【注釈】(Ⅰ)
■受難物語
【受難物語について】
 今回の箇所から「受難物語」に入ります〔『四福音書対観表』276頁〕。王や后(きさき)など身分の高い人、道徳的・宗教的に偉い人、英雄と見なされる有名人などの最後の様子は、古代から伝説として語り継がれています。しかし、これを「歴史」として、文書の形で著わしたのは、ギリシアのヘロドトス(前495年~前430/29年)が最初だと言われています。ただし、イスラエルには、モーセ五書(創世記から申命記まで)などの叙事物語を文書として著わした「ヤウィスト」(前7世紀末~6世紀の捕囚期の頃か)と呼ばれれる人がいますから、もしこれが正しければ、彼のほうが、ヘロドトスよりも先になります。両者のつながりは分かりません。
 ヘロドトスは、ギリシアとペルシアの戦争などを扱うその『歴史』において、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王(在位前559~前529年)やカンビュセス王(在位前529年~前522年)の伝記を記(しる)しています。ただしこれは、王の最後を見届けるものですから、「受難」を告げるものではありません。
 偉人や英雄が、その「正しさゆえに」死にいたるのが「受難」ですが、受難物語として、ギリシア・ローマ世界で、当時広く知られていたのが、ソクラテスの死(前399年?)を扱うプラトンの『ソクラテスの弁明』(前387年頃)です。
 時代的に見て、これに継ぐものに、預言者ゼカルヤの受難物語があります(歴代誌下24章)。歴代誌下(前350年頃?)によれば、南王国ユダのヨアシュ王(前835年生まれ~前796年)の高官たちは、偶像礼拝を批難する祭司ヨヤダの子ゼカルヤを王の命令を受けて神殿の庭で石打にして殺したとあります。歴史の出来事に基づくこの受難物語は、ヘロドトス(とプラトン)から影響を受けていると指摘されています〔コリンズ前掲書629頁〕。
 イエスを始め、新約聖書の記者たちにも大きな影響を与えた受難物語では、ダニエル書があります。ダニエル書のアラム語の部分は(前164年頃?)その2章と4章後半~7章28節で、そこで語られている出来事は、前6世紀~前4世紀半ばのペルシア時代から、前4世紀半ばから前2世紀半ば頃のヘレニズム時代にかけての出来事です。これらの時代から伝わる諸伝承が、ダニエル書の著者によって物語として編集されました。ダニエル書の受難物語でよく知られているのが、火の炉に投げ込まれた3人の話と(ダニエル書3章)、獅子の洞窟に入れられたダニエルの物語です(同6章)。ただし、ダニエル書の受難では、これらの人物は死にいたらず、逆に、ペルシア王が、イスラエルの神を賛美するという結末、”happy end”を迎えます。
 これに対して、その正しさゆえに権力に裁かれて、殉教を遂げる物語は、第二マカバイ記(前124年~前63年の間)です。語られているのは、ギリシア系の暴君アンティオコス4世エピファネス(在位前175年~前164年)によるユダヤ教弾圧の際に起こった出来事です。第二マカバイ記6章のエレアザルの殉教と、同7章の「七人兄弟の殉教」は、イスラエルにおいて、神の律法に従うゆえに殉教するモデルとされます〔George E. Nickelsburg. "The Genre and Function of the Markan Passion Narrative."(1972)〕〔コリンズ前掲書628頁〕。
 紀元前のユダヤにおける受難物語について、欠かせないのが知恵の書です(前88年~前30年の間にエジプトのアレクサンドリアで)。特に、知恵の書2章には、「貧しく正しい人たち」の生き方を嘲る不信心な者が、「神の子と呼ばれる正しい人」を嘲りののしる言葉が記(しる)されており、同5章には、「知恵の人」であり「正しい人」の最後を見届けた「不義の者」たちが、義人の死後、その正しさが神によって人々に「立証される」のを目撃して、慌(あわ)てふためいて「恐怖におののく」有様(ありさま)が描かれます。神の業によって、このように「義人の死と彼の正しさが証しされる」ことを英語で「ヴィンディケイション」"vindication"と言います。知恵の書は、紀元1世紀以後のユダヤ人に大きな影響を与え、イエスは「知恵の子」と称されます(ルカ7章35節参照)。イエスの弟子たちも、原初キリスト教会以後の四福音書の記者たちも、「御霊の知恵」の影響を受けています〔コリンズ前掲書627頁参照〕。イエスの受難物語は(37年頃に成立か)、以上のような受難物語の影響を受けていると思われます。これが「前マルコ受難物語」へと受け継がれ、マルコ福音書の受難物語が成立したのでしょう(70年頃)。
