【注釈】
■マルコ14章
[18]【席に着く】「席に着く」の原語は、身を横たえて食卓に向かうことです。これは、特に「ギリシア・ローマ風」の宴席を意識している言い方ではないでしょう。過越の食事が通常とは異なる特別の食事であることは、すでに当時のユダヤのしきたりだったからです〔R.T.France. The Gospel of Mark.NIGTC. 565--66.〕。なお、ユダを含む十二人は居ますが、ガリラヤからついてきた女性たちや部屋を用意した主人とその家の者は居ません〔John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. The Paternoster Press(2005).1065.〕。
【イエスは言われた】「アーメン、私はあなたがたに告げる」という重々しい言い方は、弟子たちにとって、これが初めての「裏切りへの予告」だからです。弟子たちは、エルサレムへの旅が始まる前に、すでにフィリポ・カイザリアで、「人の子が、苦難を受けて、祭司長たちに殺される」(マルコ8章31節)と予告されていましたが、それが、まさか「内弟子の裏切り」で生じるとは思いもしなかったのです。マルコは、とりわけ、イエスの「先見性」を重視しているのでしょう。
【わたしと一緒に食事を】ここは、「私の親しい人で自分が信頼できる者、私のパンを食べている者が、私に向かってかかとを上げた 」(詩編41篇10節)を踏まえています。自分が信頼し、親切の限りを尽くした(私のパンを食べた)人が、偉そうに私を足蹴(あしげ)にした」という意味です。「かかと」(原語「アーケブ」)は、「だます/相手のかかとを取る早業をする」(アーカーブ)や「欺きの裏切り者」(アーケーブ)とも読むことができます。"develop an ambush against me"〔Rabbi Avrohom Chaim Feuer. Tehillim(Psalms). Vol.2. Mesonah Publications (1978). 518--519.〕/"magnified his cunning against me"〔Adera Collins. Mark. Hermeneia(2007)..649.〕。イエスがこの詩編から引用したのは、そこに記されている裏切り行為が、いかに欺きと欺瞞に満ちたものかを明らかにするためです。
[19]「まさか、私のことではありませんね?」と尋ねる弟子たちは、「あなたではない」という返事を期待しています。もとのアラム語では、「私はそうでない」と否定する言い方だという説もあります〔France. The Gospel of Mark. 566.〕。
[20]イエスの答えは、「(あなたがた)十二人の一人である」です。ここでユダは、十二人の一人として、食事が終わるまで、イエスと親しさを装(よそお)いながら、パンをイエスと同じ器(うつわ)に浸して食べていたのでしょうか?〔France. The Gospel of Mark. 566.〕。「誰だか分からないけれども、とりわけ親密な人」〔France. The Gospel of Mark. 566.〕の「信じられない」裏切り行為が指し示す「凄まじいほどに重い意義」〔Collins. Mark. .649.〕を感じ取ることができます。
[21]【人の子を裏切る者】「災い」言葉を含むこの節は、伝統に裏付けられた言い方を伝えるものです〔W.D. Davies and D.C.Allison. Matthew 19--28. ICC.T&T Clark(1997)462/463.〕。ここのイエスの言葉は、次のように構成されています。
 
<人の子>は彼について書かれてあるとおり去る
だがその<人>は災いだ
<人の子>が裏切られるから
その<人>は生まれないほうがよかった。
 
  「人の子」の一般的な用例と意味についは、コイノニア会ホーム・ページ→聖書と講話欄→共観福音書補遺欄にある「人の子について」をお読みください。「人の子」が裏切りに遭(あ)うことは、マルコ14章18節で予告されています。「聖書に書いてある」ことは、すでにマルコ9章13節でも言われていますが、具体的には、詩編41篇6~10節を指しているのでしょう。「人の子」の受難については、マルコ8章31節で告げられています。「去る」は「死ぬ/逝く」ことです。裏切り者がたどる運命について、マルコ福音書は触れていません(マタイ26章3~5節/使徒言行録1章18~20節を参照)。「その者を<通じて>人の子が裏切られる」という言い方は、裏切りが、(イエスが予知するように)人を通じて「神の定め」によることを示唆するのでしょう。だからと言って、その裏切り行為の罪が軽くなるのではありませんが〔France. The Gospel of Mark. 567.〕〔Collins. Mark. .651--52.〕。
【災いあれ】「災いだ」で始まる言葉は、これをマタイ18章6~7節/ルカ17章1~2節の「災い」と関連づけることができます。マルコ14章21節の「災いだ・・・生まれないほうが善かった」(ヨブ記3章を参照)は、(70年頃の)マルコによる挿入だという説があります)。マルコは、(マルコの頃の教会への)迫害と尋問の時に、キリスト教会のメンバーたちが、イエスを「裏切らない」ようここで警告していると見るのです〔Collins. Mark. .652.〕。
