【注釈】
■ルカ13章
[6]【たとえ】今回のたとえは、直前の「悔い改め」をうながすための事例と内容的にゆるやかにつながっています。だから、ガリラヤ人やエルサレムの住民のように具体的な例ではなく、12章13節以下の「愚かな金持ち」のように「たとえ」で語られています。「話された」は不定過去形の動詞ですから、「(イエスは)話しておられた」と不特定の時のことを伝えています。
【いちじくの木】ぶどう園にいちじくの木を植えるのはよくあることですから、いちじくの木がその年の初めの実を付ける頃にぶどうの木が花を咲かせるのはパレスチナではなじみの風景だったのでしょう(雅歌2章13節を参照)。
 「たとえ」はこれを聞く人によって、その内容が様々に判断されます。ぶどう園の持ち主が誰のことかは「ある人」とあるだけで漠然と語られます。聞き手は、それが誰かを自分で察知するためです。このたとえは、ぶどう園の持ち主のほうではなく、「いちじくの木」のほうに聴衆の注意を向けさせます。
 「いちじくの木(とその実)」が何を指すのかについては、いろいろ解釈があります。旧約聖書で「いちじくの木」は、滅亡を間近に控えた北王国のサマリア(イザヤ書28章4節)/新バビロニアによって滅ぼされる南王国ユダの政治的指導者や宗教的預言者たち(エレミヤ書8章13節)/荒れ野時代に主に愛されたイスラエルの民(ホセア書9章10節)/滅亡間近の南王国ユダとエルサレム(ヨエル書1章12節)などを表わします。だから、「いちじくの木」は、主に愛されながらも裁きを迎えるイスラエルの民を指す場合が多いようです。ただし、「ぶどう園」が主ヤハウェの民を表わすとすれば、「いちじくの木」は、その指導層など特定のグループを指すという見方もあり、エルサレムを指すという解釈もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)270頁(注)57〕。
 今回のたとえは、ほんらい共観福音書の「(呪われた)いちじくの木」(マルコ13章28節=マタイ24章32節=ルカ21章29~31節)のたとえと重なるもので、そこから派生したのではないかとも考えられますが、確かでありません。「たとえ」としてのいちじくの木は箴言27章18節に「いちじくの木を世話する者は、その実を食べる。主人によく仕える者は誉れを得る」〔フランシスコ会訳聖書〕とありますから、今回のたとえは、箴言のこのたとえを反映しているのかもしれません。
【見つからない】「植えた」は完了形で現在ぶどう園の中に植えられていることを指し、「見つける」はアオリスト形ですから、主人が特定の時に、いちじくの実を食べようと求めた/探したのです。持ち主の言葉は、「見ろ、わたしがここへ実を求めてやって来るようになってから3年になる」です。
[7]【3年もの間】いちじくの木を植えて実が出来るまでの期間を除いて、実を付ける時期になってから3年経ったという意味です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)271頁〕。「この3年間」"for the last three years" 〔REB〕。だから農園の持ち主が腹を立てるのももっともです。教会では伝統的に、ぶどう園の持ち主(神)がこのいちじくの実を求めてやって来たのは3度目だと解釈されてきました。
【切り倒せ】この句の前に「斧をもってこい」を加えている写本があります(ルカ3章9節参照)。
【ふさぐ】いちじくの木は土壌から養分を多量に吸収するので、土地がやせることを指します。
[8]~[9]【園丁】原語の「アンペルールゴス」とは「ぶどう園で働く人」のことですから、ぶどう園の栽培者です。この語は新約聖書ではここだけですが、七十人訳では複数で列王記下25章12節/歴代誌下26章10節/イザヤ書61章5節にでてきます。「答えた」とありますが、原語は現在形で、「そこで彼(持ち主)に答えて言うには~」です。
【木の周りを掘る】パレスチナの土地は石地が多いため、木を植える前に石を取りのけ土をよく耕す必要があります。現在でも、オリーブの木を植えた後で、周囲の土を砕いて雨水を浸透させる必要があります。
【肥料をやる】「肥料」とは人糞などで作った堆肥のことです。肥料を木にやるのは希なことですから、この園丁は、ぶどう園の持ち主に執り成しの猶予を願い求めるだけでなく、このいちじくの木への愛情から、実を結ぶために努力することで、自分と木の関わりを強く印象づけています。
 エイレナイオスは2世紀後半のリヨンの司教で、小アジアのスミルナの司教ポリュカルポスの弟子です。彼は「3度の訪れ」とは預言者たちによるユダヤへの警告であり、「いちじくの木」は、滅びたユダヤを指すと解釈しました。アンブロシウス(339頃~97年)は、いちじくが年に2度実を付けることから、一度目はユダヤの会堂が結ぶ実、2度目はキリスト教会が結ぶ実のことだと解し、神による3度の訪れを、それぞれアブラハムとモーセと乙女マリアへの神の訪れの時だと解釈しました。アレクサンドリアの司教キュリロス(370/80年~444年)は、いちじくはイスラエルを指すと見て、3度の訪れはモーセとアロン/ヨシュアと士師たち/洗礼者ヨハネの時としました〔プランマー『ルカ福音書』340頁〕。5世紀頃までは、このように「いちじくの木」はユダヤ教の会堂あるいはイスラエルの民のことで、園丁はこれを悔い改めに導こうとしたイエス・キリストのことだと解釈されました。中世以降では、「ぶどう園」は「教会」を表わし、「いちじくの木」は悔い改めを必要とする個人の魂であり、園丁は教会の指導者たちだと解釈されました。近代では、ぶどう園を人類に、いちじくの木をイスラエルの民に、園丁をキリストにたとえる解釈が一般的なようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)273~75頁〕。
【それでもだめなら】「そうすれば来年は実を付けるでしょう」とあって、園丁はこの木に希望をつないでいるのがわかります。「もしもそれでもだめだったら」は、結びの「切ってください」と共に、神の慈悲とその厳しさが表裏を成している様を表わします(ローマ11章16~24節を参照)。なお「切り倒してください」とあるように、園丁は自分から切るのではなく、どこまでも持ち主(神)の意向に従うことを約束しています。後年、弟子たちはこのたとえにイエスの役割を見いだしたでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』556頁〕。
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