【注釈】
■マルコ14章
 イエスの体への埋葬の備えができたので、ここから、受難への歩みが始まります。マルコ14章10~11節は、前マルコの口頭伝承の段階では、14章1~2節とつながっていたと推定されています。14章1~11節全体は、マルコによって編集されています。
[10]【十二人の一人】イスカリオテのユダは、「イエスを裏切った者」としてマルコ3章19節に、「イエスを祭司長たちに引き渡す相談者」として同14章10節に、さらに、「イエスと一緒の鉢に食べ物を浸す者」として同14章18~20節に、「イエス逮捕の合図のために接吻する者」とした同43~45節にでてきます。しかし、イスカリオテのユダがイエスを裏切った動機について、マルコは一切語りません。イエスが「十二人の一人」に裏切られたという伝承は、最初期の口頭伝承からで、「十二人の一人」は、「イエスを裏切った者」を意味する「呼び方」として伝承されたと思われます(マルコ14章20節/同43節参照)〔ボヴォン前掲書644頁〕。
【祭司長たち】イエスがエルサレムへ来て以来、神殿で行なった行為や言説が、エルサレムの指導者たちを甚(いた)く刺激したことでしょう。彼らは、騒ぎを起こさずにイエスを捕らえて処刑しようと企んでいましたから(14章1節)、イエスの弟子たちから、内通者が出て、一行の「夜間の情報」をもたらすことをとりわけ喜んだのです。
【引き渡す】原語「パラディドーミ」は、(敵や裁判官に人や物を)手渡す/委ねる/預けることです。マルコは、この用語で、ユダの行為を「説明しよう」としています。ちなみに、ギリシア語で、金をもらって「裏切る」は、「プロディドーミ」です。「引き渡す」(パラディドーミ)は、ユダの裏切りがどのような動機によるのかが判然としないままに、最初期の教会以来の用語だと思われます〔Bovon. Luke 3. 136〕。
[11]【金を】金額は明示されませんが、ユダの行為が「金銭ずく」でもあったことが、これで明らかになります。「約束した」とあるので、実際の支払いは、イエスの逮捕後に行なわれたことになります(この点で、マタイの「その場」での即金と異なる)。
 
■マタイ26章
  マタイ福音書では、今回の26章14節が、ギリシア語の「トテ」(それから/その時)で始まります。この「トテ」は、次に、26章31節に現れて、三度目に、同36節に出てきます。マタイの念頭では、ユダの裏切り行為が、続く最後の晩餐にも影を落としていて、さらに言えば、主の聖餐制定にもその影響が及んでいるように想われます。続く「トテ」は、ペトロへの否認予告の始まりであり、三番目の「トテ」は、ゲツセマネでのイエスの逮捕(これもユダの合図!)の始まりです。ユダヤ人であり、イスラエルの宗教的伝統を重く観るマタイにとっては、「ユダの裏切り」が、イエスを十字架にかけた「ユダヤ人の裏切り」と重なり、それだけに、マタイ自身の意識にも赦しがたく(?)厳しい「重荷」となっていたことをうかがわせます。
[14]~[15]マタイは、ユダに「なにをくれますか?」と言わせて、金目当ての裏切り画策であることをはっきりさせています。このユダは、エルサレムでのイエスの振舞いが、イスラエルの安全を脅かすと思ったのでしょうか。マタイは、「十二人」の中で、このユダだけが、ガリラヤ出身でないことを意識していたのかもしれません〔R.T. France. The Gospel of Matthew. Eerdmans (2007)978〕。
【銀貨30枚】金額を明記しているのはマタイだけです。マタイは、おそらく、主の羊を守らない役立たずの牧者たちを非難するゼカリヤ書に出てくる「賃金として銀の貨幣30シェケル」(同11章12節)(聖書協会共同訳)/「銀30シェケル」(フランシスコ会聖書研究所訳)を念頭においているのでしょう。古代イスラエルでは、捕囚期以後のペルシア時代頃まで、高価な銀は、貨幣ではなく、重さで量り売りしていました〔TDOT(7)271頁〕。銀の重さを量る単位が「シェケル」で、ほんらい、1シェケル=11.4グラムですが、イエスの頃には、銀1シェケル=5.6グラムほどに(?)変わるようです。イスラエルで、銀が「貨幣」として使用されるのは、ペルシア王朝の支配時代の後期からギリシア王朝時代にかけてですから(前4世紀)、ネヘミヤ記5章15節の「銀(貨)40シェケル」が、銀貨が使用される始まり頃になります〔TDOT(7)271頁〕。
 イエスの頃の銀1シェケル(銀約5.6グラム?)の銀貨は、パレスチナ北部のティルスかアンティオキアで鋳造されたものですが、高価な銀貨は、その流通も限られていました。このシェケル銀貨1枚は、当時のギリシアの4ドラクメ銀貨=ローマの4デナリ銀貨に相当します。シェケル銀貨30枚は、イエスの頃、労働者の4か月分の賃金になります(Anchor Bible Dictionary)。だだし、「30シェケル」は。かつての奴隷一人分の値段ですから(出エジプト記21章32節参照)、「大金」とまでは言えないようです〔Davies & Allison. Matthew 19--28. ICC. T&T Clark(1997)450〕「銀30シェケル」はゼカリヤ書に出てきます。ゼカリヤ書9~14章は「第二ゼカリヤ」と呼ばれて、捕囚期後に神殿再興を唱えた預言者ゼカリヤ(前6世紀)によるものではなく、イスラエルがギリシアに支配される前4世紀~前2世紀の間に、複数の(?)預言者たちによって書かれたと思われます。ゼカリヤ書10章では、ユダの家が主ヤハウェによって強くなり贖われると約束されますが、11章に入ると、羊を飼わない「役立たずの牧者たち」への批判と、屠(ほふ)られるために「売り物にされる羊たち」の惨めな有様が出てきます。主ヤハウェが、羊を養牧する契約を破棄したために、主の命を受けて羊牧していた預言者自身も、羊を売り買いする商人たちから「賃金を受け取る」ことになり、彼らは、「銀30シェケル」を主の預言者に支払います。商人たちから預言者への賃金を「主ヤハウェ自身への賃金」と見なして、主は、預言者に皮肉交じりにこう告げます。「わたし(主ヤハウェ)は、30シェケルという<結構な値踏み>をされた」(ゼカリヤ書11章13節)。実は、マタイ福音書のこの箇所には「30<スタテール>銀貨」という異読があります。1スタテール=4ローマ・デナリですから、これで労働者4ヵ月分の賃金になます。
 
