138章 我慢強い園丁
ルカ13章6〜9節
【聖句】
■ルカ13章
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
【注釈】 【講話】
■たとえの寓意的解釈
今回のたとえで、ぶどう園はイスラエルの民を指し、いちじくの木はその民の拠り所であるエルサレムを表わし、園丁は、エルサレムを中心とする神の民が「実を結ぶ」ように導き努めるイエス・キリストのことだという標準的な解釈があります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1005頁〕。言うまでなくぶどう園の持ち主は「神」です。これは寓意的な "allegorical" 解釈法ですが、この解釈によれば、紀元70年に、エルサレム共々ユダヤの国が滅びたのは、園丁の願いも、その甲斐がなかったことになりましょう。結果としてわたしたちは、ここに神の裁きによる「歴史の厳しさ」を見ることになります。神に選ばれたことを誇るイスラエルの民でさえも、このような厳しさを免れることができないのなら、異邦の諸民族はなおさら容赦なく神の罰を受けることになる。こう想うと「歴史の恐怖」を覚えます。
しかし、こういう過去の歴史を寓意的に解釈するよりも、ぶどう園を人類全体と見て、いちじくの木は個々の人間のことだと解釈すれば、この話は、わたしたち一人一人が、はたして「実を結ぶ」生活をしているかどうか? このために「悔い改めて」イエス様を信じて歩んでいるかどうか? この点を反省させられることになります〔前掲書〕。この解釈は、ヨーロッパ中世以降にでてきたようですが、そのまま現在にもあてはまります。
■時に対処する
今回の話は、いちじくの木と園丁に焦点が当てられていますから、神の厳しい裁きよりも、むしろ見込みに逆らって、なおも未来に希望をつなぐ園丁の執り成しこそ、ほんらいのテーマだと理解することができます〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)277頁〕。この点で、先のガリラヤ人やエルサレムの住民の事例による「悔い改め」への迫りとやや異なります。しかし、先の場合と同様に、今回も、ぶどう園の持ち主の「3度の」訪れや「来年まで」という園丁の願いに見るように、その「時」に示された神からの勧告/警告を伝えている点で共通します。
だとすれば、わたしたちはエクレシアの民は、日本の「今の時」に無関心でおられません。2014年9月現在の日本と、日本をめぐる周辺諸国の状況は、わたしの見るところ「明るい」とは言えないようです。今年を「暗い時代へ向かう節目の年」だと予想した週刊誌がありますが、現在の政権与党である自民党は、秘密保護法案、教育委員会への行政からの関与、集団的自衛権の確保、非核三原則の見直し、憲法改正への準備を進めています。太平洋戦争後の民主主義に基づく日本の国家理念を否定して、民族主義あるいは国家主義とも言える政策へ転換しようとする意図がそこに読み取れます。安倍総理のこれらの動きは、韓国蔑視や中国嫌悪を煽(あお)る一部のマスコミと共に、日本とこれらの隣国を戦争へ誘おうとする危険さえ感じさせます。もしも日本が中国と戦争したら、この国は確実に滅びます。獅子と虎と熊に囲まれた日本犬が、わん、わん、吠えて喧嘩をしかけたら、たちまち八つ裂きにされて、食われてしまいます。
言うまでもなく日本の平和とアジアの平和は一体です。だからわたしたちは、神がこの国の民を護り、アジアの平和を守ってくださることを切に祈り求めるように迫られています。ただし、主イエスを信じるわたしたちエクレシアの民に、社会運動や政治活動が優先的に求められている、という意味ではありません。そうではなく、わたしたちが今最も反省すべきなのは、主の民としての「エクレシア」の有り様です(わたしはあえて「教会」という言葉を避けて、より霊的な意味を持つ「エクレシア」を用いています)。
この国の平和を守り抜くことこそ、日本人のエクレシアに与えられた神からの使命です。
