187章 イエスを殺す計画
    マルコ14章1〜2節/マタイ26章1〜5節/ルカ22章1〜2節
【聖句】
■マルコ14章
1さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。
2彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
■マタイ26章
1イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。
2「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
3そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、
4計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。
5しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
■ルカ22章
1さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
2祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
 
                【注釈】(T)
                          【注釈】(U)
 
                【講話】
■江戸幕府の「平和」
 今日(2023年6月14日)の午前8時半から9時半まで、NHKBS3で、徳川家光のキリシタン弾圧について、4人の識者たちが、その是非を論じ合っていました。家光は、日光の東照宮を始め、地方にも多くの寺院を建てて、家康を東照大権現として神格化することで、幕府の権威を絶対化しようとしました。一つには、西の京都の皇室に対して、東の江戸幕府を対等に置くこと。もうひとつは、人間の権力者を超える絶対的なキリタンの神(デウス)への信仰を抹殺することで、幕府の権力を「お上(かみ)」として絶対化することでした。
 江戸時代250年の平和のために、家光のこの選択は正しかったのか? 番組では、こう問いかけられて、その是非をめぐって、四人が二つに分かれました。家光のこの政策のために、キリシタンは、世界でも類を見ないほどの過酷で徹底した江戸幕府の弾圧を、なんと250年にわたって受け続け、その過酷で徹底した弾圧を仏教徒に「変装して」堪え忍び、不思議にも、なんとかキリシタン信仰を守り抜きました。
 現在、キリシタン信仰は、世界遺産にも登録されていますが、日本では、未だに、津和野の殉教者たちを、まるで、キリシタン信仰を裏切ったかのように「くずれ者」扱いしたり、彼らの驚くべき奥深いキリスト教の霊的な遺産を見抜くことができず、正統キリスト教からの「はずれ者」扱いする心ない識者がいます。
 いわゆる「潜伏キリシタン」が遺してくれた驚くべき「宗教的な」遺産は、「世界でも類を見ない」大きな出来事です。彼ら「くずれ者」こそ、明治以後の日本の民主主義を支えた根源の力であることを洞察したのは、作家の大仏次郎(おさらぎじろう)です(1897年〜1973年)〔『朝日新聞』連載『天皇の世紀』〕。
 江戸幕府は、その権力を絶対化することで諸藩を支配し、その統治を通じて、住民たちを支配し、さらに鎖国によって国の内外への出入りを管理することで、「自由のない平和」を250年間保持しました。薩長によって幕府が倒れ、明治維新になると、欧米の価値観に対抗しようとした日本の政府は、天皇親政を唱えることて、「自由なき」国粋主義を掲げる軍閥の力によって、国内を統一します。
 1945年の敗戦後、日本は、その歴史上初めて、いわゆる「戦後民主主義」と呼ばれる「自由と(国際)平和」を同時に体験することになります。ただし、アメリカのヴェトナム戦争の時に、カリフォルニアのバークレー大学に端を発した戦争反対の若者による人民主義運動が、日本では60年安保闘争として「平和」を揺るがせます。それ以外は、武器を持たない日本の平和と自由は「歴史上希に見る国際規模で」支持されてきました。世界の歴史では、ノルウエー、スウェーデン、デンマークなどの北欧も、スウェーデンとフィンランドとの戦争以後、およそ150年間にわたる「平和な自由」を楽しんでいます。しかし、アジアでは、日本の事例は珍しいです。「民の自由」(民主主義)と「国の平和」は、ことほどさように、両立が難しいです。
■イエス様の「自由」
 イエス様がエルサレムへ入城されたときに、エルサレムの住民は、歓呼して悦び迎えました。過越祭の「祭り」の自由が、イエス様の訪れと一つになって、民の心を動かしたのです。しかし、「この自由」は、長く続きませんでした。神殿制度を支えるエルサレムの指導層による「イエスを殺す」計画が密かに進行していたからです。江戸初期に、キリシタンの祭りが盛んに行なわれるのを見て、密かにキリシタンを「亡きもの」しようと企んだ幕府の政略を想わせます。
 権力を握る独裁者が「民の自由」を危険視するのは、いつの世でも変わりません。だから、権力者は、民から「自由」を奪おうと「謀略」を企みます。イエス様は、イスラエルの民の心を解き放つ「自由」の象徴だったのです。しかも、その「自由」は、「ロバに乗って」民に「平和」をもたらす「貴重な自由」でした。
 イエス様を「亡き者」にしようと企んだエルサレムの指導層は、その30年後に、ローマの権力からの「自由」を標榜するゼロータイ(熱心党)と呼ばれる過激派組織によってローマとのユダヤ戦争に巻き込まれます。その結果、エルサレムは崩壊し、ユダヤは滅び、以後2千年に及ぶユダヤ民族の苦難の歴史が始まります。
■「自由」を脅かすもの
 1948年に、長い間のユダヤ人の念願が叶(かな)って、パレスチナにイスラエルが誕生(復興)しました。しかし、イスラエルは、今もなお、周辺のイスラム諸国に囲まれて、寸土を争う政争を続けています。イスラエルは、国土の平和を守るために核武装して、核武装を目指すイランに備えています。民の自由を求めたウクライナは、現在(2023年6月)、プーチン政権の侵略を受けて国が戦場と化し、ロシアでは、国土の安全を求めると称して民の自由が奪われ、アメリカは、自国とウクライナの民の自由を掲げて、ロシアと闘うウクライナを武器援助しています。中国の政権は、国土の安全を目指すと称して諸民族の自由を奪い、台湾は、民の自由と国土保全と、その両方の狭間に立たされています。
 このように、「自由と平和」の両方を民にもたらすイエスを「殺そうと密かに企てる」権力の魔性は、今もなお、世界規模で「密かに」(?)続いています。「自由」は、これを殺そうとする魔性の「謀略」に脅かされます。権力者が陥る魔性は、自分のほうこそ、「正しく」「法的に正当だ」と称する「謀略」を用います。「祭りを祝う」民の自由が怖いからです。
■謙虚な霊智
 今回の福音書が伝えている出来事は、イエスを殺そうと密かに企む者たちのこの段階では、いったいなにを意味するのか? 目の前で生じている出来事の意味を洞察することができた者は、イエス様以外に誰もいないと言えましょう。弟子たちは、度度(たびたび)受難予告を受けてはいますが、彼らの眼の前の事象の「見えている部分」と「隠れた部分」を察知するのは不可能です。漠然とした「悪い予感」を覚えたかもしれませんが(ルカ18章31〜34節)。ましてや、その「悪い予感」が的中して、イエス様が十字架刑に処され、その後に、復活して、全世界の人々に及ぶ「罪の赦しと恵み」の福音を弟子たち自身が伝えることになろうとは、想像だにしなかったでしょう。
 ことほどさように、今の自分の目の前の物事には、いったいどんな意味が隠されているのか? これを悟るのは、「神ならぬ人の目には」不可能です。新聞、テレビ、SNSなどで、物知り顔に語る識者たちが「ああだ、こうだ」と騒ぎ立てても、その時々の出来事の真の意味を洞察するのは難しいです。物事の意味をその時々に応じて、<自分の必要に応じて>必要なだけ「観て悟る」のは、イエス様の御霊のお働きから与えられる私たちの「謙虚な霊智」によるほか、道がないことを改めて思い知らされます。
                 共観福音書講話と注釈へ