  この説が正しいかどうかを検証すために、ここで、マルコ福音書にある「受難予告の人の子」言葉だけを整理してみる必要があります〔以下は、TDNT(8)443~46頁によります〕。マルコ福音書で、直接受難に関わる「人の子」言葉は、ペトロの信仰告白後の8章31節/山上の変貌後の9章9節/ガリラヤ通過時の9章31節/エルサレムへの途上の10章33節/裏切りへの予告と共にマルコ14章21節/ゲツセマネでの14章41節の六つです。
 これらはどれも、イエス自身に当てはめられた「人の子」ですから、何らかの形でイエス自身にさかのぼる可能性を秘めています。
(1)8章31節では、「必ず~なる」と聖書による預言を示唆しています。「多くの苦しみを受ける」「排斥される」は、直接祭司長たちに「拒絶され」、彼らの手で「殺される」よりも漠然とした言い方です。これは、五つのうちでも、イエスの口から出た古い伝承によるものでしょう〔TDNT(8)444~45頁〕。
(2)9章9節は、人の子が、「死者の中ら復活する」ことに集中しています。「死者の中から」というよみがえりへの「神学的な定義」は、教会によるものです。「人の子」言葉の「謎」が、弟子たちには最後まで理解できなかったとあるのはマルコ福音書の一貫した主張です。
(3)9章31節には、「渡され、殺され、復活する」とあるだけで、旧約聖書への言及がなく、相手はただ「人々」とあるだけですから、この単純な言い方は、古い伝承によるものです。
(4)10章33節には、「異邦人へ渡される」「嘲る」「むち打たれる」「唾を吐く」など、イザヤ書50章6節と同53章7~8節で預言されている「受難の僕」を想わせる言い方が用いられています。これらは、イエス自身による受難の僕への自覚へさかのぼると見ることもできますが、これらは、イエス復活信仰の直後のパレスチナの教会による伝承から生じたと見ることができます。この33節が、マルコの手による創出だと見なす必要はありません〔France. The Gospel of Mark. 413.〕。
(5)14章21節には、主の晩餐の直前に、裏切りへの予告と共に「人の子」がでてきます。「災いあれ」は、イエスのアラム語へさかのぼることができますから、続くイエスの聖餐への言葉と共に、最古の伝承を保持していると見ることができます〔TDNT(8)446頁〕。
(6)14章41節では、人の子言葉が、「わたしから(杯を取りのける)」(36節)とあって、一人称でイエスの言葉が出てきます。「アッバ、父」とあり、「立て、(私は)行く」とあり、イエス自身の逮捕の出来事と結びついたこれらの言葉は、イエス自身にさかのぼる「最古の用例」だと言えます。
 以上で分かるように、(1)と(3)と(5)と(6)のように、イエスの口から出た言葉にほぼ近い古い伝承による用例もあれば、(2)のように、後の教会による解釈が加わっている用例もあり、(4)のように、明らかに教会による事後預言と思われる例もあります。ただし、(4)の用例でも、おそらく、すでに前マルコの資料に含まれていたものでしょう。マルコ自身による「編集」は、見分けるのが難しく、あったとしてもごく限られています。
 
■マタイ26章
[21]マタイは、マルコ福音書の「私と一緒に食事をしている者」を省いています。マタイは、これがマルコが詩編41篇10節に言及していることを見過ごし、節の冒頭の「一同が食事をしている」と重なると見たのでしょう。
【はっきり言っておく】「アーメン、あなたがたに告げる」という重々しい言い方は、マタイ10章4節にさかのぼります。マタイのこの21節は、26章2節と対応していて、26章25節では、裏切る者の正体が暴かれます〔John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. The Paternoster Press(2005).1065.〕。
[22]マタイは、「甚(はなは)だしく」を加えて、弟子たちの胸の痛みを強めています。また「主よ」という呼びかけを加えることで、「まさか私のことではない」に、非情な裏切りが現在の教会に及ばないことを願っています(25節のユダによる「ラビ」と比較)。弟子たちは、ここで、「故意に」ではなくても、自分の不注意から「思いがけず」裏切りをもたらす結果を招くのではないか?と怖れている。こうマタイは解釈しているのでしょうか〔Nolland. The Gospel of Matthew. 1065.〕。
[23]マタイは、マルコの「浸している者」を「その手で浸したその者」と動詞の時制を変えています。さらに「私と一緒に」を加えて、つい今し方、イエスとその者が、(食事始めのワインを口にした後で)、同時に、(おそらく苦よもぎのような野菜を)出されていたソース(果物や木の実にしょうがなどを添えた酢あるいはワイン酢)に浸したことを指しています〔W.D. Davies and D.C Allison. Matthew. 19--28. ICC.T&T Clark(1997)462.〕。しかし、その様子は、弟子たちになんの不思議も抱かせないごく普通の仕草だったのです。ちなみに、ヨハネ13章26節では、[私(イエス)がパン切れを浸して与えるその者」とあって、裏切りがユダであることをより明らかにしていますが、それでも、弟子たちは、ユダが何をしたのか、にわかに信じられなかったとあります。
[24]24節はマルコ14章21節とほぼ一致していますが、マタイは、マルコの「(生まれないほうが)善」に、「善かったであろう」と動詞を加えています。"it would be good for him..."[Nolland. The Gospel of Matthew.1067.]