日本人のクリスチャンの数が人口全体のわずか1%に過ぎないことがしばしば採り上げられて、「失敗の原因」などが議論されているようですが、わたしの見方は少し異なります。いわゆる教会員の数が増えないことをわたしは必ずしも日本人のキリスト教の欠点あるいは失敗だとは考えていません。なぜなら、日本人のキリスト教は、確かに江戸時代初期にポルトガルとスペインの宣教師によって、明治以降は欧米各国からの宣教師によってもたらされたものですが、新島襄の創立による同志社とこれに参加した熊本バンドの例に見るように、日本人は、そもそものはじめから、宣教師の伝えようとしたキリスト教をそのまま受け入れようとはせず、自分たちから進んで、キリスト教を「学び取ろう」としたのです。この気風が以後の日本のキリスト教の性格に影響を与えています。日本人のキリスト教が「学ぶ」キリスト教であり、しかもキリスト教を学ぶ人が比較的知識層に多いこと、このために反体制的で個人的かつ知的であり、しかも教会制度にとらわれない傾向など、少数エリートとしてのキリスト教が従来の日本人のキリスト教の特徴だと言えます。大事なのは量よりも質なのです。アジアのキリスト教という、今までどこにも存在しなかった新たなキリスト教圏の誕生を目指すのですから、それなりの準備と霊的な探求が必要なのは当然です。
太平洋戦争以後に日本には主としてアメリカの聖霊運動の流れを汲むキリスト教とカトリックが庶民の間に広まりつつあります。その上ドイツ神学が日本の神学の主流を形成しているという複雑な事情があります。さらに江戸初期のキリシタンの殉教とその霊的伝統も見直されています。こういう土壌から、これからイエス・キリストにある日本人のエクレシアが広がること、これがわたしの抱くヴィジョンです。
■永遠の命とエクレシア
現在のこの国で、日本人のエクレシアの民が、プロテスタントやカトリックや東方正教の垣根を越えて「心を一つにして」祈り求める時が来ています。「これこそ」イエス様の御霊が、現在、日本人のクリスチャンに何よりも切に求めていることであり、<このこと>を今わたしは切実に感じさせられています。イエス様のエクレシアにとって、最も大事なのは、政治活動でも社会運動でもない。ナザレのイエス様を通じて顕わされた聖霊による啓示を信じて、一人一人が、主に用いられて、それぞれが、与えられたその場でその時々に、それぞれの仕方で主様の御栄光を顕わす。ただそれだけです。
御復活のイエス様が、御霊を通じてわたしたちに賜わるのは「永遠の命」です。社会に関心を抱くクリスチャンなら、それでは物足りない、もっと積極的に社会と政治に関与し参加すべきだ、こう考えるかもしれません。しかし、わたしの考えはそうではありません。クリスチャンのとって最も大事なのは、「ほんもののクリスチャンになる」ことだからです。ほんものになれば、イエス様の御霊が働きます。この世のあらゆる営みが、イエス様の与えてくださる御霊の視点から、言い換えると、「永遠の命」に生きる視点から見えてきます。これを「永遠の相の下に観る」と言います。
「永遠の命」などと言うと、自己の内面性に逃避して、社会から目をそらすと批判されるかもしれません。ところが事実はその逆です。霊的な命に歩む人こそ、<今この時に>、自分が何をすべきかを具体的に洞察するだけでなく、それを今の時に実行するからです。永遠は「今の時」にしか啓示されないのです。永遠を知る者が初めて、今の時の意義を知り、今の時を活かすのです。これを「時を贖う」と言います(エフェソ5章15〜16節)。イザヤは唯一の神による絶対平和の終末を霊視しながら、南王国ユダを囲む当時の政治・社会・軍事状勢を的確に洞察しました。パウロもキリストの御霊のある命に己を献げながら、ユダヤ人やユダヤ人キリスト教徒、異邦人キリスト教徒や異邦人の複雑な社会的・宗教的状況の中で、何が福音の益になるかを見抜いて行動しました。
イエス様の御霊にあって歩む者は、たとえ時流にうといクリスチャンでも、自分の周囲に生じている出来事を鋭く洞察するようになります。彼/彼女は、自ずと「時のしるし」に目を留めるように導かれるからです。逆に、時勢に敏感で、社会状勢に関心を抱くクリスチャンなら、今ここで起こっていることのほんとうの意味が、「永遠の相の下に」、言い換えると、神が導かれる人類の歴史の中の一駒として、具体的な様々な現象や事象を冷静な目で読み解くことができるようになるからです。大事なのは、「人の思い」ではなく「神の御心」です。主様の御霊のお導きです。これを忘れ、これを離れると、イエス様がかつて克服された悪魔からの試練に躓いて、悪魔の罠にかけられるおそれがあります(ルカ4章5〜8節)。
御霊はただ否定するだけの霊ではありません。祈りによって、物事・出来事を創りだしていく御霊です。だからこう祈りましょう。
「わたしたちの主イエス様、御名を崇めて感謝します。どうかわたしたちにあなたの御霊を注ぎ、わたしたち日本人のエクレシアを用いて日本の平和をお守りください。韓国と中国のエクレシアの民と心を一つにして、国同士、民族同士の争いを防いで、アジアの平和をお守りください。」
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