補遺(1)
ルカ22章43~44節について
ヨハネ1章18節では、「キリストは、父の懐にいます<ひとり子>」と記述されています。これに対して、クレメンスやオリゲネスなど、アレクサンドリア学派の神学者たちによる記述には、「キリストは、父の懐にいます<ひとり神>」とあります。「ひとり神」のほうは、イエスの神性を強調する目的で書き換えられたと考えられます。
キリスト教会から異端として破門された(紀元144年)マルキオンや、グノーシス哲学を取り込む神学者たちは、キリストの神性を強調するあまり、その人間性を否定しました。このような状況の下で、2世紀~3世紀の神学者の間では、イエスがあらゆる意味で「人間」であることを明らかにするために、聖書の本文を書き換えるという仕業が行われました。
ルカ22章43~44節は、アレクサンドリア学派のクレメンス(150年~215年頃)やオリゲネス(184/5年~254/5年)やアレクサンドリアの主教アタナシオス(295年頃~373年)たちの写本からは抜け落ちています。これに対して、ユスティノスとエイレナイオスとヒュッポリュトスなどの教父たちの写本では、イエスの人間性を明らかに示す「苦難の祈り」を表すルカ22章43~44節が記述されています。ユスティノス(100年頃~165年頃)はギリシア哲学に基づく神学者で、父と子との区別を説きました。エイレナイオス(2世紀後半)は、(現在のフランスの)リヨンの司教でした。ヒュッポリュトス(170年頃~235/6年頃)は、ローマ教会の長老です。彼らは、おそらく、イエスの人間性を否定するグノーシス主義に対抗する目的で、イエスの人間性を明らかに示すために、ほんらいのルカ福音書の原文にはなかったものを、「後から書き加えた」(?)。このように考えられ、ルカ22章43~44節は、イエス・キリストの人間性を否定するキリスト観に対抗するために、書き加えられた見なされています。
ただし、この部分が、史実として、イエスの言葉に基づかない全くの「作り事」だと断定することもできません。共観福音書の正規の伝承とは別個に伝わる「浮動的な」伝承の一つだと見ることもできるからです(Marshall.
The Gospel of Luke. 831.)。この部分が、現在も、〔 〕付きで聖書本文に入れられているのは、ここが、2世紀にさかのぼる古い教会の読みとして引き継がれているからです(Futzmyer. The Gospel According to Luke. Vol.2. 1443.)(Kurt Alant & Barbara Alant.
The Text of the New Testament. Eerdmans:1981. 310.)(Bruce M. Metzger & Bart D. Ehrman.
The Text of the New Testament. Oxford University Press : 2005. 286.)。
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