【注釈】
 今回の箇所は、ルカによれば「二階座敷で」(ルカ22章12節)、イエスが弟子たちと交わした意義深い会話の最後になります。これ以後、イエスと弟子たちは、「内容の深い」語り合いをすることがありません。ルカ福音書によれば、イエスは、すでに三度にわたって、これから起こるであろう出来事への「予告」と「警告」を弟子たちに伝えています(ユダの裏切り/一番偉い弟子/ペトロによる否認を警告)。これに対する弟子たちの「意外と驚き、誤解」を含めて、今回が、その四番目になります。ここでは、イエスの口から出た「剣」(つるぎ)(ルカ22章36節)への誤解が生じます。イエスは、自分の敵対者たちによって「命を奪われる」出来事を弟子たちに予告する意味をもこめて、「剣」(つるぎ)を持ち出したのですが、弟子たちの誤解は、どこから生じたのでしょうか?これが、今回の大事なテーマになります。
  ルカ福音書には、十二弟子の派遣記事と(ルカ9章1節〜6節)、72人の派遣記事(ルカ10章1節〜12節)とがでています。イエスは、ガリラヤで十二弟子を宣教に派遣し、エルサレムへ向かう途上で72人を派遣したのでしょう。72人のほうはルカだけです。72人の派遣記事は、ルカが、イエス以後の教会による伝道活動へのモデルとしてルカが創出したと見る向きもあるようですが、そうではなく、72人の派遣記事は、イエス様語録(Q文書)に基づくもので、イエスの語った言葉を伝承しています(共観福音書講話の131章「72人の派遣」を参照)。イエスのこういう「伝道形態」は、イエス復活以後の教会にも伝えられて、ルカの時代でも、宣教方法のモデルにされていたと思われます。
 ルカの今回の記事の資料は、72人の派遣資料からだと見なされています(Joseph A. Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV. Doubleday:1983.1429.)(I.Howard Marshall.The Gospel of Luke. NIGTC. Eerdmans:1978.824.)(F.Bovon. Luke 3. Hermeneia. Fortress Press:2012.182.)。今回の箇所をルカの創出によると見る説は受け入れることができません。ルカのこの記事は、ルカ以前からの資料に基づくもので、しかも、ルカは、その資料をほぼ忠実に取り込んでいます(Marshall.The Gospel of Luke. 823--824.)。語法には、ルカ的な言い方が含まれていますが、ルカ独自の語法だからという理由で、彼の「創出」だと決めつけてはいけません(前掲書824頁)。ルカの資料(L)は、36節のイエスの言葉も含めて、史実にさかのぼる信憑性を具えています(前掲書同頁)。
  72人の派遣では、エルサレムに向かうこともあって、「財布も袋も履き物も持たずに狼の中に送り込まれた小羊」のような弟子たちと、人々との間に、「平和」が強調されています(10章3節〜7節)。エルサレムへ近づくにつれて、イエスが弟子たちに説く「心構え」にも厳しさが加わるのです。そして、今や、受難を間近に控えて、イエス存命中と、イエスが地上から去った後の時代とでは、弟子たちの「心の装備」も変化しなければならない。イエスはこう説いています(Bovon. Luke 3.183.)。弟子たちは、かつて体験した「平常」とは、全く異なる「異常な状況」(Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV.1429.)に対処するために、「財布と袋」を所有するだけでなく、「剣」をも携えなければならないのです。ところが、イエスの口から出たこの「剣」が、またしても「際どい誤解」を生じさせることになります。
神の平和が支配する御国をもたらすメシアとして、イエスが口にする「剣」が、字義どうり「敵と戦うための剣」を意味<しない>のは、イエスがここで引用しているイザヤ53章12節で預言されている「受難の僕」からも察しがつきます。自分はまもなく、敵対者からの「剣による死」によって、イザヤの預言通り、「不信仰な者たちをも赦す贖いの犠牲のために命を捨てる」。イエスはこう弟子たちに予告しているのです(Bovon. Luke 3.184.)。
