にした歴史的出来事であり、「園丁」はたとえ話ですから、三つそれぞれに様式が異なります。内容的に見ても、「悔い改めか滅びか」は厳しく悔い改めを迫るのに対して、「我慢強い園丁」のほうは、結実を待つ「慈悲と執り成し」を伝えていますから〔フィッツマイヤ前掲書1004頁〕〔ボヴォン前掲書265頁〕、両者の結びつきが見えにくいところがあります。したがって、この二つの記事は切り離して、今回は「悔い改めか滅びか」を、次回は「我慢強い園丁」を扱うことにします〔Dewey. The Gospel Parallels.128 〕。
■注釈
[1]【何人かの人】エルサレムへ巡礼に来ていた人たちのことでしょう。彼らが、エルサレムでの最近の出来事をイエスのもとへもたらしたのです。
【ピラト】ポンテオ・ピラトは、当時ローマ皇帝の直属州であったユダヤ地区の代官(プラエフェクトール)としてほぼ10年間その任についていました(在位26~36年頃)。彼のことは四福音書のほかにヨセフスの『ユダヤ古代誌』(18巻2章/3章/4章)にでてきます。彼の在任中に、皇帝の胸像を象(かたど)った紋章のついた軍旗をエルサレムへ持ち込んだために起きた騒動、彼が神殿の聖なる献金をエルサレムの水道工事にあてたことから、これに憤激したエルサレムの住民たちをローマ兵たちが棍棒で殴り殺した事件、サマリアのゲリジム山に集結した多数のサマリア人を虐殺したため罷免に追い込まれるなどの事件がありました(詳しくはコイノニア会ホームページ→聖書講話→四福音書補遺→「ポンテオ・ピラト」を参照)。しかし、今回のルカ福音書の記事にあたる出来事は記録に残されていません。
【ガリラヤ人の血を】「ガリラヤ人たちの血を彼らの(彼らが献げる)犠牲の動物の血と混ぜ合わせた」ということですから、ピラトが軍隊に命じてガリラヤ人たちを虐殺し、その血をエルサレム神殿で献げる犠牲の動物の血と一緒に混ぜたのでしょう。この行為は、一つには人間の血を動物の血と混ぜ合わせること、今ひとつは、こともあろうに神聖な神殿の境内でそのような虐殺を行ない、さらに神聖な犠牲行為を汚したことですから、これらはユダヤ人たちが最も忌み嫌う神殿への冒涜です。
 ここで「ガリラヤ人」とあるのは、当時の過激派のゼロータイ(熱心党)のことではないかという見方があります。ガリラヤの北部は山岳地帯で、過激な熱心党が潜み隠れて反政府活動をする場所として利用されましたから、彼らのことを「強盗」だとか「ガリラヤ人」と呼ぶことがあったのです(使徒言行録5章37節参照)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)267頁〕。ただしここでの「ガリラヤ人」をゼロータイと結びつける見方を否定する説もあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1006頁〕。
 今回の出来事は過越祭の前日にエルサレム神殿で起こったという見方が多いようです〔ボヴォン前掲書〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1006頁〕。過越祭の時だけは、一般人が自分で犠牲の動物を殺してその血を祭司に渡して祭壇に献げることが許されていました。また、過越祭はデモや暴動を起こす機会として利用される場合があったために、普段はカイサリアに居たピラトも、この時期にはエルサレムのヘロデの宮殿にいて、アントニア砦のローマ兵に厳重な警戒を命じていたと考えられます。事件は神殿の境内で起こったようで、警護のローマ兵が、不穏な動きを見せた「ガリラヤ人」たちを境内で虐殺し、事もあろうにその血を彼らが神殿で献げようとする聖なる動物の血に混ぜ合わせたのです。
