【注釈】(Ⅱ)
■マルコ14章
 マルコ福音書では、今回の箇所にいたるまでに、エルサレムの指導者たち(律法学者)との決別があり(マルコ12章38~40節)、続いて、神殿の崩壊が預言されます(マルコ13章1~2節)。そこから、イエスの受難にいたる「産みの苦しみ」の出来事が始まります(マルコ13章14~24節)。受難の出来事の始まりは、以下に見るように、対称形の構成になっています〔R.T. France. The Gospel of Mark. International Greek Testament Commentary.[NIGTC]Erdmans. UK.(2002).547--48.〕。
(A)過越祭の二日前(14章1節)。
(B)イエスを殺す計画(14章1節)。
(C)香油をイエスに注ぐ(14章3節)。
(B’)ユダの裏切り(14章10節)。
(A’)過越の準備(14章16節)。
[1]【過越祭と除酵祭】イエスの頃のユダヤ暦は、捕囚期の古代バビロニアの暦から、これを受け継いだ捕囚以後のペルシアの暦を受け継ぐもので、太陽年と太陰年と恒星の動きを組み合わせた暦で、さらに、ローマの太陽暦をも加味したものでした。1年は、太陽の春分から始まりますが、「日」と「月」は、新月の運行によります。1年は354日で、12の「月」は、それぞれ新月から新月までで、「1日」は、太陽の日没から日没までです。第一の月は「ニサンの月」で、春分から始まりますから、3~4月になります〔詳しくは、コイノニア会ホーム・ページ→聖書と講話→古代オリエントと旧約時代の暦→「バビロニアとペルシアの暦」を参照してください。〕
  出エジプト12章1~20節には、「主の過越」(出エジプト12章11節)と「除酵祭」(同17節)とが、共に出ています。これによれば、過越祭は次の通りです。
(1)ニサンの月の十日に、家族ごとに「傷のない浄い小羊」を準備します。
(2)ニサンの月の十四日の「夕暮れに」(十四日の午後から十四日が終わる18時までに)、会衆が集まって、たくさんの小羊をイスラエルの民のために、神に捧げる犠牲として屠(ほふ)ります。
(3)十四日が終わる(18時)までに、犠牲として捧げた小羊をそれぞれの家に持ち帰り、その血を家の(入り口の)鴨居に塗ります。これは、神が、エジプトの民に裁き(と艱難)を下(くだ)す時に、主なる神が、家の鴨居の「犠牲の血」を御覧になって、その家を「見過ごし/過越し」てくださり、裁きを免れるためです。
(4)ニサンの月の十五日になると(18時から)、家族が捧げた小羊を丸ごと焼いて、「頭も足も内臓も」家族全員で食べ尽くさなければなりません。その際のパンは、パン種を一切用いない「除酵した」パンでなければなりません。これが、「過越の食事」です。
 除酵祭については、次の定めがあります。
(1)イスラエルの民は、七日間、「種なしパン」を食べなければなりません。
(2)第一日目と第7日目には、仕事を止めて、聖なる集会を開かなければなりません。
(3)ニサンの月の十四日から二十一日まで、除酵を守らなければなりません。

 したがって、ニサンの月の14日からは、「主の過越祭」で、その日から二十一日までの八日間は、「パン種を用いない(除酵の)パン」を食べることになります。マルコ福音書には、「過越祭、そして除酵祭が、二日後になっていた」とあり、ギリシア語としては、やや不自然です。これはおそらく、(口頭の?)セム語から出た言い方からで、「除酵の過越(の食事)」を指している思われます。そうだとすれば、マルコ福音書の「二日後の日」は、(セム語の言い方で)その日を含む数え方ですから、「明後日」のことですから、今回イエスが弟子たちに語っている日は、ニサンの13日になります。ただし、マルコは、(ルカが正しく読み取っているように)ここで「過越」が「間近に」迫っていることを言おうとしているのです。それは、「過越」が「人の罪を贖(あがな)う」ために、「清めの生け贄(にえ)」を主に捧げる祭りだからです(民数記28章22節)。続く14章3節では、ベタニアの女(マリア)が、イエスの受難を予感して、「香油をイエスに注いだ」のでしょう。
[2]【民衆】過越祭に各地から巡礼にエルサレムを訪れるユダヤ人が、どれほどの数か確かではありませんが、18万という推定があります。普段のエルサレムは3万ほどですから、6倍になります(フランス前掲書548頁)。大半の巡礼者たちは、市の郊外で、仮の天幕で過ごしたのでしょう。だから、警備も行き届かず、騒動が起きる危険がありました。イスカリオテのユダが、「群衆が居ない時」(ルカ22章6節)を見計らって、イエスを祭司長たちへ「引き渡す(裏切る)」計画を立てたのもこのためです。1節の「計略」とは、こういう事情を考慮した上のことです。そうだとすれば、「計略」とは、「祭りの間に実行する」ことなのでしょうか(次の節を参照)。