■ルカ22章
[35]「財布と袋と剣」の三つは、イエスのほうから切り出されます。ここの用語はルカ10章1節以下の「72人の派遣」記事からですが、語られるのは十一弟子のほうです(ルカ9章1節以下を参照)。35節のイエスの問いかけは、弟子たちの「いいえ」を予想しています。イエスのこの問いかけは、教会を指導する牧会よりも、むしろ福音を伝える「宣教」の有り様に関係します。イエス復活以後の教会では、教会から教会を渡り歩いて教えを説く「旅する伝道師たち」がいました。旅する彼らは、お金や食べ物を入れる袋だけでなく、強盗に備えるための短剣も携えなければならなかったのです。なお、財布と袋のほかに、9章3節には「杖」が出てきます。杖は、体力を維持するだけでなく、盗賊や獣や蛇などから身を守るために欠かすことができませんから、通常、パレスティナでは、杖なしの旅は考えられませんでした。「杖」は旅人の必需品でしたが、10章と22章では「杖」が抜けています。なお、35節にある「イエス在世中の弟子たちの伝道」については、共観福音書講話73章の「注釈」の「■マルコの十二弟子の派遣」を参照してください。
【財布】原語の「バランティオン」は、「帯」のようなものです。通常、これはかなり幅のある革帯で、中に金貨や銀貨などを入れるためのもので(銅貨も?)、この「帯」は、日本の昔の「胴巻」に似た使われ方をしました。イエスの頃のパレスチナでは「財布」を旅人が携帯することはありませんでした。「お金を入れる帯」を「財布」としたのは、ヘレニズムの人たちに分かりやすくするためのルカの言い換えです。
【袋】「袋」は、肩からかけるためのバンドがついた(革製の?)鞄で、大きさは今のハンドバックくらいから、さらに大きな物もありました。これはパン(大きくて丸い)などの食料を入れたり、寒さを防ぐために予備の下着を入れるためです。しかし、ここで言う「袋」は、単に食料を携帯するための袋ではなく、行く先々で、奉仕に対する施しを受けるためもあります。日本のお坊さんの「頭陀袋」(ずだぶくろ)に相当する?。「パンを持たない」ことは10章7節と関連します。
【履き物】「ヒュポデーマ」とは、通常は靴底に用いる革だけをサンダル用にしたもので、(皮)紐で足に結びつける履き物です(日本の「わらじ」のように)(織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』609頁)。
【何もありません】この原語のギリシャ語は、ほんらいの「ウーデノス」ではなく、ヘレニズム風の言い方「ウーセノス」です。ヘレニズム世界に通じるためのルカの言い換えでしょう。
[36]【しかし今は】強めの言い方で、ルカ文書でもここだけです。これは、受難を控えた「今現在」のことだけでなく、受難に直結する「迫害の危機」の時期をも示唆しています。「しかし今や」は、「もはやイエスが目に見える身体を具えた姿でこの世に存在しない」(Fitzmyer.1431.)時期での弟子たちの宣教の有り様を見通しています。
【衣を売って】「財布も袋も持たない者は、(今着ている)衣を売ってでも剣を買う」という意味にも取れますが、そういう意味ではなく、「剣を持たない者はそれを買いなさい」の意味に取る方が正しいでしょう(日本聖書協会訳)(NRSV)(REB)(Fitzmyer.1432.)。ただし、この「剣」は、新しい危機と迫害を伴う時代への「心構え」として、象徴的な意味で語られています(エフェソ6章17節を参照)(Fitzmyer.1432.)。「衣を売る」の「衣/外套」は、旅する人が寒さを防ぐのに欠かせない物ですから、イエスは、その生前とその昇天以後とでは、弟子たちの「神の国」の宣教活動に異なる対処の仕方が生じることを強く訴えるために、やや「誇張した」言い方をしています(Bovon. Luke 3.183.)。