 今回の記事から見ると、この時イエスはエルサレムにいなかったことになります。ヨハネ福音書によれば、イエスの伝道活動期間は、三度の過越祭にわたる3年近くだったことになります。だとすれば、この事件はイエスがエルサレムへ上らなかった2年目の過越祭のことになりましょう。これは29年のニサンの月の14日(現在の4月中頃)だという推定さえあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)267頁(注)30〕。ただし、人々が自分で犠牲を献げている最中に、神殿の境内の他の場所で「ガリラヤ人」たちの虐殺事件が起きたことを指して、「ピラトがガリラヤ人の血を犠牲の動物の血と混ぜた」という比喩的な言い方をしているのではないか、という見方もあります〔マーシャル『ルカ福音書』553頁〕。
[2]~[3]災難に遭った】何らかの「災難に遭う」ことが、その人の隠された罪に対する神からの罰であるという考え方は、どの宗教にもある普遍的な見方ですから、イエスの頃のユダヤ教ファリサイ派の教義でも人の罪と神からの罰について同様のことが言われていました(ヨブ記4章7~8節参照)。だから、先祖の罪をも含めて「罪深かったから災難に遭った」というのが、パレスチナでも一般的な考え方だったのでしょう(ヨハネ9章2節を参照)。しかしイエスは、今回の箇所でこの考え方を「特に災難に遭った人」だけに限定せずに、3人称から転じて、この知らせを聞いている2人称の「あなたたち」にも適用して、その「罪深さ」を告発するのです。「他人事」とは思わず「我が事」と見なして、「劇場の観客席から立ち上がって、罪と悔い改めを迫る舞台劇の中に入り込んで参与する」〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)268頁〕ことを求めるのです。
【悔い改める】3節のこの言葉は、2節の「罪深い」という形容詞と深く結びついています。2節では「罪の支払い」が、3節では「信仰の有り様」が問われています。ルカ福音書では「悔い改め」が重視され、これが「罪の赦し」と結びついています。「悔い改め」は、メシアとして受難し復活したイエス・キリストからの聖霊による人へ働きかけと、人がこれに応えることで成り立ちます。「悔い改め」とは、「神のほうに向きを変える」ことであり、その結果、愛と信頼の交わりがもたらされることですから、神に向きを変える「悔い改め」と、神から授与される「救い」がセットになっています。人を悔い改めに導くこの働きは、<生前のイエス>に始まります。だから、パウロ書簡に見るように、「罪の赦し」がイエスの「十字架の血による贖い」だけに依存するのではなく、御子イエスの使命とその業全体を通じて神と人の断絶した交わりが回復されること、これがルカ福音書の「悔い改め」と「罪の赦し」です〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)182頁〕。
 ヨハネ9章1節と同様、イエスは今回の箇所でも、罪と罰の「起源」ではなく、人の未来への生き方に目を向けさせます。イエスは、罪に伴う断罪と罰に神の正義があるという見方を否定して、神と人との信頼の交わりに「悔い改め」を結びつけるのです。したがって、「滅びる」とあるのは、終末的な裁きにおいて霊的な死へ堕(お)とされることを指しているのでしょう。ただし、「滅び」をユダヤの国とエルサレムの滅亡と関連づける解釈もあります。
[4]~[5]ルカ福音書では、ガリラヤとエルサレム、権力による虐殺と不慮の倒壊事故のようにペアで語られる特徴があります。「ガリラヤ」と「エルサレム」で、イエスの時代のパレスチナのユダヤ人全体が表わされているのです。