【祭りの間】具体的には、過越祭の全期間(14日~21日の8日間)のことでしょう。しかし、イエスは、実際は過越の最中に捕らえられています。このためでしょうか。ここは、「ひょっとして、祭りの間に騒動があるかもしれない」という異読(ベザ写本)があります。ここのギリシア語には「メーポテ」が使われていますが、ギリシア語の「メーポテ」には、「~しないように」と「ひょっとして、~するかも」と両方の意味があります〔Adela Yarbo Collins. Mark. Fortress Press (2007) 620〕。
 
■マタイ26章
 全体の構成は、イエスによる暗い十字架預言とそれが語られる状況、イエスの敵による陰謀とこれが行なわれる状況という二重性を帯びていて、「過越祭」が両方に共通します〔Davis and Allison. Matthew 19--28. T&T Clark(1997)436.〕。
[1]【これらの言葉】マタイ福音書では、「これらの言葉<すべてを>語り終えた」です。イエスは、オリーブ山で、十二弟子たちと密(ひそ)かに終末の出来事とその「しるし」について語り始めます(マタイ24章3節)。24章~25章で「これらの言葉すべて」を語り終わったとあるのは、終末の説話が終わったことを指すとも受け取れます(マタイ7章28節/同11章1節/同13章53節を参照)〔John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. The Paternoster Press(2005). 1044.〕。しかし、イエスは、もはや語ることをしませんから、マタイ福音書全体の説話の終わりを指すとも受け取れます(フランス前掲書970頁.)。
[2]【二日後は過越祭】
 「二日後」とあるのは、マルコ福音書と同じ原文です(英訳では" two days before" [NRSV][NEB])。しかし、聖書協会訳は「(過越祭と除酵祭の)二日前になった」(マルコ14章1節)と「二日後は過越祭」(マタイ26章2節)とに訳し分けています。ギリシア語の前置詞「メタ」は、時間的、空間的に「後」(あと/うしろ)の意味です。「二日後」は「明後日」のことです。「過越際」は、ニサンの月14日の小羊の犠牲を屠(ほふ)る日で<始まる>と考えられますが、「除酵の過越の食事」は、ニサンの月15日のことで、屠(ほふ)られた犠牲の肉を「食べる過越の食事の日」です〔デイヴィス前掲書437頁(脚注)4〕。
 マルコは、「過越<と>除酵」の祭りとあるように、15日の食事を指して「明後日」と言っています。マタイは、マルコ福音書の「除酵祭」を省いています。マタイ福音書では、イエスが、「分かっているね。二日後の(食事の)ことは」と、弟子たちに念を押していますから(マタイ26章17~19節を参照)、おそらく、マタイがここで「過越祭」と言うのは、イエスが語り終えた13日から見て、祭りが始まる(翌日の)14日と、その次の15日の食事の日との「二日間」を考えているのでしょう〔フランス前掲書970頁〕。
【人の子は・・・・・】「人の子」については、182章の注釈(Ⅰ)の「人の子」の項目を参照してください(ヨハネ1章51節も参照)。イエスは、ここで、自分の十字架の死を過越祭に屠られて神に献じられる犠牲の小羊と同一視しています。このことは、さらにマタイ26章17~29節で、明らかにされます。共観福音書での最後の晩餐が、ニサンの15日の過越の食事であることをマタイ福音書は明確にしています。イエスが過越の小羊であることは、ヨハネ福音書とも共通します(ヨハネ1章29節/同12章31~33節/同13章1節)。ヨハネ福音書では、イエスの十字架刑が、過越の小羊が屠(ほふ)られるニサンの14日の出来事だと言われています。イエスが、「自ら進んで」十字架刑を受けた点でも、マタイ福音書とヨハネ福音書は共通します。
[3]【祭司長たちや民の長老たち】「祭司長たちと民の長老たち」は、マルコ=ルカ福音書と異なります。ここで言う「民の長老たち」は、聖職者ではないが、エルサレムの最高法院(サンヒドリン)を構成するメンバーのことです(マタイ16章21節参照)。「民の長老たち」には、「律法学者たち」という異読が幾つかありますが、これは、マルコ福音書と一致させるための後代の読み替えでしょう。
 なお、マタイ福音書に30回以上も出てくる「ファリサイ派」が、この箇所以後にはでてきません(27章62節だけ)。マタイの用いた資料には、「ファリサイ派」が欠けていたのでしょうか。あるいは、マタイは、イエスを殺そうと企てたのは、律法学者やファリサイ派という神学的な立場の人たちではなく、エルサレムの神殿制度を支える祭司たちやこれに関わる「民の長老たち」のような「政治的な」立場の人たちによると見ているのでしょうか〔フランス前掲書971頁〕。