 さらに今ひとつ、近年注目されている文書があります。「アレクサンドリア市民の言行録」で、これは、まとまった文書ではなく、19世紀末から20世紀にかけて、20以上のギリシア語のパピルス(文書の断片)から知られるようになったものです。ドイツの聖書学者ウルリヒ・ヴィルケン(Ulrich Wilcken)によって初めてまとまった形で出版されました(1909年)。
 これらの文書断片から推定すると、「アレクサンドリア市民の言行録」は、編集と創作を経ているものの、紀元41年頃から2世紀初頭にかけて起こった歴史的出来事に基づくものです。当時、エジプトのアレクサンドリアの市民たちとローマ政府(と皇帝)とは、緊張した対立関係にあり、このために、アレクサンドリアの市民たちの中には、ローマ皇帝によって裁判にかけられたり、処刑される人たちも出ました。この言行録は、その際の両者のやりとりを記録したものです。その記録には、「しるしや不思議」が生じたこと、アレクサンドリアの市民が、(皇帝への)侮辱罪で訴えられたこと、死刑の判決を受けたこと、その後でも皇帝から再び呼び戻されたこと、少数の者は「最期を遂げた」ことなどが記録されています。この文書は、「異教徒の殉教伝」として、同時代の福音書の記者たちにも影響を与えたと考えられます〔コリンズ前掲書633~34頁。(脚注)118〕
 なお、四福音書以後のキリスト教の受難物語としては、小アジアのスミルナ(現在のトルコ西岸のイズミール)の主教の殉教(155/6年の出来事)を扱った『ポリュカルポスの殉教』(ラテン語)があります。ここで初めて、ギリシア語の「マルトス」(目撃したことを証言する人)が、その「証言/証(あか)し」ゆえに死にいたる「殉教者」(英語の"martyr")の意味で用いられまし
【東洋の受難物語】
 ここで注目したいのは、東洋における受難物語です。仏教には、「慈悲の心ゆえに、自らの身を捨てて他者を救う」という物語があり、これは、聖書の受難物語に近いと言えましょう。
 釈迦が入滅したのは前383年頃のことですが、釈迦の入滅を語る物語は、弟子たちに囲まれた穏やかな「往生極楽」ですから、「受難物語」とは言えないようです。仏教的な慈悲の心から身を捨てる死を扱った物語は、釈迦の入滅のかなり後で、インドで大乗仏教が興る頃(紀元100年頃)にできたと思われます。
 大乗仏教の経典の一つに『金光明経』(こんこうみょうきょう)があります(4世紀頃)。これは、曇無識(どんむせん)が、412年~421年にかけて漢訳した経典で、そこに、薩?(さった)太子の「捨身飼虎」(しゃしんしこ)の物語が出ています。
 仏教は、4~5世紀には、中央アジアの大月氏国を経由して、後漢と北魏から、高句麗、新羅、百済などを経由して、大和朝廷にも伝わりました。だから、日本では、曇無識(どんむせん)が漢訳した『金光明経』(こんこうみょうきょう)は、聖徳太子(574年~622年)の知るところとなり、太子を祀る法隆寺(607年建立)の玉虫厨子(たまむしずし)(740年頃に記録がある)に、捨身飼虎の図が描かれています。あらすじは次の通りです。
 「インドに大事(だいじ)王という王様が居て、三人の皇子が居ました。三人は、森で、七匹の子供を連れた虎が餓死寸前の状態にあるのを目にします。二人の兄が背を向けて立ち去ると、末の弟の大勇(たいゆう)は、『大慈悲の心で我が身を捨てて他を救おう』という想いから、虎の親子に食べさせるために我が身を与えた」という物語です〔薬師寺の公式サイトから。館主の加藤朝胤(かとうちょういん)による「捨身飼虎」を参照〕。