【シロアムの塔】ダビデ王が建設したエルサレムは「ダビデの町」と呼ばれますが、それはモリヤの山(神殿の丘)の南部の高台を囲む丘でした(この町は現在も発掘中です)。ところがここには水源がなく、水源は町を囲む城壁の東側近くにあり、これが「ギフォンの泉」です。ヒゼキヤ王の時代に、アッシリアの侵攻に備えるために、ギフォンの泉からダビデの町の城壁の反対側(南西)まで曲がりくねった地下水道を掘り、ギフォンから城壁の南西にあるシロアムの池まで流れを引きました(列王記下20章20節/歴代誌下32章1~5節)。さらにこのシロアムを囲むように城壁を拡大して、現在のエルサレムの南西のシオンの丘までをも囲い込むように広げました。これがシロアムの貯水池の始まりです。しかし、イエスの頃には、ギフォンの存在が忘れ去られて、ヒゼキヤ王のシロアムが水源だと見なされていたようです〔Yad Ben-Zvi. Jerusalem: a walk through time. Vol.(1). Jerusalem: Yad Ben-Zvi Press (2006).16〕(現在はギフォンの泉近くに「ウォーレンの縦坑」が掘られていて、泉の近くまで降りることができます)。ヘロデ王の頃、このシロアムは、水の聖地として(ヨハネ9章7節)回廊で囲まれていました。シロアムを囲むこの回廊の一部が当時のエルサレムの城壁(エルサレムのいわゆる「第一城壁」)と重なっていたのでしょう。城壁は幾つもの塁壁/櫓(やぐら)(原語「ピュルゴス」「塔」はこの意味)を備えていましたから、城壁の櫓の部分が倒壊する事故が起こり、18人が犠牲になったのです。事故の原因は分かりませんが、ピラトがエルサレムの水道施設の工事を行なったこととこの貯水池の回廊/城壁の倒壊事故を関連づける見方もあります〔マーシャル『ルカ福音書』554頁〕。
【罪深い】原語「オフェイロー」は「借金/負債がある」「負い目がある」で、2節の「ハマルトーロイ」(罪深い)とは異なります。パレスチナでは「罪」が神への「負債/負い目」と見なされましたから、アラム語では同一の言葉が「罪」「負債」の両方の意味で用いられました(マタイ6章12節を参照)。ただしルカ福音書では、この用語がヘレニズム世界の人たちに誤解されるのをおそれて「ハマルタノー(「罪を犯す)」が用いられる場合が多いようです(ルカ11章4節の主の祈りでは、同一のアラム語が「負い目」と「罪」に訳し分けられています)。2節のガリラヤ人では「罪深い人」に「ハマルトーロス」が用いられていますから、今回も、11章の主の祈りの場合と同じように、ルカは2節ではヘレニズム風に訳し変え、4節のほうは伝承された資料のままを用いたのでしょう(反対の説もありますが)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)269頁〕。
【悔い改めなければ】原語の動詞には、現在形接続法(2人称複数)とアオリスト形接続法のふたとおりの読みがあります。アオリスト形だと「今すぐに」悔い改めの行為が迫られることになり、現在形だと悔い改めた状態の生き方をすることになりましょう〔プランマー『ルカ福音書』339頁〕。エルサレムの滅亡が近いことを指すのでしょうか、それとも終末での裁きのことでしょうか。
 神からの厳しい罰と赦しの慈愛は、どちらも神の「全能」を表わしています。ルカ文書にはパウロ書簡に表われる「値なしに罪人を義とする恩寵」による「赦し」が希薄だと言われています。しかし、ルカの「悔い改め/回心」は、神の愛を確信して神の下へ歩み寄ろうとする積極性と、人間の側からも納得しやすい合理性を具えています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)269頁〕。同時にルカは、神への罪がもたらす深刻さとその重大性をも見逃していません(ルカ22章41~43節)。イエスの「十字架七言」の最初に来る「父よ、彼ら(の罪)を赦してください」はルカ福音書だけです。特に今回の箇所では、「回心」が「その時の出来事」と結びつけられているのに注意してください。人に与えられる「回心の時」を逃すなら、滅びが待ち受ける危険性があることを警告しています。イエスの頃のクムラン宗団でも、歴史的な出来事が神からの「託宣」あるいは警告の「しるし」だと受けとめられていましたから、今回も「時のしるし」を洞察して神のもとに立ち帰ることが求められているのです。
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