195章 ゲツセマネ
(マルコ14章32節〜42節/マタイ26章36節〜46節 /ルカ22章39節〜46節)
               【聖句】
■マルコ14章
32一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
33そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
41イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
42立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
■マタイ26章
36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
38そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。
39少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
40それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
41誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
42更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
43再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
44そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
45それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
46立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
■ルカ22章
39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
43〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
             【注釈】
            【補遺】(1)
            【補遺】(2)
             
 
             【講話】
 ゲツセマネの物語は、わたしたちに、ゲツセマネで起こった出来事を語り伝えてくれます。しかし、その語りは、出来事の真実の有り様とそこに秘められている神のみ業について、これを「伝える」と同じ程度に「隠す」働きをもしています。このため、わたしたちは、「杯」をめぐって、イエス様が、神の御前で求めたその祈りのまことの意義を悟ろうとするほどに謎が深まります。そこで、この物語を、従来、キリスト教会は、どのように理解してきたのか? 幸い、これを適切にまとめたフランソワ・ボヴォンの論文がありますので、その一端を私なりにまとめて、紹介したいと想います。
■ゲツセマネ物語の解釈の伝統
 最初期の教父たちは、ゲッセマネ物語を詩篇22篇(15節)などの預言の成就だと見なし、ゲツセマネでのイエスの祈りを「主の祈り」と結びつけています。その上で、「サタンの誘惑に負けず、目覚めて祈る」よう教えています。
 ただし、「もしもイエスが神であるのなら」、どうして苦しんだり悲しんだりするのか?という批判も生じました。これに対して、イエスの人となりは、ひたすら「神性だけ」の単一性ではなく、「神と人との二重性」を具えていて、その人間性を神への服従へ向けることこそが、イエスへの「杯」の意味であると解釈されました。この結果、「最初のアダム」と「最後のアダム」という「二人のアダム」論(第1コリント15章42〜46節を参照)が注目されるようになり、イエスを神性だけで見ることをせず、また、人間性だけで理解することもせず、その両方を具える「二つの意志」を持つお方であることが確認されるようになります。こうして、「人の子の受肉」、あるいは「神の御子の受肉」の出来事が、「受肉の神秘」として考察されるようになり、「み言葉の受肉」の神秘は、「神の摂理」と見なされて、信仰と神学の対象になります。
 中世の終わり頃には、「目覚めて祈れ」という主の教えも、主の祈りも、ゲツセマネでのイエスの悲しみも、すべては「教会の救いのため」であるいう見方をするようになります。これによって、ゲッセマネのイエスの祈りと、そこでの「血の滴る汗」には、人間を贖うことができる特徴が具わっているとみなされます。
 16世紀〜17世紀の宗教改革では、「人の子」の神秘と、彼を支える「全能の神」との関係が問われるようになります。ゲツセマネの祈りは、イエスの十字架での最後の叫び(マルコ15章33〜34節)と結びつけられて、これこそイエスの人間性の現れであると宗教改革者たちは理解しました。「一切を神のみ心に委ねる」イエスの人間性の「特異性」を宗教改革者たちは、ゲツセマネに見たのです。彼らは、そこに、「苦難への弱さ」と同時に、「誘惑に屈しない強さ」をも見いだすことができたのです。
 現代は、ゲツセマネ物語に、イエス自らが救おうとしたまさにその「世」から、イエス自身が「見捨てられる」という出来事を見ています。その裏には、「この世」においてひたすら「沈黙する」神がいます。だから、これは、人の謎でも、この世の謎でもなく、ひたすら身を隠す「神の謎」です。神は、人間に向いて「沈黙して」顕れず、その姿を見せることもせず、人の願いにも応じることもない。したがって、人への「苦難の杯」を取り下げることもしない。しかし、神は、その杯を飲む力を人に与えてくれる。こういう不思議な神を見出そうとするのです。これは、イエスが「死に渡される」ことで「命の君」となる不思議であり、クリスマスから聖金曜日を経て復活へいたる神秘が、そこに啓示されていると見るのです。
ゲツセマネ物語解釈の西欧の伝統については、「注釈」末の補遺(2)をご覧ください。
■「カクレキリシタン」の苦難とその霊統
 この「まとめ」を作成したその時に(2024年7月初旬)、『朝日新聞』(2024年7月12日)で、「遠藤周作の文学館」の記事を見ました。私は、聖書のゲツセマネの記事は、これをそのまま、250年に及ぶ日本における「カクレキリシタン」の苦難と、苛酷な弾圧にも負けることなく、信仰を守り抜いキリシタンたちの霊性の遺産とを重ね合わせることができると考えています。
 「カクレキリシタン」たちの霊性は、現在もなお、残念ながら、神道や仏教の陰に隠されて変質変貌し、ほんらいの霊性を失っているという見方が有力です。「カクレキリシタン」は、今の欧米人の目からは、正統のキリスト教を失った結果の「わけのわからない俗習」です。しかし、宗教学者たちも、キリスト教会も、日本のクリスチャンたちも、誰も気づかなかったこと、誰も言わなかったこと、すなわち「隠れキリシタン」の出来事に潜む霊性の実相。これを見抜いたのが、作家の大佛次郎です。彼は、その『天皇の世紀』で、世界におけるキリスト教の歴史でも希なほどの過酷な弾圧を乗り越えて、250年に及ぶ江戸時代を生き抜いた隠れキリシタンこそが、明治時代の日本人に先駆けて、ほんとうの「デモクラシー」を日本に作り出す力を具えていたと指摘しています。イエスと最も親しいはずの弟子たちさえも気づくことなく、苦難の杯のそばで、その真意を悟ることもせず「ひたすら眠っていた」人たちの中で、作家の大佛次郎は、津和野の「崩れ者たち」のうちに潜むキリスト教の霊性の奥深さを洞察することができたのです。明治維新において、神道も仏教もできなかったこと、真のデモクラシーとはどういものかを隠れキリシタンたちは見事に見せてくれたのです。その霊性の真価がどれほどのものかは、これを受け継ぐ当のキリシタンの末裔さえも悟ることができないほど、謎に包まれています。おそらく、日本のクリスチャンたちは、再び、あのような過酷な弾圧に閉じ込められたときに、「ああ、こういうことだったのか」と、初めてその不思議な真価に気がつくことができるのでしょう。『朝日新聞』には、キリシタンたちが、岩陰で密かにオラショを唱えたと伝えられる長崎市の外海(そとめ)の海岸の写真が載っています。キリシタンへの弾圧は、ここにも及び、その弾圧に耐えきれなくなった信者たちは、この海岸から、さらに五島列島へ逃れたと記憶しています。しかし、夕日に染まるその海は、今のわたしたちに、彼らのことを何も語ってはくれません。
 あのローマ帝国を征服したキリスト教が、もとをたどれば、預言者ホセアが唱えたとおり、「荒れ野」の時代のイスラエルの民の霊性にさかのぼるものです。それが、千年以上の時を経た後も、なお、ローマ帝国を作り変える力を発揮する霊性を生じさせたのです。こういう人間の不思議な「宗教性」を「カクレキリシタン」の霊性も受け継いでいます。これが、「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)であるイエス・キリストに具わる「人間性」であることを悟ってほしいのです。
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