【剣】イエスの頃のローマ軍の徒歩部隊は、革帯の左右に長剣(gladius:グラディウス)と短剣(pugio:プーギオー)を帯びていました。長剣は、長さ70〜80センチで、幅6〜8センチで、刃先の鋭い両刃(もろは)の剣です。短剣は、長さ20センチで幅5センチほどの両刃(もろは)で、柄は細長く瘤(こぶ)がついていて、片手で握りしめることができました。ローマ兵のものには、剣にも勝利のための呪(まじな)いの飾りがあり、これも飾りの付いた革(と布)の鞘に収められていました。兵士は、自分流の呪いの飾りをつけた剣を持ちたがったようです。長剣のギリシア語は「ロムファイア」で、短剣は「マカイラ」(女性名詞)です。長剣は、剣闘士(グラディエーター)などが闘うためのものですが、短剣は刺すためで、暗殺などに用いられました。ローマの共和制の最後の指導者カエサルが、議事堂内で、ブルトゥスたちの元老院議員たちによって刺殺された際(前44年)にも短剣が用いられました。
イエスがここで言うのは、飾りのない刃先の鋭い短剣(マカイラ)のことで、旅をする人が、強盗などから身を守るために、革鞘に入れて帯刀することです。 弟子たちもこの短剣を二振り携帯(所持?)していたのです。なお、イエスがここで言う「剣」は、ヘブライ4章12節の「両刃の霊剣」と同一視されたり、あるいは、ここの剣をエゼキエル21章14節〜21節の「主の裁きの剣」と関連付ける見方もあります。エゼキエル21章との関連付けには、後の逮捕の際のイエスの言葉から判断して、疑義があります。今回のイエスと弟子たちとの「剣」をめぐる会話は、「答えよりも疑問を生じさせる」(F.Bovon.Luke 3. 185.)ようです。
[37]引用箇所は、イザヤ書53章12節からです。ルカは通常七十人訳から引用しますが、ここでは、ヘブライ語の聖書からの引用です。ルカの引用は、ルカ以前の資料からのものです(Bovon.183)。新約聖書で、イザヤ書53章12節が引用されているのは、ここだけです。ルカによれば、「メシヤ(キリスト)」は、「人間の罪性」とも深く関わっていることが分かります(Bovon.184)。七十人訳では、「不法な者たち(の一人に)数えられた」とありますが、ヘブライ語の聖書では、「重罪人として(排除するように)扱われた」です。イザヤ書53章のイエスのこの引用は、「この人こそ、多くの人の罪を背負った」が続いてますが、今回のイエスの引用には、これがありませんから、「人に卑しめられることで神に高く上げられる」という「へりくだり」のテーマが、より明確に出ています(Fitzmyer. 1432.) (Bovon. Luke 3.185.)。
【犯罪人】「(律法に照らして)不義な者/背教者」「(社会的な)無法者」「(排除されるべき)重罪人」のことです。イエスをこのように扱う者たちは、その弟子たちをも同様に扱うだろうという「無視と侮蔑」を警告しています(Fitzmyer. 1433.)。
【私の身に実現する】字義通りには、「私にあって成就される」です。これは、神によって必ず「成し遂げられる」ことを指す「神的な受動態」(divine passive)と呼ばれる言い方です。この言い方は、「十字架の躓きを除去しようとする後の教会による編集/創出」から出たのではなく、イエス自身の本心を伝えているルカ以前の資料からです(Marshall.826.)。「実現する」とあるのは、「終わりにいたる」「行き着くところへ行く」ことを意味し、さらに「目的を達成する」「成就する」の意味になります。「イザヤが預言している通りのことが、自分の身に生じて、最終的に行き着くところへ来る」というのがイエスの言葉の趣旨です。
[38]イエスの答えにある原語の「イカノス」には、「有能だ」「十分足りている」などの意味があります。38節は、以下のように解釈が分かれます。
(1)イエスは、弟子たちが見せた二振りの剣を見て、「それだけあれば十分だ」と答えたのか(聖書協会訳)(NRSV)。
(2)弟子たちの悟りの鈍いのに呆れて(?)「もうたくさんだ!」と皮肉をこめて言ったのか(Marshall.The Gospel of Luke. 827.)(REB)。
(3)あるいは、「その話はそこまで」と打ち切って、言葉ではなく、実際の出来事が「剣」の使用の真の有り様を悟らせる時が来るのを待つのか(織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』教文観:2002年。267頁)。
                                 194章財布と剣へ