 この物語は、中国の西方地域にある敦煌(とんこう)の遺跡にも描かれていますから、インドで大乗仏教が興った頃から中国へ伝わった物語だと思われます。大乗仏教は、日本で言う浄土真宗の始祖になりますが、紀元100年頃に生まれたと言われる大乗仏教は、時期的に見れば、パレスチナのキリスト教が、東方へ伝わった時期と重なります。大乗仏教の「赦しと慈悲」の思想は、十字架の罪の赦しと慈愛がインドに伝わって生じたのではないか? という見方がありますが、そうだとすれが、浄土真宗は、イエス様の福音とつながることになりましょう。
 『日本書紀』(養老4年/720年に完成)第七巻に、景行天皇(在位4世紀始めから中頃まで)の御代(みよ)の40年目の冬の出来事として、草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)を身に帯びた日本武尊(やまとたける)の話が出ています。彼は、東国へ(現在の神奈川県から千葉県にかけて)、征伐に出かけますが、「海を望(おせ)りて」とあるから、上総半島に渡ろうと現在の浦賀水道を見て、「こんな海、走って跳んで渡れる」と大言壮語します。ところが、「暴風忽(あらきかぜたちまち)ち起こりて、御船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて、え渡らず」という事態になります。日本武尊(やまとたける)に付き従ってきた弟橘媛(おとたちばなひめ)は、「妾(おみな)」とありますが、『古事記』(和銅5年/712年に完成)によれば「お后(きさき)」のことです。彼女は、「王船(みふね)没(しず)まんとす。是(これ)必(ふつく)に海神(わたつみ)の心(しわざ)なり。願わくは賤(いや)しき妾(やっこ)が身を、王(みこ)の命(おほみいのち)に贖(か)へて海(うみ)に入(い)らむ」と述べて入水したところ、「暴風(あらきかぜ)即(すなわち)止(や)む」とあります〔坂本太郎・家永三郎他校注『日本書紀』(2)岩波文庫(2018年)96頁〕。なお、弟橘媛(おとたちばなひめ)のこの物語は、彼女が詠んだ歌と共に、『古事記』の「中つ巻」にある景行天皇(4)「小碓命(をうすのみこと)の東伐」にも出ています。これらは、ほんの一、二例ですが、東洋にも、聖書の「受難物語」に類するものがあることを示すものです。
【マルコ福音書の「前資料」】
 共観福音書の受難物語には、マルコ福音書の受難物語の基になった「前マルコ受難物語」(the pre-Markan passion narrative)の存在が想定されています〔以下の記述は主として、Adela Yarbro Collins. Mark. Hermeneia. Fortress Press.(2007)621--639.に準拠しています〕。イエスの受難は、イエスの十字架刑(30年頃)の直後から語られ始めて、37年頃までには、「受難物語」として、口伝の形で成立していたと思われます〔コリンズ前掲書622頁〕。
 ドイツの聖書学者カール・シュミートは、マルコ(とマタイとルカ)は、原初のキリスト教会から伝えられた受難物語を、それぞれに拡大し編集したと考えました(1918年)。口伝による最古の短い受難物語は、ユダの裏切りとイエスの逮捕に始まり、イエスの十字架とその死、十字架後のイエスの弟子たちへの顕現で(マルコ16章13節?)終わっていたのでしょう。ただし、口伝は一様ではなく、例えば、イエスが最高法院で裁判を受ける際に、大祭司の「カイアファ」という名前は、マタイ26章3節/57節とヨハネ18章13節/24節に出てきますが(マタイ福音書とヨハネ福音書とは、直接関わっていません)、マルコ福音書とルカ福音書にはその名前がありません〔Davis and Allison. Matthew 19--28. T&T Clark(1997)436.〕。
 文書としては、まず、受難のごく短い古伝承が存在して、そこから「前マルコ資料」へ拡大され、さらに、マルコによる編集結果になったと想定されています。古伝承の文書は短く、その内容としては、「イエスのエルサレム入城(神殿の清めは含まれない)、最後の晩餐(過越の食事とは断定されない)、イエスの逮捕、(ユダの裏切りも?)、大祭司の尋問(と断罪の宣告?)、ペトロの否認、イエスの十字架と死、埋葬」が考えられます〔コリンズ前掲書623頁〕。
                                    イエスを殺す計画へ