193章 ペトロの否認を予告
マルコ14章26〜31節/マタイ26章30〜35節/ルカ22章31〜34節
【聖句】
■マルコ14章
26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。
28しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
29するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
30イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
31ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
■マタイ26章
30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。
32しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
33するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
34イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
35ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
■ルカ22章
31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
32しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
34イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
【講話】
■イエス様の復活顕現と十一弟子
今回の共観福音書で、イエス様からペトロへ告げられる「否認予告」では(マルコ14章26〜31節/マタイ26章30〜35節/ルカ22章31〜34節)、イエス様は、(十一人の)弟子たちに、「(あなたたちは)散らされて、つまずく」と告げます。さらに、イエス様は、「私は復活して、あなたたちより先にガリラヤに行く」とも告げます。
イエス様のこの言葉から、十一人を含む弟子たちが、イエス様の十字架刑を待たずに、ゲツセマネでのイエス様逮捕直後に、早々とガリラヤへと逃げ去ったという「史実」を想定して、「(弟子たちの)ガリラヤ逃避の出来事」をイエス様はここで預言しているという説があります。この想定によれば、共観福音書の記者たちは、後で起こった出来事を前もってイエス様の口を通じて予言させていることになります。出来事が起こったその後になってから、その出来事が起こると<前もって>予言したかのように語ることを「事後予言」と言います。けれども、共観福音書の今回のイエス様の発言は、そのような「事後予言」ではありません。
あるいは、イエス様のここの発言は、世界の終末に起こるであろうイエス様の「再臨」の時に、多くのキリスト教徒たちに起こるであろう背信と棄教をペトロと他の弟子たちに重ね合わせて預言しているいう見方もあります。しかし、十字架直前のイエス様が、「復活してからあなたたちに先立って(先頭に立って)ガリラヤへ赴(おもむ)く」と告げていますから、イエス様のこの発言を、世界の終末(と再臨)の出来事への預言だと受け取るのは無理です。
何よりも、このような想定は、ヨハネ福音書を含む四福音書が証していること、すなわち、弟子たちは、イエス様の十字架直後に、なおもエルサレムに留まっていて、女性たちから「空の墓」を知らされ、その直後に、<エルサレムで初めて>イエス様の復活顕現に接したこと、その後で、復活のイエス様に「導かれて」ガリラヤへ移行したという四福音書の記述とは異なります。ただし、マタイ福音書の記述だけは、弟子たちの「ガリラヤ逃避説」を支える根拠とされる場合があるようです。筆者(私市)は、こういう「ガリラヤ逃避説」よりも、むしろ、四福音書の記述のほうが、より「史実」に近いと考えています。
■霊は強く肉は弱い
人の「霊は強く、肉は弱い」という言葉があります。「人の信仰心は強くても、人の肉体は弱いから、肉体が信仰に追いつかない」という意味にもとれますが、この言葉は、「人が、どんなに勇ましく自分の信仰を唱えていても、いざとなったら、様々な人間的な弱みを見せる」という意味に理解されています。今回の、イエス様からのペトロへの否認予告は、まさに、ペトロに代表される「強霊弱肉」の人間性を暴露するというのが、大方の解釈のようです。確かに、イエス様の逮捕後のペトロの三度の否認記事を読めば、これに先立つ彼のイエス様への「勇ましい」信仰告白は、ペトロの自信過剰から出た自己欺瞞にすぎなかったと思えましょう。なにより、イエス様からの「鶏が二度鳴く前の三度の否認」予告が、ペトロの「強霊弱肉」を強く印象づけます。
しかし、四福音書で、今回のペトロへの否認予告を読んでいるうちに、どうもそれだけではない、なにかもっと奥深い真理が潜んでいるという印象を拭えません。一つには、ペトロのイエス様への「信仰告白」が、彼の「自己欺瞞の強がり」だけとは思えない真実味を帯びていることがあります。ペトロは、「たとえ、ほかのみんながつまずいても、私はつまづかない」と誓い、イエス様に「あなたと一緒に死んでもいい」と言います。
このペトロの発言を聞いて、ほかの弟子たちは、ペトロが嘘をついているとは誰も思わなかったようです。彼の語気、彼の真剣な態度から、ペトロは、本心からそう願い、そう信じている様子がうかがわれたからでしょう。私たちクリスチャンは、だれでも、ペトロのように、真剣にイエス様を信じて、イエス様に最後までついて行こうと願っています。これが、私たちの「ペトロに見習う信仰」です。だから、ここでのペトロが「自信過剰」であり、「自己欺瞞」だと言うのなら、私たちの信仰のほうも、「自信過剰の自己欺瞞」を免れることができません。だれでも、自分では、そうでないつもりでも、なにか予想もしない困難に出逢うなら、「鶏が二度鳴く前に三度裏切る」可能性を秘めているのです。これが、「強霊弱肉」の人間の哀しさです。
■ペトロを支えたもの
私は、ペトロの三度の裏切り行為の記事を読みながら、ふと考えることがあります。それは、日本人なら、こういう哀しく恥ずべき情況に陥ったら、「自殺する」のではないか?という懸念です。ところが、ペトロは、裏切り行為の後で、悔し涙に暮れている最中でも、彼の身体は死ぬことがなく、彼は、「なおも生き続け」たのです。涙に暮れる彼の心臓は、それでも動き続けていたし、彼の呼吸も止まることがなかった。ペトロは生き続けたのです。いわば、「彼の霊は弱くなっても」、彼の肉体は、なおも彼を生かし続けさせてくれた。ペトロのこういう「弱霊強肉」を支えたのは、ほかならぬ、ペトロの身体を産み出してくれた大自然の不思議な働きです。ペトロの理解をはるかに超える不思議な大自然の働きが、ペトロをして、「霊に病んでも」なおも生き続けることを可能にした。彼の肉体の驚くべき不思議な営み、ペトロの身体を造ってくださった創造の神からのこの不思議な働きが、ペトロの「弱霊」を支えた恩恵にほかならないと私たちは悟るのです。
ペトロが、崩れ落ちかけた「信仰生活」から「立ち直る」ことができたのも、大自然から人への不思議な「弱霊強肉」の恩恵に支えられたからです。イエス様がペトロに言われたこと、「たとえサタンがあなたを罠にかけても、私は、あなたの信仰がなくならないよう祈った」というのは、彼の体を支え続けた大自然の恩恵と無関係ではありません。大自然に働く創造の神の恩恵こそが、いざというときに、人の信仰を支える不思議な御霊のお働きにつながる。イエス様の御霊のお働きには、大自然のこういう恩恵に通じるものがあるからです(マタイ6章25節〜34節)。イエス様のお言葉は、「このこと」を私たちに悟らせてくれます。ペトロと私たちを「立ち直らせて」くださるのは、神からの不思議なお働きです。私たちが、人々を「力づけてあげられる」のは、こういう神のお働きを体験したからです。これが、今回のイエス様から、「強霊弱肉」の私たちに宛てられたまことのメッセージです。ペトロの愚かさと弱さとその危なっかしい信仰は、イエス様の執り成しの祈りに支えられている姿そのものです。ペトロの勇ましくも愚かな発言は、人の自発的な言動がどんなに勇ましくても、イエス様の御霊の支えなしに、これを成功に導くことが難しいことを思わせます。
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