191章 裏切りを予告
マルコ14章18〜21節/マタイ26章21〜25節/ルカ22章21〜23節
【聖句】
■マルコ14章
18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」
19弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
20イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。
21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
■マタイ26章
21一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
22弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
23イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
24「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
25イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
■ルカ22章
21「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
23そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
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【講話】
■裏切る自由
ユダによる裏切りへのイエス様の予告場面について、もしも、これを現在(2023年11月)の権力者の場合と置き換えるとどうなるでしょう?ロシアの首相プーチンの側近の中に、ウクライナと結託してプーチンを暗殺しようとする者が居ることが発覚したら、その裏切り者は、即刻逮捕されて、必ず処刑されます。現在の代表的な宗教組織を例にとれば、仮に、ローマ教皇の側近の枢機卿の中に、イスラムの過激派と結んで教皇を暗殺しようとする者がいることが知れたら、その者は、直ちに逮捕されます。ところが、共観福音書によれば、イエス様を殺そうとするユダの裏切りが告げられたその後でも、ユダは、そのまま、イエス様と最後まで食事を共にしたとも想えるほど、弟子たちは、起こった出来事が理解できなかったようです! イエス様が裏切りを警告したその後でも、ユダは、最後の最後まで、「悔い改める」機会を与えられていたとも想われます。この裏切り予告の場に、イエス様の驚くべき寛容と、ユダへの「神の憐れみ」を読み取ろうとする伝統的な解釈があります。
■ユダの裏切り
イエス様のこういう「寛容」は、裏切りが、「神によって定められたご計画」だから、ユダは、たまたま、そのご計画のために「用いられた」だけであることを、イエス様が御存知だからだ。こういう「もっともらしい」理屈を考える人もいるようです。神の定めに人間は逆らうことができないから、「ユダに罪はない」のでしょうか?
ここで、「ユダの責任」を考える際に、私が思うのは、ユダの振舞いに見る驚くべき「自由」です。四福音書によれば、イエス様は、ユダが「裏切り者」になることを早くから予測していたようです(ヨハネ6章70〜71節)。ユダが、何時どの段階で裏切りを決意したのかは知るよしもありませんが、一つだけ確かなこと、それは、ユダが、イエス様と共にありながらも、自己の思いと行動において、大幅な「自由」が認められていたことです。これは、ユダだけでなく、弟子たちの誰についても言えることです。ユダは、この自由を自己流に「悪用」して裏切りを画策し、それが告発された後でも、なおも素知らぬ顔で、その場に居続けることが「できた」とすれば、これは不思議なほどの「自由」です。
■自由の怖さ
「自由」は、現代では、人権問題などと結びつけられて、あたかも、それ自体が絶対的な「善」であるかのように言い立てられていますが、実は、人間に具わる「自由」は、人にどのような恐ろしい悪事をも犯させる危険性を有しています。人間には、人を殺すだけでなく、「自分自身を殺す」自由さえ与えられています!おそらく、この「自殺する自由」は、人間以外の動物には具わっていないでしょう。ユダが、イエス様を裏切ることが「できた」のも、彼が、イエス様の「愛犬」ではなく、人間だからです。彼は、裏切り者になる「恐ろしい自由」を行使したのです。
人は、悪を行なう時でさえ、自分の行ないが「正しい」と思い込むものです。ユダも、自分の行為が、「神の目から正しい」という思い込みに駆(か)られて、はかりごとをめぐらした可能性があります。人間の心に宿る「自由な計らい」の真意を見抜くことが神にはできないのでしょうか?
「たとえ人の歩みが、自分の心の目には、すべてきれいに見通せても、
主は、その人の霊を見抜く」(箴言16章2節。私訳)とあります。
■神の出来事
人は、その自由なおもんばかりの結果がもたらす「現実の出来事」までも「自由に」操(あやつ)ることができません。出来事を「生じさせる/起こす」(ヘブライ語で{ハーヤー」)のは、「主(ヤハウェ)」と称される「働き(神)」だからです。
ヘブライ語の「ハーヤー」は、「成る/起こる/ある」の意味です(創世記1章2〜3節)。とりわけ、「誰かにハーヤーする」という言い方をしますから、その人は、「ハーヤーされる者」(筆者)になります。出エジプト記3章14節で、神はモーセに、「わたしは『わたしはある』という者である」(2017年新改訳聖書訳)とご自分の名前をモーセに告げます。七十人訳のギリシア語では「エゴー・エイミ・ホ・オーン」です。ヨハネ福音書では、イエスが、自分を指して、「エゴー・エイミ」(私はある/居る)と告げます。「ハーヤー」とは、「ある」だけでなく、神に「あらしめられる」ことによって、その結果「ある」というのが正しい理解の仕方です。だから、出エジプト記の名前を「私は、有らしめられて有る者」と訳すことができます。創世記で、神は「光よ、ハーヤーせよ」と言われます。これは、単に「光が存在する/ある」ことだけでなく、「光を存在させている者(神ご自身)がそこにある/居る」の意味をも含んでいます。〔「ヘブライ語の広がり」『船の右側』地引網出版(2023年10月号)。水垣渉(わたる)。1935年生まれ。元京都大学文学部キリスト教学科主任教授〕
■人の自由
ユダは、自分の自由な思惑がもたらしたその結果までは自由にすることできず、自殺しました(マタイ27章3〜5節)。ユダの裏切りを通じて、自分の体と血(命)を弟子たちに与える「十字架の出来事」を成就させたのはイエス様のほうです。「人の心は自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを導く(決める)のは主(ヤハウェ)」です(箴言16章9節(フランシスコ会聖書研究所訳)。
人の自由は、「事を起こす」(「ハーヤー」する)神の自由に支配されますから、人の自由は、現実に起こる出来事を左右できません。人は、わが身に起こる「出来事」を自由にすることができません。人にできるのは、「あなたのする業を主がなさるままに委ねよ。そうすれば、あなたの意図することが確立する」(箴言16章3節)ことです。
私たちは、人間に与えられている「自由の怖(こわ)さ」をどこまで認識しているでしょうか?国を与る権力者たちは、しばしば、己の絶大な自由におごり高ぶり、民を苦しめる虐待と非道を繰り返し、暴虐の限りを尽くします。ヨハネ黙示録13章には、こういう「魔性を帯びた権力」が、野獣の姿で現われます。だから、ルカは、人の思い上がりがもたらす「自由」の恐ろしさを見抜いて、ユダへの裏切り予告の後に、使徒たちが、「この世の権力者」に見習うことをせず、「自分に与えられた自由」を「正しく行使する」ようにイエス様の戒めを続けています(ルカ22章24〜30節)。
■クリスチャンの自由
私たち日本人のクリスチャンたちは、どうでしょうか? 現在、の日本の大部分のクリスチャンは、信仰においても組織においても、大幅な自由を与えられています。私たち一人ひとりは、はたして、自分に与えられている「自由」に潜む危険性を認識しているでしょうか? それぞれが、霊的に成長するようにおもんばかって、互いの信仰を助け合い、主の御霊にある交わりを築き上げるよう心がけることをしない/させないで、自分の思い上がりから人を批判し、信仰の仲間に亀裂をもたらしたりしてはいないでしょうか?
「私の仲間たちよ、あなたがたは自由になるために召し出されたのです。
ただし、その自由を人間にありがちな思い上がりでなく、
愛によって互いに奉仕し合うよう心しなさい 」(ガラテヤ5章13節:私訳)。
「あなたがたが、この私の弟子であると、誰にでも分かるように、
互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章35節:私訳)。
主が、その終わりに与えてくださったこの戒めを忘れてはいないでしょうか。
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