[25]25節はマタイの編集による付加です〔Davies and .Allison. Matthew 19--28. 464.}。マタイは、{イエスを裏切ろうとするユダ」を繰り返して(21節と25節)、ユダの厚顔無恥を強調しています。マタイは、内弟子の中で、彼がただ一人ユダヤの出身であることも、「赦しがたい」想いだったのでしょうか〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』・小河陽訳。EKK新約聖書註解(1の4)教文館(2009年) 120頁〕。ガリラヤではなくユダヤの出身のユダによる裏切りを強く意識していたのでしょう。ユダの「ラビ」という呼びかけは、マタイ福音書では、十二弟子から見て「外の人たち」によるイエスへの呼び方です。「イエスは言う」は、事態が進行中なので現在形です。イエスの答えは、「それはあなたが言うこと」です。この答え方は、肯定・否定をはっきりさせずに、相手には分かるように語り手の意図を伝える言い方です。
 マタイ福音書では、ユダは、食事の席から立ち去ることなく、最後までその席にいて、「主の聖餐」に与ったようにも想われます(ヨハネ13章30節と比較)〔France. The Gospel of Matthew. 991.〕。 共観福音書には、ユダが、どの時点でイエスの一行から離れたかが明記されていません(マルコ14章43節/マタイ26章17節/ルカ22章47節を参照)。
 
■ルカ22章
 ルカ福音書とマルコ福音書との最大の違いは、マルコ福音書では、裏切りへの予告が先で、その後に主の聖餐が行なわれます。ところが、ルカ福音書では、主の晩餐と主の聖餐が続き、その直後に、人の子を裏切る者が共に食卓についていると告げられます。この違いについては、諸説があって結論が出ていませんが、ルカは、ここで、ルカ独自の資料(L)によりながらも、マルコの記事をも参照している(とりわけ22節)という見方が一般的です。ルカの独自資料(L)には、裏切り者への告発に続いて、イエスによるメッセージが語られています(ルカ22章24~38節)。ヨハネ福音書では、このメッセージが、さらに拡大されて「別れの言葉」(ヨハネ14章~17章)として記されています〔I.Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. The Paternoster Press (1978)807--808.〕。
[21]「しかしながら、見よ!」で始まるこの節は、直前の主のパンと杯による祝福を逆転させます(マルコの「アーメン、私はあなたがたに告げる」と対照的)。この冒頭の句はルカによる編集でしょう。続く「裏切ろうとする(者の)手が、私と共に食卓の上にある(食卓に着いている)」では、「手」が人の行為を指すセム(ユダヤ)的な言い方です〔Marshall. The Gospel of Luke. 808.〕。「共に食卓に着く」は、日本語の「同じ釜の飯を食う」のように親しい間柄を指します。「裏切ろうとする者」はルカによるもので、「私と共に」だけがマルコと共通します。
[22]この説はマルコ14章21節と共通する部分が多く、イエスの言葉にさかのぼる言い方を伝えています。ただし、「定められた(時の)区切り(境い目)に従って」「赴(おもむ)いて立ち去る」は、ルカの編集句で、神が定めた「時」の区切りどおりに、人の子が、自ら進んでこれに従って「歩(あゆ)む}ことを表わします。ルカは、続けて、「しかしながら、災いだ」と、裏切る人の罪の重さをはっきりさせています。
[23]マルコは、弟子たちの口から出た直接話法を用いていますが、ルカは、「そこで彼らは、たがいに言い合いを始めた」と間接話法で語っています。「言い合いを始めた」は、こそこそ話し合ったのではなく、一歩間違えば、言い争いになりかねない雰囲気です。23節から24節につながるこの言い方は、ルカの編集によります。
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