【カイアファの屋敷】カイアファは、イエスの時のユダヤの「大祭司」です。当時のユダヤ地域は、ローマの直轄領で、ヘロデ王のガリラヤ領とは異なり、王がいません。だから、大祭司は、神殿制度の頂点に立つだけでなく、「ユダヤ」の最高権力者です。しかし、大祭司の任命権は、ユダヤ人ではなく、ローマ皇帝(と当時の地方長官ピラト)が握っていました。カイアファは、紀元18年~36年という長期にわたって大祭司職にありましたから、政治的にも巧みで、ローマからの受けもよかったと思われます。カイアファについては、これ以上のことが分かりませんが、1990年に(エルサレムの東にあたる「平和の森」?で)、立派な墓が発掘され、これが「大祭司一族の墓」であることが分かったと報告されています〔デイヴィス前掲書(3)438~39頁〕。
 「カイアファ」の名前は、マルコ福音書にはなく、マタイ26章に2回、ルカでは、ルカ3章2節と使徒言行録4章6節の2回だけです。ヨハネ福音書では、カイアファの姑(しゅうと)「アンナス」と共に(ヨハネ18章24節)6回もでてきます。この名前は、今回のマルコ=ルカ福音書には出てきませんから、明らかにマタイ(とその共同体)独自の伝承からでしょう。ヨハネ11章51節では、カイアファが、イエスは「民の身代わりに」処刑されると預言しています。ヨハネ福音書のほうは、マタイ共同体のものと類似の内容ですが、マタイ福音書のものとは「別個に」伝えられた伝承からでしょう。
 「屋敷」(ギリシア語「アウレー」)は、官邸/館の「中庭」と「館の内部」の両方を指します。「(下?)相談した/協議した」とあるのは、(この段階では)まだ正式の「会議」(最高法院)のことではないと見るほうがいいでしょう〔ルツ前掲書77頁〕〔フランス前掲書971頁〕。イエスの頃のユダヤの最高法院は、大祭司の官邸ではなく、神殿の城壁の西側から「上の町」へ通じる橋の下に議会場があったからです。今回のマタイは、この最高法院を指しているという見方もありますが〔デイヴィス前掲書439頁〕〔ノウランド前掲書絵1047頁〕。ヨハネ11章47節には、「カイアファ」の名前と共に、イエスの当時の「(ユダヤの)最高法院」(ギリシア語「シュネドゥリオン」)が出ています(マルコ14章55節/マタイ26章59節/ルカ22章66節を参照)。
[4]マルコ=マタイ福音書は「策略によって彼(イエス)を捕縛した上で殺そうとした」です。マタイ福音書では、マルコ福音書の「彼」が「イエス」とはっきり明示されます。「策略」とは「法にかなう巧みなやり方」のことで、法的な正当性に見せかけながら、その裏をかいて(不当に)意図することを行なう「だましの手口」です。祭司長たちは、「法にかなうやり方でイエスを殺そう」と「念入りに下相談を行なった」(マタイの「相談した」)のです。これを妨げているのが「祭りの群衆」です。神を賛美する祭りこそ、イエスが「民衆のもの(者)」であることを深く印象づけています。「(祭りという)民の自由を幇助(ほうじょ)すべき権力が、民の自由を促している張本人(イエス)を殺そうと密かに企てる」ことが生じています(マタイ21章1~11節参照)〔デイヴィス前掲書(3)439頁〕。結果的に、彼らは、民衆を扇動して、イエスを十字架刑に処することに成功します(マタイ27章20~26節)。
[5]【騒ぎが起こる】マルコ福音書では「祭りの間は民衆が騒ぎだすといけない」で、マタイ福音書は「祭りの間に、民衆に騒ぎが起きるといけない」です。これは、「祭りで集まってきた群衆の目の前で(イエスを捕らえる)」行為のことでしょう。前マルコ受難物語では、「祭りの最初の日(ニサンの14日)にイエスの捕縛が行なわれた」とあったのではないか(?)という説があります。これだと、ヨハネ福音書の記述(14日の捕縛と受難)と合致します〔デイヴィス前掲書439頁〕。
 
■ルカ22章
[1]マルコ福音書では、「さて」「過越祭と除酵祭」が「二日後になった」で、ルカ福音書では、「さて」「除酵祭の祭り、(すなわち)過越と呼ばれるもの」が、「近づいていた」です。ルカは、マルコ福音書の言い方を分かりやすく言い換えていますが、「二日前」を意図的に省いたのでしょう。マルコ福音書は「捕縛して殺そう」で、ルカ福音書は「亡き者にしよう」です。
[2]節の前半の謀議の部分は、マルコ福音書と文字どおり一致していますが、節の後半で、ルカは「騒動/騒ぎ」という語を省いています。マルコ福音書では「民衆が騒ぎだす」で、ルカ福音書では「民衆を恐れていた」です。「祭りの間は」を省いたのは、イエスの実際の逮捕と合わないからでしょう。
                     イエスを殺す計画へ