■ルカ22章
 ルカは、イエスを殺す計画とユダの裏切りとをつないでいます。ルカはここで、前マルコ受難物語ほんらいの形を採用しています〔Joseph Fitzmyer. The Gospel According to Luke. X--XXIV.1373.〕。ルカのユダは、マタイの直接話法とは異なって、マルコに従って間接話法で語っています。
[3]【十二人の中の】ルカは、「十二人に<数えられる>一人」と加えています。ユダが十二弟子に「数えられる」のは、外見上のことで、実際はイエスに忠実ではなかったという意味でしょうか〔マーシャル前掲書788頁.〕。
【サタンが入った】共観福音書で、この場でサタンが出てくるのはルカ福音書だけです。これはルカの独自資料(L)からでしょう。ルカは、「サタン」よりも「悪魔」(原語「ディアボロス」のほうを好みますから、ここのサタンは、ヨハネ福音書と共通することで注目されています(ヨハネ13章2節/27節)。ルカとヨハネの二人の資料に先立って、両者の資料に共通する伝承が存在していたことを示しています〔Howard Marshall.The Gospel of Luke. NIGTC. The Paternoster Press(1979).788〕。なお、ここで「サタンが入った」とあるのは、イエスへの試練の後で「(悪魔は)その時が来るまでイエスを離れた」(ルカ4章13節)と対応していると見る解釈があります。
[4]【神殿守備長たち】神殿護衛の役人は、神殿警護の総指揮官(主管)が、単数形で、使徒言行録に出てきます(使徒言行録4章1節/同5章24節/26節)。神殿制度の最高責任者である大祭司のもとには、複数の祭司長たちがいました。同様に、神殿警護の最高責任者(神殿の主管)のもとにも複数の神殿守備長たちがいたのです。ちなみに、神殿警護の最高責任者と大祭司の二人は、パレスチナを支配するローマ帝国の権力者たち(シリアの知事とユダヤの代官)に対して、帝国への反乱を防ぎユダヤの治安を守る全責任を負わされていました〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』(20巻:6章131節を参照〕。
[6]【承諾した】「約束/契約したことを守る」の意味で、ユダが、金を受け取ることを条件に、イエスを引き渡す好機を伝えること意味します〔マーシャル前掲書789頁〕。
                         
 ユダ裏切りを画策へ