189章 ユダ裏切りを画策
(マルコ14章10〜11節/マタイ26章14〜16節/ルカ22章3〜6節)
【聖句】
■マルコ14章
10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
■マタイ26章
14そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
15「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
16そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
■ルカ22章
3しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
4ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
5彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
6ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
【講話】
■神とサタンと人について
これまで、比較的漠然としていたイエス様の敵対者が、ここへきて、 その具体的な姿を現わし始めます〔ボヴォン前掲書138頁〕。ここで、キリスト教史における著名人たちの解釈をごく簡単に紹介します〔Bovon. Luke (3).137--38.〕。
テルトゥリアヌス(160年頃〜225年頃の教父)は、イエス様は、自ら進んで過越祭での受難への道を選び、人類に救いをもたらすために、神への贖いの犠牲の小羊となられた。この目的のために、ユダや敵対者たちの手に自らを渡されたと説きました。
ボナヴェントゥラは(13世紀のイタリアのスコラ神学の枢機卿)は、旧約と新約との調和を図るために、イエス様自らが、過越での裏切りの日(水曜日)をお選びになった(ヨハネ13章1〜3節)。だから、裏切りの日づけは、ユダの選択によるものではないと解説しています。
エラスムス(1466年〜1536年。宗教戦争時代のオランダの人文主義者)は、人間の犯す悪事もまた、神の意志からでた出来事であって、サタンもまた、人を通じて誘惑や裏切りを行なわせると解釈しました。
グロティウスは(1583年〜1645年。オランダの自然法学者)、サタンの業を「この世の人間を支配するもろもろの悪しき空中の霊力(エフェソ2章2節)」だと見なして、ユダの裏切りもまた、神の意志無しにはありえないと考えました。
■十二人の一人
イエス様が、「十二人の一人」に裏切られたという伝承は、原初の教会から出ているようです。イエス様が、ご自分の受難を弟子たちにしばしば予告されたことは、共観福音書が証しするとおりですが、その受難が、イエス様と最も親しい内弟子の裏切りによって起こると、前もって警告されていたのでしょうか。ヨハネ福音書にその警告らしい記事がありますが(ヨハネ6章70〜71節)。弟子たちのほうは、そのような事態を全く予想していなかったようです。最後の晩餐で、イエス様が内弟子の裏切りを明言されても、弟子たちは、にわかに信じがたい様子だったことが分かります(マルコ14章18〜19節)。ヨハネ福音書には、事が起こったその時でさえ、ユダになにが起こったのかを理解できなかったとあります(ヨハネ13章28〜29節)。それだけに、私には、この「十二人の一人」という不特定の言い方が、不気味に感じられます。
イエス様から深く信頼されていたペトロでさえ、いざとなったら危なかったのですから(マルコ14章66〜72節)、十二人の誰もが「裏切り者のユダ」になる可能性を秘めていたことになりましょう(マルコ14章50節)。なんのことはない。かく言う私をも含めて、クリスチャンは、誰でも「ユダ」になりえるのです。
それだけに、いったいユダは、どうしてイエス様を裏切ったのだろうという疑問が湧いてきます。昔からいろいろな憶説が流されていますが、これについて、共観福音書は口をつぐんで一切語りません。だから、自分なりの想定を言わせてもらえば、イエス様ご自身の思惑(おもわく)と、「ユダが理解している」イエス様の思惑とが、食い違っていたのではないか?というのが私なりの推定です。なぜそう思うかと言えば、自分がこうだと信じて、自分では「理解しているつもり」のイエス様と、祈りを通じてイエス様の御霊に導かれるままに歩んだ結果起こる出来事とが、一致するどころか、相反する事態がしばしば生じるからです。イエス様を信じたその結果が、「善かった」時には、主の恵みを感謝するのですが、結果が「善くない」と、自分の「理解力の至らなさ」を責める代わりに、なんとなくイエス様への不信感を覚える。こういう体験は、私一人ではないだろうと思うのです。己(おのれ)の想いと、イエス様から与えられる想いと、この両者の食い違いは、クリスチャンならだれでも経験することです。実を言えば、結果が「善くなかった」と思われる場合でも、そこに「想いもよらない」神の奥深い摂理が潜んでいたことを後になって悟るのですが。
■謙虚な霊知
「(自分が)信じているつもりのイエス様」と、実際に体験して知る「イエス様の導き」とのこういう食い違いこそ、共観福音書が証しするとおり、イエス様が、人ではなく、神の御子であることの証にほかならない。私は、こう悟るようになりました。神の御心と、その御心を察知しようと「試みる」人の思い、そこに横たわる超えがたい溝と、その溝を「埋めよう」とする人の思惑(おもわく)との「せめぎ合い」は、個人レベルでも、共同体のレベルでも、今までも続いてきたし、今後も続くだろうと思います。
自然科学の分野においても、人知による「理解」と、自然界との間に、こういう「せめぎ合い」を見ることができます。最近(2023年)の知見では、宇宙全体の構成は、ダーク・マター(謎の物質)が27%、ダーク・エネルギー(謎の力)が68%、残りの5%だけが、人・物・自然を構成する物質として、人知による「理解可能な範囲」だとされています(『朝日新聞』2023年8月8日)。人知による理解が、宇宙全体のわずか5%の範囲にしか及ばない。私が興味深いと思うのは、この「真実」が明らかになるのが、最近の驚くほど発達した天体望遠鏡と、これを用いて気が遠くなるほど遠方の天体や銀河を観測する科学者たち努力の結果だということです。人類は、その知識が増大すればするほど、逆に「分からないこと」が多くなるのが「分かる」。こいう皮肉な巡り合わせが見えてきます。自然科学者たちを含めて、人知が宇宙を解明するほどに、その謎が、減るどころか、逆に増大する。しかも、こういうことを悟る「謙虚な人知」こそが、より深くより広く宇宙を解明できるのです。神の御子であるイエス様の霊知と、クリスチャンを含め、私たち人間の知力も、こういう不思議な関係にあることを今回の「裏切り」の記事が伝えてくれるように思います。御霊に導かれる私たち人間の知恵を「霊知」と呼ぶなら、人の「霊知」には「謙虚さ」が最もふさわしい。こう思います(第一コリント2章7〜16節)。
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